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血液内科医、異世界転生する  作者:
アンブロワーズへの道
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第百三十一話:実習

ヴォルグリム湖畔の街から一人の術者が帰還した。亜麻色の髪を短く刈り込んだ、創縫術者ルーカスその人であった。彼の帰還がこの時期に可能となったのは、他ならぬレオナールがもたらした知識の波及効果に他ならなかった。先日行われたレオナールの講義を受けた本院の術者の一人が、その新しい知見を携えてヴォルグリムへ代診として派遣されたことで、ようやくルーカスは後事を彼に託し、馬を飛ばして戻ってくることができたのだ。


そして奇しくも、ルーカスが治療院本院の門をくぐったその日、治療院が長年懇意にしており、手術器械などを依頼している工房に、レオナールが設計図を持ち込んで特注していた『輸液セット』の試作品が、完成の報と共に届けられた。それは、彼がアンブロワーズの地で進める医療革命の、次なる一歩を象徴する道具であった。


「これが……」


治療院の一室に集まった術者たちの前で、レオナールは完成したばかりの輸液セットを静かに披露した。セットは四つの主要部品から構成されている。一つは、滅菌済みの生理食塩水を入れるための、透明度の高いガラス製の瓶。その瓶の下には、小さなガラス製の膨らみが設けられている。


「ここが『点滴筒』です。この中を液体が一滴ずつ落ちることで、我々は流量を目で見て確認し、調整することができます」


そして、その点滴筒から伸びているのが、絹布と天然樹脂の複合素材で作られた、柔軟な乳白色のチューブ。さらに、流量を指先で精密に調整するための木製のローラークレンメ、血管に穿刺するための鋭利な金属針が続く。


「本日は、この輸液システムの実践的な手技について、皆さんに習得していただきます。先日お話しした『全身管理』の概念において、安定した輸液ルートの確保は、あらゆる高度な外科的処置の礎となるものです。今回は、まず基本となる生理食塩水のみを用いますが、将来的には、より体液に近い組成を持つリンゲル液や、エネルギーを補給するためのブドウ糖液なども開発し、状況に応じて使い分けられるようにしたいと考えています」


レオナールの落ち着いた説明に、ヴァレリー、そして帰還したばかりのルーカスをはじめとする創縫術者たちは、真剣な眼差しで頷いた。彼らは、レオナールの講義を通じて、生命活動を支える循環の重要性を、理論として既に学んでいる。その理論を実践に移すための具体的な『武器』が、今、目の前にあるのだ。



「では、実際に人体での穿刺とルート確保のデモンストレーションを行います。どなたか、被験者になっていただける方は?」


レオナールが問いかけると、一瞬の静寂の後、ヴァレリーが静かに、しかし迷いのない足取りで一歩前に進み出た。


「私がお引き受けします」


その声には、筆頭術者としての覚悟と、新しい技術に対する純粋な探求心が宿っていた。彼女が自ら被験者となることで、他の術者たちも後に続く覚悟が決まるだろう。その無言のリーダーシップに、レオナールは改めて敬意を抱いた。


「ありがとうございます、ヴァレリー殿。では、こちらの診察台へ」


ヴァレリーが診察台に腰掛け、左腕を差し出す。レオナールは、まず準備していた真新しい革製の帯を取り出した。ローネン州での採血の際、咄嗟に魔法で代用したあの苦い経験は、彼に周到な準備の重要性を改めて刻み付けていた。彼はその駆血帯を、ヴァレリーの上腕に適切な強さで巻き付け、静脈を怒張させた。


「採血であれば、肘の内側にあるこの太い血管が最も容易です」レオナールは、肘窩の正中皮静脈を指し示しながら解説した。「ですが、長時間のルート確保となると、肘のように関節の動きが大きい場所は避けるべきです。特に、我々が使うのはまだ柔軟性のない金属針。体動によって血管を突き破ったり、針が抜けたりするリスクが高い。ですから、今回はより安定したルートを確保できる、この前腕の中央を走行している比較的まっすぐな血管を狙います」


彼の選択は、極めて実践的かつ論理的だった。ヴァレリーも、その的確な判断に静かに頷く。


穿刺部位を定めると、レオナールは高濃度の蒸留酒を染み込ませた清潔な綿球で、皮膚を丁寧に消毒した。アルコールの冷たさが、ヴァレリーの肌にわずかな緊張を走らせる。


レオナールは、左手の親指で穿刺部位の少し下の皮膚を軽く引き、血管を固定した。右手には、輸液チューブが接続された金属針を、まるで体の一部であるかのように、しかし繊細に構える。針の刃面を上に向け、皮膚に対して浅い角度で、彼は一気に、しかし滑らかに針を進めた。


「……!」


ヴァレリーの眉が、ごくわずかに動いた。長年、他者の体にメスを入れてきた彼女も、自らが針を刺される痛みには、やはり人間として反応する。だが、その痛みは一瞬だった。レオナールの手技は、それを感じさせないほどに正確無比だった。


針が静脈に入った確かな手応え。しかし、ここで一つ問題があった。彼らが開発したこのチューブは、絹に樹脂を浸して作ったものであり、逆血を目で見て確認するには、あまりに不透明だったのだ。

「ですが」レオナールは落ち着き払っていた。「そのための工夫もしてあります」


彼は穿刺した針を右手で固定したまま、空いている左手の人差し指を、チューブの付け根、針のハブに近い部分にそっと押し当てた。

「《リューメン》」


短い詠唱と共に、彼の指先に灯った小さな光が、チューブを照らし出す。生理食塩水で満たされたチューブは、乳白色の柔らかな光を帯びてぼんやりと輝いた。レオナールは、その光量のわずかな変化に全神経を集中させる。果たして、彼の予測通り、その輝きが、一瞬揺らぎ、明らかに暗くなった。針の根元に、影が落ちたかのようだった。


「逆血、確認」レオナールは静かに告げた。「血液という、光を吸収する密度の高い液体がチューブ内に流入し、透過してくる光の量を減少させたのです。これで、針が正しく血管内にあることが証明されます」


彼は素早く駆血帯を緩め、針が動かないように注意しながら、あらかじめ用意していた清潔な布片と粘着性のある樹脂テープで、針を皮膚に丁寧に固定した。最後に、チューブの途中にある木製のクレンメをゆっくりと開き、点滴筒の中で生理食塩水が、一滴、また一滴と、規則正しく滴下し始めるのを確認する。


その光景を、ヴァレリーをはじめとする術者たちは、息をのんで見つめていた。一人の人間の腕に、外部から生命を支える液体が、安定して、そして持続的に送り込まれていく。それは、この世界の医療が、これまで到達し得なかった新しい領域へと、確かな一歩を踏み出した瞬間だった。


「では、皆さん、一人ずつやってみましょう。次はルーカス殿、お願いします」


レオナールのデモンストレーションが終わると、今度は術者たちが実践に入る。彼らは皆、日頃からメスや持針器を扱い、人体の構造にも精通している。穿刺という手技に対する飲み込みは、驚くほど早かった。レオナールの的確な指導のもと、彼らはすぐにコツを掴み、多少の個人差はあれど、全員が安定した静脈ルートの確保に成功した。


「素晴らしい。皆さん、実に要領が良い。さすがはアンブロワーズの術者ですね」


レオナールは、素直な称賛の言葉を送った。彼の心には、確かな手応えが満ちていた。この技術が彼らの手に渡れば、少なくとも失血死までの時間稼ぎになり、アンブロワーズの創縫術は、間違いなく次のステージへと進化するだろう。そしてそれは、彼が目指す外科医療の夜明けへと、確かに繋がっているはずだった。


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