第十三話:探求の対価と再生の紙
ターナー教授との共同研究は、レオナールの知的好奇心を刺激し、充実感を与えてくれた。原子・分子という世界の根源に迫る議論、手探りながらも法則性を明らかにしていく実験。それは、彼が目指す医療改革への、確かな一歩となっている実感があった。
しかし、研究活動が活発になればなるほど、現実的な問題も生じてくる。その一つが、記録媒体の消費だった。実験データの記録、計算、考察のメモ、仮説の図式化……。レオナールもターナー教授も、思考を整理し、議論を深めるために、大量の筆記媒体を必要とした。
この世界で一般的に使われている筆記媒体は、羊皮紙だ。動物の皮を加工して作られるそれは、耐久性に優れ、長期保存に適しているという利点はあるものの、いくつかの大きな欠点があった。まず、非常に高価であること。特に、薄く滑らかに仕上げられた上質な羊皮紙は、貴族や富裕層、あるいは重要な公文書などにしか使われず、学生や研究者が日常的に大量消費するには、経済的な負担が大きすぎた。ターナー教授の研究室で使われているのも、比較的安価だが厚手で扱いにくい低品質なものが多かった。
「むぅ……また羊皮紙の在庫が心許なくなってきたな。これでは計算用紙にすら、おいそれとは使えん」
ターナー教授は、うず高く積まれた使用済みの羊皮紙(裏面にもびっしり書き込みがある)の山を見て、しばしばため息をついた。彼の研究は、必ずしも潤沢な予算がつくような華々しいものではない。研究費の多くは、貴重な薬品や実験器具の購入に消え、消耗品である羊皮紙代は常に悩みの種らしかった。
レオナール自身も、父からの仕送りで個人的に羊皮紙を購入していたが、彼の研究ノートや計算メモも膨大な量に膨れ上がっており、その費用は決して無視できないものになっていた。
さらに、羊皮紙は扱いにくいという問題もあった。厚くて嵩張り、持ち運びや保管に場所を取る。表面の加工によってはインクが滲みやすく、精密な図や数式を書くのにも神経を使う。裏面に書くと、表面の文字が透けて読みにくくなることもあった。
(なんとかならないものか……。もっと薄くて、軽くて、安価で、気兼ねなく使える筆記媒体があれば、研究効率は格段に上がるはずなんだが……。前世では、紙なんていくらでもあったのに……)
「紙」——その言葉が、レオナールの脳裏に閃いた。そうだ、前世で当たり前に使っていた、あの白くて薄い「紙」だ。あれは、動物の皮ではなく、植物の繊維から作られていたはずだ。
(製紙法の原理……確か、植物の繊維を細かく砕いて水に溶かし、それを薄く漉いて乾かす、というものだったはずだ。化学的な薬品処理(漂白やサイズ処理)もあった気がするが、基本的な原理は物理的なものだ。繊維を水中で分散させ、絡み合わせてシート状にする……。この世界にある植物と道具、そして少しの魔法を使えば、再現できるのではないか?)
レオナールは、このアイデアに興奮を覚えた 。彼は早速、このアイデアをターナー教授に打ち明けてみた 。
「先生、羊皮紙に代わる、新しい筆記媒体を作ることはできないでしょうか? 例えば、植物の繊維を利用して……」
レオナールは、製紙法の基本的な原理を説明した。
教授は最初、半信半疑といった顔だった。
「植物の繊維から紙を? ふむ……確かに、パピルスのように植物を使った筆記媒体は古くから存在するが、あれは茎を編んだり叩いたりしてシート状にするものだ。繊維を水に溶かして漉く、というのは聞いたことがないな。だが……理屈としては面白いかもしれん」
変わり者と言われるだけあって、教授は既存の常識に囚われず、新しいアイデアに対しては比較的寛容だった。特に、羊皮紙のコスト問題には彼自身も悩まされていたのだ。
「よし、試してみる価値はあるかもしれんな。まずは、材料となる植物繊維を探すことからだ。繊維が豊富で、安価に手に入りやすいものがいい」
「でしたら、ギルバートに頼んで、領地やこの周辺で手に入る植物について調べさせてみましょう。例えば、麻や、特定の草、あるいは木の内皮などが使えるかもしれません」
レオナールはギルバートに指示を出し、製紙に適した植物の情報を集めさせた。いくつかの候補の中から、彼らは、成長が早く、繊維が豊富で、かつ他の用途があまりなく安価に入手できる「リノ草」という植物に目をつけた。
次に、繊維を取り出し、細かく砕く方法を考えた。石臼で砕く、水車を利用するなどの物理的な方法に加え、レオナールは魔法の応用も試みた。
「先生、この《分解》の初歩魔法を応用すれば、繊維の結合を弱め、より効率的に細かくできるかもしれません。精密な制御が必要ですが……」
