第百三十三話:脊髄麻酔の完成
ご遺体での検討を終えた後も、窓の外では灰色の空から絶え間なく雪が舞い落ち、世界から音を奪っていくようだった。治療院は、その静寂の中で再び日常の業務へと戻っていた。
そして、その日の午後。レオナール、ヴァレリー、ルーカスを含む数名の創縫術者が、再びヴァレリーの研究室に集まった。議題は、今朝方まで行われた解剖の最終的な見解をまとめるためだ。
「……以上が、我々の所見です」ヴァレリーが、ベルク紙に記された記録を指し示しながら、議論を締めくくった。「全身の著しい消耗と、胸水、腹水、心嚢水の貯留。これらが直接の死因であることは間違いないでしょう。ですが、その大元となった原因…彼の全身を蝕んだ病の正体については、残念ながら我々の知識では特定に至りませんでした。内臓に明確な腫瘍はなく、肝臓や腎臓に致命的な障害があったわけでもない」
術者たちの間に、重苦しい沈黙が流れる。死者の体という、何よりも雄弁な教科書を前にしてもなお、答えにたどり着けない。それが、この世界の医療が置かれた現実だった。
「レオナール様」ヴァレリーが、レオナールに視線を向けた。「あなた様の、異なる視点からのご意見を伺えませんか? 我々が見落としている何かがあるのかもしれない」
レオナールは静かに頷くと、自身の考察を述べ始めた。
「診療録にあった、左右対称の多関節炎と朝のこわばり。そして、今回の解剖でも特定の臓器に原因が見当たらないこと。これらを考え合わせると、一つの仮説が浮かび上がります」
彼は、慎重に言葉を選んだ。
「我々の体には、外部から侵入してきた異物…例えば、目に見えない病の種のようなものを排除するための、極めて精巧な仕組みが備わっていると考えられます。いわば、体を守るための『軍隊』のようなものです。ですが、何らかの異常で、その軍隊が自らの体の一部を『敵』と誤認し、攻撃を始めてしまうことがあるとしたら?」
その斬新な考え方に、術者たちは息をのんだ。
「関節を覆う膜を攻撃すれば、今回の方のような激しい痛みが。そして、その戦いが全身で、長期間にわたって続けば、体は徐々に消耗し、命を落とすことさえあり得る。私は、彼の病の正体が、その『体を守る仕組みの異常』にあったのではないか、と推測しています」
「免疫」という言葉は使わずとも、その概念の本質は確かに伝わった。ヴァレリーは、レオナールの言葉を反芻するように目を閉じ、深く頷いた。「体を守る軍隊の、反乱…。なるほど、それならば、特定の臓器に原因が見当たらずとも、全身が衰弱していく説明がつきます。我々の経験則だけでは、決して至れない結論です」
その日の議論は、それ以上の進展なく終わった。だが、レオナールが蒔いた新しい思考の種は、ヴァレリーたちの心に確かな根を下ろしたようだった。
翌日。レオナールは再び、創縫術者、そしてアンジェ本院に詰める兎人族の術者を、治療院の一室に集めていた。
「ご遺体での検討の結果、我々の仮説は裏付けられました。胸椎レベルであれば、おそらく針は髄腔に達することなく、安全に『痺れの術』を脊髄近傍に届けることが可能でしょう」
レオナールは、次なる挑戦への静かな熱意を瞳に宿していた。
「ですが、それを証明するには、実際に生きた人間で試すほかありません。今回も、私が被験者となります」
「レオナール様、しかし!」ルーカスが、血相を変えて制止しようとする。
「危険は承知の上です」レオナールは、彼の懸念を穏やかに遮った。「背骨の中には、感覚を伝える神経だけでなく、我々が意識せずとも心臓の働きを整えたり、血の巡りの力強さを保ったりする神経も通っています。高位の神経に術をかけることで、それらの働きに予期せぬ影響が及び、心臓の鼓動が乱れたり、急に体の力が抜けたりする危険性も考えられます。ですから、今回は万全の準備をもって臨みます」
