第百三十五話:吹雪の夜
無機質な電子音が、中條諭の疲弊しきった鼓膜を執拗に叩いていた。救急外来の白い蛍光灯が、床に飛び散った血液の赤黒さを無感情に照らし出している。当直帯の深夜、鳴り響いたホットラインは、二次救急であるこの病院のキャパシティを遥かに超える絶望を運んできた。
「多発外傷、ショックバイタル!」
ストレッチャーの上でぐったりと横たわる若い男性は、見るからに重篤だった。顔面は蒼白で、浅く速い呼吸を繰り返し、着衣は血と泥に汚れ、四肢はあり得ない方向に曲がっている。
「転院搬送はリスクが高すぎます!ここでやるしかない!」
上級医の怒号が飛ぶ。研修医だった諭は、震える指を叱咤し、中心静脈ラインの確保に走った。大量輸液、輸血、昇圧薬。モニターの数値は一瞬持ち直したかのように見えても、すぐに危険な領域へと落ちていく。
「腹部からの出血がコントロールできない!CT室まで持たないぞ!」
「ですが、このままでは…!」
開腹して止血するしかない。当番の外科医も既に呼んである。だが、そのためにはまず、どこからどれだけ出血しているのかを正確に把握する必要がある。そのためのCT検査が、患者のバイタルサインの崩壊によって行えない。まさに悪循環。為す術なく、ただ失われていく生命を前に、医療の限界を突きつけられる。
その時だった。けたたましいアラーム音と共に、心電図の波形が一直線に変わった。
「CPA(心肺停止)だ!心マッサージ開始!アドレナリン!」
自分が胸骨を圧迫する。肋骨が軋む感触。代わる代わる仲間たちが心臓マッサージを続ける。だが、無機質な電子音は、ついに二度と生命の波形を刻むことはなかった。
「……死亡確認。ご苦労様」
上級医の静かな声が、敗北を告げる。汗だくで立ち尽くす諭の目に映っていたのは、救えなかった命と、自らの圧倒的な無力感だった。
獣の唸りのような風の音が、遠のいていた意識を現実に引き戻す。
レオナール・ヴァルステリアは、はっと目を開けた。額にはじっとりと汗が滲んでいる。暖炉の火が穏やかに揺らめき、部屋の中は温かいはずなのに、背筋を悪寒が走った。
(……また、あの夢か)
前世の、医師として最も無力だった頃の記憶。母を救えなかった悔しさと並び、彼の魂に深く刻まれた敗北の傷跡だ。なぜ今、このタイミングで……。
アンブロワーズの厳しい冬が牙を剥き、猛烈な吹雪がゲストハウスを揺らしている 。窓ガラスを叩きつける氷の粒が、外界との繋がりを拒絶するかのように、壁を白く染め上げていた 。
机の上には、王都への帰還を前に書き上げていた手引書の最終稿が広げられている 。外科医療への確かな扉を見つけた今、過去の無力感など振り払うべきだ。そう自らを叱咤した、その時だった。
吹雪の轟音に混じって、甲高い鐘の音が、断続的に、そして狂ったように響いてきた 。
それは、単なる急患の知らせではない 。絶望的な事態の発生を告げる、魂を削るような響きだった 。レオナールはペンを置き、眉をひそめて窓の外へと視線を向けた 。視界は悪いが、治療院の方角がにわかに騒がしくなっているのが分かった 。
「レオナール様、何かあったのでしょうか」
傍らに控えていたギルバートが、緊張した面持ちで立ち上がる。
「……ああ。尋常ではないな。行ってみよう」
レオナールが分厚い外套を羽織り、肌を刺すような吹雪の中を治療院に駆けつけると、そこは既に戦場のような混乱の様相を呈していた。待合室には、臨月の大きな腹を抱え、顔を蒼白にして苦痛に喘ぐ若い妊婦が運び込まれていた。予定日よりはまだ少し早いというが、その脂汗と浅く速い呼吸、そして時折漏れる獣のような呻き声は、通常の陣痛ではないことを雄弁に物語っていた。
「しっかり!」「奥さん、息をして!」
数人の産婆が彼女を取り囲み、必死に声をかけているが、その声はもはや彼女の耳には届いていないようだった。夫らしき若い男は、ただ狼狽し、血の気の引いた顔で妻の手を握りしめることしかできずに、あわあわと立ち尽くしていた。
