第百三十四話:アンジェ散策
アンブロワーズの地で成し遂げた脊髄くも膜下麻酔の成功。それは、この世界の医療が新たな時代へと足を踏み出すための、確かな一歩であった。レオナールは、自らの身体で証明された魔法の可逆性に科学者としての純粋な感嘆を覚えながらも、その視線は既にはるか先の未来を見据えていた。ヴァレリーやルーカスといった、志を同じくする者たちとの間に生まれた確かな絆。それら全てが、彼にとって何物にも代えがたい収穫だった。
しかし、いつまでもこの北の辺境に留まっているわけにはいかない。王都の物質科学研究センターでは、マルクスとクラウスが彼の帰りを待ち、託された研究の灯を守り続けているはずだ。
「ギルバート、王都へ戻る準備を始めよう」
ゲストハウスの暖炉の前で、レオナールは決意を告げた。
「かしこまりました。帰路の船旅の手配を」
「ああ。だが、往路とは違う。ベルク商会が特別にダイヤを調整してくれたわけではないからな。いくつかの街で船を乗り継いでいくことになるだろう。もっとも、川の流れに乗る下りだ。多少の待ち時間はあっても、所要日数は行きと大きくは変わらないはずだ」
出立は三日後と決まった。それまでの時間、レオナールは最後にこのアンブロワーズの地の空気を、目に、そして肌に焼き付けておきたいと考えた。特に、領都アンジェの心臓部であり、多様な文化が交錯する市場は、彼の知的好奇心を強く刺激する場所だった。
「少し、市場を散策しようと思う。何か、王都では手に入らないものが見つかるかもしれない」
ギルバートと数名の護衛を伴い、レオナールは再びアンジェの商業地区の喧騒へと足を踏み入れた。ヴォルグリム湖畔の街が持つ、常に帝国との緊張を強いられる軍事拠点としての張り詰めた空気とは異なり、ここには交易都市ならではの開放感と多様性に満ちた活気が渦巻いている。
行き交う人々の半数近くが、人間ではない亜人たちだ 。しなやかな体躯を持つ猫人族の商人が、身振り手振りを交えて人間の農夫と交渉している。屈強な犬人族の男たちが、重そうな木箱を軽々と肩に担ぎ、倉庫へと運んでいく。背は低いが頑健なドワーフの職人が、露店で自らが鍛えたであろう精巧な金属食器を並べている。様々な言語、様々な匂い、様々な文化。それらが渾然一体となり、この街の生命力を形作っていた。
レオナールは、一つの目的を持って市場を歩いていた。グラム染色法の確立。それは、彼が王都に戻って最初に取り組むべき最重要課題の一つだった。そのためには、ヨードが不可欠だ。ヴォルグリムの治療院で見た、あの茶褐色の消毒液。あれさえあれば、細菌学は飛躍的に進歩する。彼はいくつかの薬草店や、錬金術師が使うような珍しい素材を扱う店を覗いてみたが、やはりヨードそのものが市場に出回っている気配はなかった。
「おや、旦那。ヨードをお探しで? そいつは無理な相談ってもんだ」
店の奥から出てきたドワーフの店主が、長い髭を揺らしながら言った。「あれは、グライフ商会様が国外から独占的に仕入れている秘薬でさあ。俺たちみたいな小売りにまで回ってくる代物じゃねえ。治療院に優先して卸されているに決まってる」
(やはりそうか。コンラート会頭のことだ、戦略的に重要な物資の流通は完全に掌握しているのだろうな)
市場での入手は早々に諦め、レオナールは思考を切り替えた。これもまた、交渉の範疇だ。彼は散策を続けながら、この街が持つ独特の文化の混交に改めて目を向けた。アステリア王国は、全体として見れば、前世の地球における中世から近世ヨーロッパに近い、西洋風の文化圏だ。建築様式、服装、そして人々の顔立ち。そのどれもが、彼の記憶にある西洋のそれと重なる。
だが、市場の一角、ひときわ異彩を放つ露店が、彼の足を止めさせた。店主は、長い尖った耳を持つ、森のエルフと思われる女性だった。彼女が並べているのは、この国の様式とは明らかに異なる、どこか東洋的な雰囲気をまとった品々だった。
翡翠に似た、深く艶やかな緑色の石を削って作られた、複雑な紋様の装飾品。白磁の壺に、藍色の顔料で描かれた、龍や鳳凰を思わせる生物の絵。そして、色とりどりの絹糸を複雑な結び目で編み上げた、美しい飾り紐。そのどれもが、レオナールの前世の記憶にある、中国や日本の伝統工芸品を彷彿とさせた。
(これは……文化の収斂進化、とでも言うべき現象か……?)