彼らは、試行錯誤の末、リノ草を水に浸して柔らかくした後、物理的な破砕と、レオナールの制御した微弱な分解魔法を組み合わせることで、繊維を効率的に取り出し、叩解(細かくほぐすこと)する方法を見出した。
いよいよ、紙漉きの試作だ。彼らは、ターナー教授の研究室の片隅に、簡単な作業スペースを作った。大きな水槽に叩解した繊維を水と共に投入し、よくかき混ぜて分散させる。そして、木枠に目の細かい網(これも試作した)を張った「漉き桁」で、その繊維液を薄く、均一に掬い取る。
最初の試作品は、酷いものだった。厚さがバラバラで、穴が空いていたり、乾燥させるとすぐに破れてしまったり。表面は毛羽立ち、インクを垂らすと、あっという間に滲んで広がってしまう。
「うーむ、なかなか難しいものだな……」ターナー教授も腕を組む。
「繊維の絡みつきが足りないのかもしれません。叩解の度合いを変えてみましょう。あるいは、漉き桁の動かし方にもコツがあるのかも……」
レオナールは諦めなかった。前世の記憶を頼りに、繊維の叩解度、水中の繊維濃度、漉き桁の動かし方(揺すり方)、そして漉き上げた湿紙の圧搾方法、乾燥のさせ方(最初は天日で乾かしたが、歪みが大きいため、板に貼り付けて室内でゆっくり乾燥させる方法に変えた)などを、何度も何度も調整し、試行錯誤を繰り返した。時には、魔法で水の表面張力を制御して繊維を均一に分散させたり、乾燥を補助したりといった試みも行った。
そして、数週間にわたる試行錯誤の末——ついに、彼らは一枚の「紙」を完成させた。それは、まだ少しゴワゴワとして、色も生成り色だったが、羊皮紙に比べれば驚くほど薄く、軽く、そして表面は比較的滑らかで、インクの滲みも許容範囲に収まっていた。
「できた……!できました、先生!」
レオナールは、完成したばかりの紙を手に、興奮した声で叫んだ。
ターナー教授は、その紙を受け取り、指で感触を確かめ、光にかざして厚みの均一さを見た。そして、インク壺からペンを取り、試しに文字を書いてみた。
「……ほう。これは……なかなか、良いではないか!」
インクは僅かに滲むものの、羊皮紙のように酷く広がることはなく、文字ははっきりと読むことができた。そして何より、その軽さと薄さ、そして原料(リノ草)の安価さを考えれば、これは画期的な発明と言えた。
「素晴らしいぞ、レオナール君!これがあれば、羊皮紙の値段を気にせず、思う存分研究に打ち込める! 計算用紙にも、メモにも、使い放題だ!」
教授は、普段のぶっきらぼうな態度はどこへやら、子供のようにはしゃいで喜んだ。
その日から、ターナー教授の研究室では、自家製の「レオナール紙」(教授が勝手にそう呼び始めた)が使われるようになった。記録を惜しむ必要がなくなり、計算やアイデアスケッチも自由に行えるようになったことで、彼らの研究効率は目に見えて向上した。羊皮紙のコストに頭を悩ませることもなくなった教授は、以前にも増して研究に没頭する時間が増えたようだった。
レオナール自身も、完成したばかりの新しい紙の束を手に、満足感を覚えていた。羊皮紙よりも滑らかな書き心地は、思考を整理し、アイデアを練る上で非常に快適だった。彼は早速、今後の研究計画——原子・分子モデルのさらなる検証、魔法現象の分析、そしてクロマトグラフィーの開発計画——を、その新しい紙に木炭ペンでさらさらと書き記していった。
(これで、研究環境は格段に良くなった。思う存分、記録し、計算し、考察できる)
最初のうちは、研究の合間に紙を作る作業も、新しい技術を試す実験のようで楽しかった。しかし、研究が本格化し、記録すべきデータや計算量が指数関数的に増えてくると、次第にその手作業での紙作りが大きな負担になってきた。
リノ草を運び込み、水に浸し、叩解し、漉き、圧搾し、乾燥させる……。ターナー教授と二人(時にはギルバートの手も借りて)で行うには、限界があった。常に十分な量の紙を確保しておくためには、かなりの時間と労力を割かねばならず、本来の研究時間が削られてしまう。
(……正直、面倒になってきたな。この紙自体は非常に便利だが、毎回これを作るのは骨が折れる。誰か、代わりに作ってくれる人はいないだろうか?あるいは、もっと効率的に、大量に生産する方法は……?そうだ、こういう生産や流通のことなら、彼に聞いてみるのが良いかもしれない)
レオナールの脳裏に浮かんだのは、商家の友人、トーマスの顔だった。彼なら、こういう「物作り」を効率化したり、あるいは「外注」したりする方法について、何か良い知恵を持っているかもしれない。あるいは、もっと安価に筆記媒体を手に入れる別の方法を知っている可能性もある。
