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血液内科医、異世界転生する  作者:
アンブロワーズへの道
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第百三十二話:死者のカルテと沈黙の答え

レオナールのアンブロワーズ領滞在は、既に二月を超えようとしていたある日、レオナールは、グライフ商会治療院の一室で、黙々とベルク紙にペンを走らせていた。彼が王都に戻った後も、術者たちが臨床の現場で判断に迷わぬよう、全身管理の考え方や輸液システムの具体的な運用方法をまとめた詳細な手引書を作成していたのだ。それは、この地に確かな知識の種を蒔き、未来の医療の礎を築こうとする、彼の誠実さの表れだった。


その静かな思索は、扉を叩く音と、慌ただしく入室してきた若い治療院スタッフの声によって破られた。

「レオナール様! ヴァレリー様より至急の伝言です! 先ほど、お一人……検体となる方がお亡くなりになりました」


レオナールの背筋が、緊張で伸びた。ヴァレリーが語っていた、死者の体から未来の医療を学ぶ、禁忌の探求。その機会が、ついに訪れたのだ。


「承知しました。すぐに向かいます」


ヴァレリーから伝えられた情報によれば、数時間後、皆の日常業務が一段落してから解剖を開始するとのことだった。そして、レオナールも「特別科学顧問」として、その場に立ち会うことを正式に許された。


献体となったのは、70歳の男性だった。この治療院に、2年ほど前から全身の関節の痛みを訴えて通院していたという。薬師による薬草を用いた対症療法が続けられていたが、ここ3ヶ月ほどで急激に衰弱が進み、ほとんど動けない状態となり、今朝方、眠るように静かに息を引き取った。彼は生前、高額になりつつあった治療費の減免を受ける代わりに、死後の体を研究のために提供する契約に同意していた。前世の「献体」という、純粋な善意に基づく行為とは異なる、経済的な理由が背景にあるこの世界のシステムに、レオナールは複雑な思いを抱きながらも、その尊い貢献に深く敬意を払った。



解剖が始まるまでの時間、レオナールはヴァレリーに願い出て、その男性の診療録を見せてもらうことにした。羊皮紙に記された記録には、彼の2年間にわたる苦しみの軌跡が、薬師の几帳面な文字で綴られていた。

主訴は、両肩、両股関節、両膝といった、体の中心に近い大きな関節の痛み。そして、四肢の浮腫。特筆すべきは、午前中には両手がこわばり、物を掴んだり、指を曲げ伸ばししたりすることが著しく困難になるという記述だった。


(高齢発症の左右対称の多関節炎、浮腫、そして朝のこわばり…。リウマチ性多発筋痛症(PMR)やRS3PE症候群などの免疫疾患が鑑別に上がる。だが、これらの疾患は通常、ステロイドのような薬で劇的に改善し、直接の死因となることは稀なはずだ。治療法のないこの世界では、慢性的な炎症が全身を消耗させ、多臓器不全に至らしめるのだろうか?それとも、これらのリウマチ性疾患に似た症状は、何か別の、悪性腫瘍などが引き起こす傍腫瘍症候群の一症状に過ぎないのか…?)


レオナールは、限られた情報からいくつかの可能性を鑑別診断として頭に思い浮かべながら、解剖の時を待った。


数時間後、治療院の奥深くにある、普段は固く閉ざされている解剖室に、レオナールはヴァレリーと共に足を踏み入れた。部屋には、ヴァレリーの他に数名の創縫術者が、厳粛な面持ちで準備を進めている。普段は、大金を払って見学に訪れる「傾奇者」のギャラリーがいることもあるとルーカスは言っていたが、今日は誰もいない。コンラート会頭から、レオナールが滞在する間の見学は一切受け付けないよう、特別なお達しがあったらしい。


診察台の上に横たわるご遺体は、記録の通り、全身が痩せていたが、その皮膚はむくみで張りつめているようだった。レオナールはヴァレリーの許可を得て、体表を慎重に触診したが、明らかな腫瘤などは確認できなかった。


「では、始めます」ヴァレリーが静かに告げた。「その前に、レオナール様。あなたの希望であった腰椎穿刺の検討から行いましょう」


術者たちが協力し、ご遺体を横向きの側臥位にする。レオナールは、自らがヴォルグリムでルーカスに示した手順を思い出しながら、背骨の隙間を探ろうとした。しかし、既に始まった死後硬直で関節が固く、体をエビのように十分に屈曲させることができない。


「…無理強いはできませんね。解剖を進め、硬直が解けるのを待ってから、再度検討しましょう」


レオナールの提案にヴァレリーも頷き、体表観察を一通り終えた後、ついにメスを手に取った。彼女の手慣れた動きで、胸骨の下から恥骨の上まで、腹部の正中線に沿って一本の鋭い切開が加えられる。腹壁が切り開かれ、腹膜を露出させると、それを切開した途端、予測していた通り、大量の液体――腹水が流れ出してきた。液体に濁りはない。