レオナールの頭脳が、科学者として、そして転生者として、この現象の分析を始める。
(全く異なる歴史と環境を持つ世界で、なぜ、これほどまでに似通った美的感覚やシンボルが生まれるのだろう? 龍や鳳凰に似たモチーフ。複雑な結び目という装飾技法。これらは、人類という種が、その思考の根底に共通して持つ、何らかの普遍的な原型のようなものが、異なる文化圏でそれぞれ独自に発現したものと考えるべきなのか? あるいは……)
彼の思考は、船旅の途中で見つけた、あの『GRAYS SPORTS ALMANAC』の記憶へと繋がっていく。
(あるいは、我々が知らないだけで、遠い過去に、この世界と、俺のいた世界との間で、何らかの文化的な接触があったという可能性も、ゼロではないのかもしれない。あの紙切れの存在が、それを強く示唆している。だが、そうだとしても、その痕跡はあまりにも断片的だ。この謎は、あまりに根源的すぎる…)
彼は、その東洋風の飾り紐を一つ手に取った。その滑らかな手触りと、計算され尽くした結び目の美しさに、しばし見入る。今は、この謎に深入りすべき時ではない。彼には、もっと喫緊の、そして明確な目標があるのだ。
市場散策を終えたレオナールは、その足で再びグライフ商会治療院の本院へと向かった。ヴァレリーは不在だったが、応対に出た事務長らしき男性に、レオナールは特別科学顧問としての立場で、そして共同研究者としての立場で、真摯に願い出た。
「グラム染色法という、新しい細菌の同定技術を開発しています。この技術が確立されれば、感染症の原因となる目に見えない敵を迅速に特定し、より効果的な治療法を選択できるようになるでしょう。そのために、どうしてもヨードが必要なのです。治療に使う量とは比較にならない、ごく微量で構いません。研究用に、少しだけ分けていただくことはできないでしょうか?」
レオナールが、その技術がもたらすであろう医学的な利益を丁寧に説明すると、事務長はしばらく考え込んだ後、深く頷いた。
「……承知いたしました。ヴァレリー様からも、レオナール様への最大限の協力を、とのお達しをいただいております。それに、その技術が我々の治療院の未来にも繋がるのであれば、断る理由はございません」
事務長は、薬品庫から小さな遮光瓶を取り出し、貴重なヨード溶液をその中に慎重に移し替えてくれた。消毒に使う量に比べれば、グラム染色に必要な量は微々たるものだ。それでも、この一瓶が、王都での彼の研究を大きく前進させることは間違いない。
「ありがとうございます。このご恩は、必ず研究の成果でお返しします」
レオナールは、ヨードの入った小瓶を、まるで宝物のように大切に受け取った。
アンブロワーズで成すべきことは、全て成し遂げた。彼の胸には、確かな手応えと、王都で待つ仲間たちへの信頼、そして次なる研究への尽きない期待が満ちていた。北東の辺境の地で得た数々の光明を手に、若き医師は、再び王都へとその歩みを進める。彼の不在の間にも、世界の歯車は、確実に回り続けているのだ。




