第百三十話:生命兆候
グライフ商会治療院本院の一室は、これまでにないほどの知的な熱気に包まれていた。普段は術者たちの休憩や簡単な打ち合わせに使われるその部屋は、レオナールのための講義室として急遽設えられた。壁には彼が夜を徹して準備した、人体の循環や呼吸の仕組みを精密に描いたベルク紙の図解が何枚も掲げられている。その緻密さと、これまで誰も見たことのない概念の数々は、集まった者たちの期待を静かに煽っていた。
集まった聴衆は、まさにこの地の医療を支える者たちそのものだった。筆頭術者ヴァレリーを筆頭に、このアンジェ本院に詰める創縫術者たち、数多の生命の誕生に立ち会ってきたであろう経験豊富な産婆たち、そして治療の補助を担う多くのスタッフたちが集まっている。兎人族の術者たちも、その大きな赤い瞳に強い好奇心を浮かべて座っていた。
「レオナール様、準備が整いました。いつでも始められます」
ヴァレリーが、静かな声で告げた。その瞳には、これから語られるであろう未知の知識への、純粋な期待が宿っている。
レオナールは頷くと、聴衆の前に静かに立った。その若さに、わずかな戸惑いの空気が流れるのを肌で感じたが、彼は臆することなく、穏やかで、しかし確信に満ちた声で口を開いた。
「皆さん、本日はお集まりいただきありがとうございます。レオナール・ヴァルステリアです。まず最初に、皆さんが日々行われている治療、そして創縫術という素晴らしい技術に、心からの敬意を表します」
その真摯な言葉は、聴衆の警戒を和らげるのに十分だった。
「私は今日、皆さんのその卓越した技術を否定しに来たわけではありません。むしろ、その技術をさらに安全に、そして確実なものにするための『共通の物差し』と『考え方の地図』をご提案したく、この場に立たせていただきました。これから数日にわたり、同じ内容の講義を二度行います。本日参加できなかった、ヴォルグリムのルーカス殿のような遠方の仲間たちにも、この知識を共有するためです」
彼は壁に貼られた一枚目の図解――人体の心臓と血管が描かれたもの――を指し示した。
「最初のテーマは、『生命の徴候』です」
レオナールは、彼らが経験則として知る「脈」や「呼吸」といった現象を、体系的な概念――バイタルサイン――へと昇華させることから講義を始めた。脈拍とは心臓が血液を送り出す回数であり、その速さだけでなく力強さも重要であること。そして呼吸について、彼は特に言葉に力を込めた。
「皆さんは、なぜ我々が呼吸をせねばならぬか、深く考えたことがありますか?私の師であるターナー教授は、実験によって、我々が吸う空気が単一の『風』元素などではなく、複数の成分の混合物であることを突き止めました 。そして、その中に含まれる、燃焼を助ける特定の成分こそが、我々が生きていく上で不可欠なのです。ターナー教授は、燃焼後の空気しか吸えなくなったクヴィックがすぐに死んでしまうことも実験で示しています。それがなくなれば、蝋燭の火が消えるように、我々の生命の火も消えてしまう。呼吸とは、その生命維持に必要な成分を体内に取り込むための、極めて重要な活動なのです」
彼は続けて、全く新しい概念である「血圧」について説明した。
「血圧とは、血液が血管の壁を押す力のことです。この力は主に二つの要素で決まります。一つは、心臓がどれだけの量の血液を送り出すかという『心拍出量』。そしてもう一つは、体の末端にある血管がどれだけ狭まっているかという『末梢血管抵抗』です。心臓の力が弱まったり、出血などで血液の量が減って心拍出量が下がったりすれば、この圧力は低下します」
次に彼が示したのは、ショックの病態に関する図だった。
「次に『ショック』、すなわち生命を維持するための循環が破綻しかけた状態についてです。皆さんが最も多く目にされるのは、おそらく大量出血によるものでしょう。体内の血液という『生命の川』の水位が著しく下がることで、心臓が送り出す水の量が激減します。すると体はどうするか。必死に補おうとするのです。心臓は速く動くことで(頻脈)、少ない血液を何とか全身に巡らせようとします。そして、手足の末端の血管を固く収縮させ(末梢血管抵抗の上昇)、脳や心臓といった最も重要な臓器に血液を集中させようとします。これが、患者さんの肌が蒼白になり、冷たく汗ばむ理由です」
彼はそこで一呼吸置き、さらに続けた。
「しかし、ショックは出血だけで起こるわけではありません。むしろ、最も多く見られるのは、重篤な感染症によるものでしょう。この場合、体中の血管が、感染による毒素でだらしなく開いてしまいます。血管の抵抗が失われ、血圧が維持できなくなるのです 。この時も、体は代償しようと心臓を速く動かしますが、血管が開いているため、初期にはむしろ肌が温かく赤みを帯びることさえあります。これは非常に危険な見逃しのサインです」
そして、彼は先日ヴァレリーにも語った「輸液」という解決策を提示した。
「この危機的状況を脱するためには、失われた血液や水分を補う必要があります。ですが、輸液はあくまで時間を稼ぐための手段です 。穴の空いた樽に水を注ぎ続けるようなもの。最も重要なのは、その『穴』、つまり出血などの原因そのものを突き止め、制御することです。輸液は、そのための貴重な時間を与えてくれるのです」
最後のテーマは、あらゆる緊急事態に対応するための、救命の優先順位だった。
「そして、どのような状況であれ、命の危機に瀕した方を前にした時、我々がまず確認し、行うべき三つの重要事項があります。一つ目は、『気道』、息の通り道を確保すること。二つ目は、『呼吸』。自力での呼吸を確認し、必要であれば補助すること。そして三つ目は、『循環』。心臓が動き、血が巡っているかを確認し、出血があればそれを止めることです。これこそが、命を救うための、最も確実な道筋です」
彼の講義は、この世界の書物には決して書かれていない、実践的かつ論理的な知識に満ちていた。時間に限りがあるため、一つ一つの項目は要点に絞られていたが、その根底にある科学的な思考法は、聴衆に強い衝撃を与えずにはいられなかった。
講義が終わると、一瞬の静寂の後、堰を切ったように質問の手が上がった。
「先生! 産気づいた妊婦の『生命の徴候』は、平常時とどう違うので? 腹の赤子の分も、考慮すべきですかな?」と、経験豊富な産婆が尋ねる。
「その『ショック』は、オラたち兎人族の『痺れの術』で抑えることはできるのかい?」と、兎人族の術者が問いかける。
「出血によるものと、感染によるものとで、肌の温かさが違うというのは本当か? それを見分けるコツは?」と、若い創縫術者が熱心に食い下がる。
レオナールは、一つ一つの質問に対し、彼らの知識レベルに合わせて丁寧に、そして論理的に答えていった。講義は、一方的な知識の伝達ではなく、活発な質疑応答を通じて、彼らの経験則とレオナールの科学的知識が融合していく、刺激的な学びの場へと変わっていった。
最後に、それまで静かに議論の行方を見守っていたヴァレリーが、静かに、しかし確信に満ちた声で言った。
「レオナール様。あなたが見せてくださったのは、単なる新しい知識や技術ではありません。それは、我々がこれまで闇の中を手探りで進んできた道筋を照らし出す、一枚の『地図』そのものです。この地図があれば、我々の創縫術は、きっと次の時代へと進むことができるでしょう」
その言葉は、この場にいる全員の思いを代弁していた。レオナールの講義は、アンブロワーズの医療に、科学という名の確かな光を灯した。