腹腔内を観察するが、肝臓に硬変はなく、脾臓の腫れも見られない。胃から大腸にかけても、肉眼で確認できるような大きな腫瘍はなかった。


ヴァレリーは、トライツ靭帯と回盲部を絹糸で固く結紮すると、腹膜の付け根にある血管を一本ずつ丁寧に同定し、結紮しては切離していく。そして、一気に小腸を体外へと取り出した。結腸の摘出は、さらに慎重に行われた。血管の走行を指で確かめながら、丁寧に剥離を進めていく。


その間、別の術者が胸腔を開く準備を進めていた。肋骨を切断するための、大型の骨剪刀のような器具が持ち出される。術者が力を込めると、ゴリ、ゴリという鈍い音と共に肋骨が切断され、その隙間から、胸腔に溜まっていた胸水が大量に溢れ出してきた。


胸腔が大きく開かれると、心臓が姿を現した。心臓を包む心嚢にも、やはり水が溜まっている。ヴァレリーは、心臓に繋がる大動脈や大静脈、肺動脈、肺静脈といった太い血管を、ヘアピンのような形状をした特殊な金属製の鉗子で一つ一つ挟んで血流を止めると、メスで切り離し、心臓を慎重に取り出した。


その後も、ヴァレリーが中心となり、腹部と胸部の臓器が系統的に、そして驚くべき手際の良さで次々と摘出され、観察台の上に並べられていった。


5時間にも及ぶ解剖を終えた時、外はすっかり闇に包まれていた。しかし、ご遺体の死後硬直はまだ解けておらず、腰椎穿刺の検討は翌日に持ち越されることになった。冬場の低い気温が、それを可能にした。


翌日、再び解剖室に集まったレオナールたちの前で、死後硬直が和らいだご遺体を、術者たちが協力して再び側臥位にした。ルーカスが、レオナールの指示のもと、慎重に背中を屈曲させていく。

「レオナール様、この角度でいかがでしょう」

「ええ、十分です。ではルーカス殿、以前と同様に脊柱と骨盤の交点を同定し、まずはL4/5の間隙から試みてみましょう」


ルーカスが示した点へ、レオナールは自ら穿刺針を手に取った。前世で何度も経験した手技だ。皮膚、皮下組織、棘上靭帯、棘間靭帯、そして黄色靭帯を貫く際の、指先に伝わる段階的な抵抗の変化。その感覚を頼りに、彼は慎重に針を進める。やがて、わずかに抵抗が抜ける感覚と共に、針の先端が髄腔に達した。中のスタイレットを抜くと、無色透明の髄液がゆっくりと滴り落ちてくる。

「まず、腰椎レベルでの到達は確認できました」


レオナールは静かに告げると、針を抜き、次なる、そして最も重要な検証へと移った。

「次に、胸椎レベル…Th12/L1の間隙を試します」


再び針を進めるが、先ほどとは明らかに感触が違った。靭帯をいくつか貫いた後、針先は「コツン」という硬い感触に阻まれた。椎骨そのものに突き当たったのだ。角度をわずかに変え、再度試みる。しかし、何度試みても、針は硬い骨の感触に阻まれ、髄液の流出は確認できなかった。


「……なるほど。胸椎レベルでは、たとえ背中を屈曲させたとしても、腰椎のように安全に髄腔へ針を進めることは極めて困難…いや、不可能に近いのかもしれません」

レオナールは、針を抜きながら冷静に分析した。その言葉に、ヴァレリーやルーカスは失望の色を隠せない。開腹手術への道が、再び閉ざされたかのように思えたからだ。


だが、レオナールは続けた。その表情に、悲観の色はなかった。

「ですが、むしろこれで確信が持てました。我々のアプローチは間違っていません」

「ヴォルグリム湖畔の街でお会いしたミロ殿の術の効果範囲は、指先から指二、三本分だと聞きました。薬液のように針先から注入する必要はなく、術の効果そのものが、ある程度の範囲に効果を持つのです」


レオナールは、再びご遺体の背中に向き直ると、今度は背中をまっすぐにさせた状態で、先ほどと同じ胸椎レベルに針を刺した。結果は同様だったが、背中を曲げた状態と比べても、針が到達する深度に大きな差はない。

「だとすれば、必ずしも針の先端が髄腔に達する必要はない。針を可能な限り深くまで進め、脊髄に近づけさえすれば、伝達針の先端から放たれた『痺れの術』が、その効果範囲によって脊髄本体にまで到達し、目的とする麻酔効果を得られる可能性は十分にあります。無理に髄腔を狙って脊髄を傷つけるリスクを冒すよりも、はるかに安全で、確実な方法と言えるでしょう」


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