ベテランの産婆の一人が、妊婦の腹部にそっと手を当てた瞬間、その顔色が一変した。長年の経験が告げる、最悪の予感。その手は、柔らかなはずの妊婦の腹に、まるで硬い岩に触れたかのように弾かれた。
「……硬い。なんてこと……まるで、木の板のようだわ。それに、この出血は……」
妊婦の衣服の裾から、僅かだが、しかし止まることのない暗赤色の出血が滲み出ている。それは生命が漏れ出す不吉な兆候だった。
「ヴァレリー様をお呼びして! 今すぐに!」
産婆の叫び声に応じるように、奥の診察室からヴァレリーが駆けつけてきた。彼女は一瞥で状況の深刻さを理解すると、すぐさま妊婦の傍らに膝をつき、手早く診察を開始した。腹部の触診、そして手首の橈骨動脈に指を当てる。その表情が、みるみるうちに険しく、そして絶望的なものへと変わっていく。
「胎盤早期剥離……ほぼ間違いないでしょう」
ヴァレリーは、レオナールと、そして懇願するような目でこちらを見つめる夫に、静かに、しかし残酷な事実を告げた。
「お腹の中で、胎盤が子宮の壁から剥がれかけている。このままでは、胎児に酸素と栄養が届かなくなり、母体も子宮内での大出血で……。正直に申し上げて、母子ともに、極めて危険な状態です」
彼女の診断は、レオナールのアセスメントと完全に一致していた。橈骨動脈の脈拍は、まだショック状態には至っていないものの、脈は速く、そして弱々しい。もはや一刻の猶予もなかった。
「自分は……自分はどうなっても構いません!どうか、この子だけは……!お願いです、先生!」
妊婦が、途切れ途切れの声で懇願する。その言葉が、レオナールの心に突き刺さり、彼を最後の決断へと突き動かした。
「帝王切開を」
レオナールの静かな、しかし有無を言わせぬ声が、その場の全員の視線を集めた。
「腹を切り、直接、赤子を取り出すのです。それしか、母子ともに救う道はありません」
「正気ですか、レオナール様!」ヴァレリーが、悲痛な声で反論した。その瞳には、レオナールの提案への反発と、そして同じ結論に至ってしまっている自分自身への恐怖が浮かんでいた。「帝王切開は我々が最初の開腹症例として想定していた手術の一つですが、もっと安定した患者でしっかり準備したうえで試みるべきです…! それに、これほどの出血が予想される状況で腹を開くなど、あまりにも危険すぎます! それは治療ではなく、ただの解剖です!」
彼女の脳裏には、過去に同じような状況で、為す術なく母子ともに失った苦い記憶が蘇っていたのかもしれない。
「ですが、このまま何もしなければ、確実に二人とも死ぬことになる!」レオナールの声が、治療院の空気を震わせた。「切れば、万に一つの可能性が生まれる!あなたのその卓越した技術、兎人族の秘術、そして私が持つ知識。全てを合わせれば、その万に一つを、千に一つ、百に一つへと引き上げられるはずです!」
レオナールの強い言葉に、ヴァレリーは唇を噛んだ。彼女もまた、術者として同じ結論に至っていた。だが、その禁忌の一線を越える覚悟が、まだ定まらなかったのだ。レオナールの瞳の奥に宿る、揺るぎない医師としての光を見て、彼女はついに頷いた。
「……やります」ヴァレリーは、レオナールの目を真っ直ぐに見据え、静かに、しかし力強く言った。「あなたという『可能性』を、信じます」
手術室の準備が、狂騒的な速さで始まった。
「ギルバート!ゲストハウスにある私の荷物を!あの木箱に入っている『モルヒネ結晶』を、全て持ってきてくれ!」
レオナールは、駆け出した従者に叫ぶと、すぐさまヴァレリーと術者たちに嵐のような指示を飛ばした。
「ルート確保!両腕から、全開で落とせるように!」