彼の指示は、医師としての冷静さと、科学者としての周到さに満ちていた。
「ヴァレリー殿、先日完成した輸液セットで、私の腕にルートを確保してください。急激な体の変化が起きた場合に、即座に対応できるように。そしてルーカス殿、あなたは私の橈骨動脈に常に指を触れ、脈拍の速さと力強さを監視するモニター役をお願いします。術の行使は、そちらの術者殿にお願いします」
その揺るぎない決意と、リスクを完全に理解した上での具体的な指示に、反論できる者はいなかった。
今回は、背中をエビのように丸める必要はない。レオナールは診察台の上に腹ばいになり、上半身の衣服を脱いだ 。ヴァレリーが、彼の腕に手際よく輸液の針を刺し、生理食塩水の点滴を開始する。ルーカスが、彼の左手首にそっと指を当て、その脈拍に全神経を集中させた。
「ルーカス殿、いつものように骨盤を基準に同定したL4/5を基準に、背骨の突起を一つずつ数え上げ、胸椎の七番目の高さを特定してください」
ルーカスは、レオナールの指示に従い、冷たい指先で慎重に骨の輪郭を辿っていく。やがて、目的の高さに到達すると、爪で印をつけた。
「その周囲に表面の麻酔を」
兎人族の術者は頷き、短い詠唱と共に術をかける。皮膚の感覚が鈍麻したのを確認し、レオナールは最終的な指示を出した。
「では、お願いします。伝達針を、骨に当たるまで、ゆっくりと」
ルーカスは、穿刺部位を消毒後、煮沸消毒された真新しい伝達針を手に取り、深く息を吸った。針先が、レオナールの背中の皮膚を貫く。ゆっくりと、しかし着実に、針は深部へと進んでいく。そして、レオナールの予測通り、針先は「コツン」という、硬く、しかし確かな手応えと共に、椎骨に突き当たった 。
「その位置で、術を」
兎人族の術者が、伝達針の基部に指をかざし、術をかける。
その瞬間。レオナールの全身を、これまで経験したことのない感覚が駆け抜けた。腰椎麻酔の時とは比較にならない、広大で、そして絶対的な感覚の消失。温かいものが、胸の下から両足の先まで、一気に流れ落ちていくような感覚。そして、その温かさが引くと同時に、上腹部から下の全ての感覚が、まるで世界から切り離されたかのように、完全に消え失せた。
「……感覚がない。みぞおちから下、全て」
レオナールが、わずかに掠れた声で呟く。
「脈拍、安定しています。乱れはありません」ルーカスの声が、安堵と驚きに震えていた。
レオナールは、意志の通りに足首を動かし、膝を曲げ伸ばししてみせた。運動神経は、全く影響を受けていない。だが、目を閉じると、自分の足がどこにあるのか、どのような角度で曲がっているのか、その感覚が全く掴めない。まるで、自分の体でありながら、自分の体ではないような、奇妙な浮遊感。
「……運動麻痺はない。だが、位置感覚が完全に遮断されている。これでは、自分の足がどう動いているのか、目で見て確認しなければ調整が全く効かない。歩くことは…危険で、難しいだろう」
だが、彼の声には、確かな喜びが満ちていた。
狙い通りの麻酔レベル。バイタルサインの安定。そして、運動神経への影響の少なさ。予想通り、いや、予想以上の完璧な結果だった。
ヴァレリーが、輸液のクレンメを握りしめたまま、息をのんでその光景を見つめている。彼女の脳裏には、これまで解剖録の上でしか描けなかった、数々の術式が鮮やかに蘇っていた。
ついに、その時が来たのだ。
アンブロワーズの地で、長年、血と泥の中で磨き上げられてきた創縫術が、レオナールという異世界の叡智と出会い、新たな時代へと進化する。開腹手術への、固く閉ざされていた扉が、今、確かに開かれた。