ヴァレリーの指示で、二人の術者が、妊婦の両腕に駆け寄った。革製の駆血帯で上腕を強く縛り上げると、怒張した静脈が青く浮かび上がる。すかさずアルコール綿で穿刺部を清拭し、レオナールが開発した金属製の翼状針を、確かな手つきで血管へと滑り込ませた。術者はチューブの途中にそっと指を当て、微弱な《リューメン》の光魔法で照らし、血液がチューブ内に引き込まれる「逆血」を透過光の変化で確認する。
「よし、入った!」「こちらも確保!」
すぐに、生理食塩水のボトルが二本繋がれ、滴下が開始された。
レオナール自身も、足の静脈にもう一本のルートを難なく確保し、程なくしてギルバートが届けたモルヒネ結晶を溶解させたボトルを接続した。
手術室に運び込まれた妊婦は、レオナールの指示で側臥位にされた。
「消毒を!」
ルーカスが、ヨードで妊婦の背中を広範囲に消毒していく。レオナールは、その横で、自らが設計し、ボルガが作り上げた、黒曜石の先端を持つ白銀の『伝達針』を手に取った。
(痺れの術が、感覚を伝える求心性の神経線維にのみ選択的に作用することは、これまでの実験でほぼ確信している。だが、それは末梢神経での話だ。脊髄という中枢神経そのものに直接術をかけるこの方法は、自らを被験者とした一度きりの実験で成功したに過ぎない。もし、運動神経や、血圧を司る交感神経にまで作用が及べば……このプレショック状態の患者には致命的となりうる。だが、やるしかない)
「胸椎、第七棘突起と第八棘突起の間だ」
彼は寸分の狂いもなく穿刺点を定めると、躊躇なく、その背中に針を進めた。骨にあたる抵抗感。そして、待機していた兎人族の術者が、伝達針の基部に指をかざし、『痺れの術』を発動させる。
「麻酔範囲を確認する!」
レオナールは、魔法で氷を生成させると、その氷片で患者の腹部を優しく撫でていく。
「ここは冷たいですか?」「……はい」「では、ここは?」「……分かりません」
T7――胸骨の下端あたりまで、つまり腹部全体の感覚が完全に遮断されていることを確認する。橈骨動脈の脈拍に変化はない。やはり、この術は自律神経系にはほとんど作用しないのだ。
「あなたにモニターを命じます!」
レオナールは、一人の若い術者に、患者の頭側にしゃがむよう命じた。その術者は恐怖に顔を引きつらせながらも、こくりと頷く。
「手術中、ずっと彼女の橈骨動脈に触れ続け、脈の速さと強さに変化があれば、すぐに私に報告してください。同時に、意識レベルと、胸の動きで呼吸状態も監視するのです!あなたの報告が、彼女の生死を分けます!」
「吸引準備!」
別の三人のスタッフには、足踏み式の吸引ポンプを、手術中、交代で踏み続けるよう指示した。
レオナールは、煮沸と精密乾燥で殺菌したガウンを素早く身に着け、ヴァレリーの対面、前立ちの位置についた。ヴァレリーもまた、同じガウンを纏い、その手には鋭く磨き上げられたメスが握られている。穴の開いたドレープが既に消毒された患者の腹部を覆い、術野だけが露出された。
「始めます」
ヴァレリーの静かな宣言と共に、メスが閃いた。躊躇いのない一閃が、下腹部の皮膚を正中線に沿って切り開いていく。患者に、痛みの反応はない。
脂肪、筋層、そして腹膜。ヴァレリーは、レオナールが鑷子で持ち上げる組織を、驚くほど正確に、そして迅速に切り進めていく。
(なんと正確なメス捌きだ……!単に速いだけじゃない。解剖学的な知識に裏打ちされた、一切の迷いがない動き。彼女のメスは、もはや単なる刃物ではない。生命を救うための秩序を、この混沌とした術野に描き出すための、精密な筆そのものだ)
腹膜が小さく切開されると、その隙間から、不気味なまでに膨れ上がり、どす黒く鬱血した子宮が姿を現した。腹腔内に、まだ大量の出血はない。
ヴァレリーは、子宮と膀胱の境界を手探りで同定すると、その境界線より頭側で、子宮壁にメスを入れた。
途端に、暗赤色の血液が、堰を切ったように溢れ出す。それはおびただしい量の、しかし凝固する気配のない水のようにサラサラとした血液だった。
(まずい!想定はしていたが凝固障害がおこっている…!もはや一刻の猶予もない!)
「吸引!」
レオナールの声に応じ、吸引ポンプが唸りを上げ、術野の血液を吸い上げていく。ヴァレリーは、その視界の中で、慎重に子宮壁を切り進め、羊膜に到達。胎児を傷つけぬよう、メスの刃を反転させて、羊膜を破った。
血の混じった羊水が、奔流となって溢れ出す。ヴァレリーは血の海と化した子宮の切開創の中に、躊躇なく手を差し入れた。指先が、ぬるりとした羊水の中で、懸命に生命の輪郭を探る。吸引器が轟音を立てて術野の視界を確保する中、彼女の指が、柔らかな、しかし確かな弾力を持つ胎児の頭蓋に触れた。
「レオナール様、吸引を続けて!」
彼女は叫ぶと、胎児の頭を優しく、しかし力強く掴み、慎重に創口へと導く。母親の命が刻一刻と失われていく中で、新しい命をこの世に取り上げる。その神聖さと非情さが同居する行為に、彼女の全神経が集中していた。血と羊水にまみれた小さな体が、ゆっくりと姿を現す。
待機していた産婆が、ぐったりとして産声を上げない赤子を受け取り、へその緒を手早く処理する。手術室の喧騒の片隅で、もう一つの戦いが始まった。産婆は布で赤子の体を拭き、背中を強くさすり、必死に刺激を与える。
その時、手術室に、か細い、しかし生命力に満ちた産声が響き渡った。
だが、安堵する暇はなかった。
「脈が弱い!速い!呼吸も速くなっています!」
モニター係の術者から、悲鳴のような報告が上がる。胎児が娩出された後の子宮は、収縮することなく、その切開創から、そして壁全体から、まるで蛇口を捻ったかのように大量の出血を続けていた。
「輸液全開!」
レオナールは叫ぶと、自らも術野に両手を突っ込んだ。
(子宮を圧迫しても意味はない。出血源は胎盤が剥がれた子宮壁全体だ。ならば、その上流を止めるしかない。腹部大動脈。後腹膜を走り、下半身への血流を支配する大血管。これを一時的に圧迫できれば、子宮への血流も劇的に減少するはずだ)
子宮を脇へ押し除け、その奥深く、背骨の前面にある岬角を指先で探り当てる。そして、腹部大動脈から総腸骨動脈への分岐部を、体重をかけて強く圧迫した。彼の手の中で、タッタッタッと速く弱く脈打っていた動脈の拍動が、圧迫してしばらくすると徐々に落ち着いていく。術野からの出血の勢いが、目に見えて弱まった。
(信じられない…!腹部大動脈を、直接圧迫しているというの…!?そんな発想、我々の創縫術のどこにもなかった。彼は一体、どこでこれほどの知識を?いや、今は考えるな。この方が、その身を賭して稼いでくれたこの一瞬こそが、最後の好機だ!)
「脈が少し落ち着きました!」
「ヴァレリー殿、子宮を摘出するしかありません!」
レオナールの進言に、ヴァレリーは一瞬ためらったが、すぐに頷いた。だが、レオナールの手が腹腔の深部を圧迫したことで、内臓を吊り下げる腹膜が強く牽引され、麻酔が効いていない深部感覚からの強烈な痛みが、患者の意識を揺さぶった。
「う……うぅ……!」
患者が呻き、身じろぎを始める。
「モルヒネ、速度を上げて!」
レオナールの指示で、モルヒネ結晶溶液の点滴速度が上げられる。同時に、ヴァレリーは、レオナールが確保した術野の中で、子宮動脈と卵巣動脈の同定を急ぐ。
(尿管はどこだ……子宮動脈のすぐ下を走っているはず。あった、この微かな蠕動……これが尿管。これを傷つけずに、動脈だけを確実に処理する)
彼女は指先の感覚だけを頼りに、拍動する血管と、かすかに蠕動する管状の組織を正確に見分け、的確に糸をかけていき、速やかに結紮する。患者の体動が再び収まる。子宮動脈と卵巣動脈の結紮が終了し、レオナールがおそるおそる大動脈の圧迫を緩めるが、出血は増えない。
だが、その時だった。
「息が……!息が弱くなっています!意識も……!」
モニター係の絶叫。(くそっ、モルヒネが効きすぎたか!大量出血によるショック状態で、循環血液量が減り、肝臓での薬物代謝も極度に落ちている。通常なら安全な量でも、今の彼女には致死量になりかねない。呼吸中枢が完全に麻痺する…!)
「夫を呼んでこい!」
レオナールは、手術室の外にいる助手に叫んだ。半ばパニック状態で部屋に引き入れられた夫は、血の海と化した術野を見て、その場に立ち尽くす。
「手を下ろします」
レオナールはヴァレリーに一声かけると、大動脈の圧迫を完全に解除し、患者の頭側へと回った。
「奥さんの口に、息を吹き込むんだ!」
「え……な、何を……」
「あなたがやらなければ、奥さんは死ぬぞ!さっさとやれ!」
レオナールの、普段の彼からは想像もつかない怒号が、手術室に響き渡った。
ヴァレリーも、ルーカスも、産婆たちも、皆が息をのんだ。あの常に冷静沈着で、穏やかな公子が、まるで獣のように吼えている。その豹変ぶりが、状況の絶望的なまでの切迫感を、誰の目にも明らかにした。
夫は、はっと我に返ると、レオナールの指示通り、妻の鼻をつまみ、顎を持ち上げ、必死に息を吹き込み始めた。胸郭が、わずかに持ち上がる。
レオナールは、再びガウンを着て術野に戻った。「ヴァレリー殿、状況は!?」
「子宮動脈、卵巣動脈は結紮済み。残るは子宮を支える主要な靭帯…円靭帯、基靭帯、そして仙骨子宮靭帯。ここからが正念場です」
ヴァレリーは冷静に報告した。二人の間に、言葉を超えた連携が生まれる。レオナールが鉤で子宮を牽引し、術野を確保する。ヴァレリーが、そのわずかな隙間に、先端の曲がった特殊な鉗子を滑り込ませた。
「円靭帯、クランプします」
ガチリ、と金属音が響く。ヴァレリーは鉗子で靭帯を挟み込むと、そのすぐ上でメスを走らせ、切断する。レオナールがすかさず切断面に縫合糸をかけ、確実に結紮していく。一つ一つの靭帯を、丁寧に、しかし迅速に処理していく地道な作業。血に濡れた手袋が滑り、何度も糸を結び直す。二人の額からは、玉のような汗が流れ落ちた。
最後に残ったのは、最も太く、血管も豊富な基靭帯だった。ヴァレリーは、これまで以上に慎重に、そして力強く鉗子をかけた。レオナールが最後の結紮を終え、膣壁を切開すると、生命の器であった子宮は、今はただの血塊となって、ヴァレリーの手に静かに取り出された。
二人は、最後の連携で慎重に膣断端を縫合閉鎖する。大量の生理食塩水で腹腔内を洗浄し、閉創を終えた時、手術室には夜明け前の静寂が戻っていた。
夫の懸命な人工呼吸と、輸液によって、母親のバイタルは安定し、やがて自発呼吸を取り戻し、意識も回復した。鎮痛のため、モルヒネは微量、ゆっくりと流し続けられる。
産婆から、赤子も問題ないとの報告を受け、手術室は安堵のため息と、静かな涙に包まれた。
吹雪が止んだアンジェの空に、冬の、しかし力強い朝日が差し込み始めていた。