レオナールは、自作の紙を数枚と、その原料であるリノ草の束(加工前のもの)を持って、トーマスに会いに行った。「どうにかしてこの面倒な作業から解放されたい」という思いからの訪問だった。
学院の談話室で、レオナールはトーマスにその白いシートを見せた。
「トーマス、君に相談したいことがあるんだ。これを見てほしい」
トーマスは、レオナールから渡された見慣れない質感のシートを手に取り、驚いたように目を見開いた。
「これは……羊皮紙とは全く違いますね!薄くて、軽くて、そして驚くほど滑らかだ……。一体、何なのですか?」
彼は指でその未知の感触を確かめ、試しにインクで文字を書いてみた。 インクの滲みが少なく、滑らかな書き心地に、彼の驚きはさらに大きくなった。
「私が『紙』と呼んでいるものだ。植物の繊維から、新しい製法で作ってみた」
レオナールは、製法の詳細には触れず、事の経緯——研究で大量に必要になったこと、羊皮紙は高価で扱いにくいこと、そして自分たちで作るのが大変になってきたこと——を説明した。
「それで、相談というのは、こういう物を効率よく作る方法とか、あるいは、どこか専門の職人に製造を依頼するような仕組みとか、君なら何か知らないかと思ってね」
「素晴らしい……!こんなものが作れるなんて!その上で……これを『外注』したい、と?」トーマスは信じられないという顔でレオナールを見た。「レオナール様、あなた、自分がどれほど凄いものを作り出したか、本当に分かっていらっしゃいますか!?」
突然のトーマスの剣幕に、レオナールは少し驚いた。
「え?いや、まあ、便利だとは思うが……そんなに大したものなのか?」
「大したものどころではありません!これは、革命ですよ!」トーマスは興奮気味に言葉を続けた。「考えてもみてください!この品質の筆記媒体が、もし羊皮紙の十分の一、いや百分の一の価格で安定供給できるようになったら?学院の学生や研究者はもちろん、役人、商人、作家、あらゆる人々がこれを求めるでしょう!書物の価格が劇的に下がり、手紙のやり取りも活発になる!知識の伝達速度が、社会のあり方そのものが変わる可能性だってあるんですよ!」
トーマスの熱弁を聞きながら、レオナールは唖然としていた。彼は、単に自分たちの研究室で使う記録用紙が欲しい、その手間を省きたい、と考えていただけだったのだ。それが、社会を変えるほどのインパクトを持つ可能性は考えなくもなかったが、正直これほどまでの反応があるとは、思ってもみなかった。
「そ、そうなのか……? 俺はただ、羊皮紙が高くて使いにくいから、代わりになるものがあればと……」
「その『代わりになるもの』が、とてつもない価値を持っているということです!外注?とんでもない!この製法は、絶対に他人に渡してはいけません!これは……これは、ヴァルステリア家にとって、いえ、王国全体にとっても、計り知れない富と影響力をもたらす可能性を秘めた技術なのです!」
トーマスは、目を輝かせながらまくし立てた。彼の頭の中では、すでに新しい紙の市場、生産体制、流通網、そして莫大な利益の計算が始まっているようだった。
「……」
レオナールは、トーマスの熱意に気圧されながらも、彼の言葉の意味を反芻していた。知識の普及、文化の発展、新たな産業……。自分がただ「面倒だから」という理由で生み出したものが、そんな大きな可能性を秘めている?
(だが、トーマスの言う通りかもしれない。前世における紙の役割を考えれば……。これは、俺が思っていた以上に、重要な発明なのかもしれない……)
「と、とりあえず、トーマス、落ち着いてくれ」レオナールは興奮する友人をなだめた。「君の言う可能性は分かった。だが、大規模生産には、多くの課題があるだろう? 原料、設備、資金、流通……」
「もちろんです!」トーマスは即座に頷いた。「ですが、それらの課題は、乗り越える価値のあるものです! ぜひ、私の一族の商会に、この計画を本格的に検討させていただけませんか? まずは、より詳細なコスト計算と、試作品を使った市場調査から始めましょう。そして、将来的にはヴァルステリア領内に生産拠点を築き……」
話は、レオナールの当初の相談内容(「楽に紙を手に入れる方法」)から、完全に壮大な事業計画へと移行していた。
トーマスが熱っぽく語りながら談話室を去っていくのを、レオナールは少し呆然としながら見送った。彼の頭の中は、先ほどの会話の余韻と、友人が指摘した「紙」の持つ予想外の可能性で混乱していた。
(……革命?社会を変える?富と影響力……?)
レオナールは一人になり、改めて先ほどトーマスが絶賛していた自作の「紙」を手に取った。それは、自分と教授の研究を少しでも楽にするために、単なる「必要性」と、ほんの少しの「面倒臭さ」から生まれた、副産物のようなものだったはずだ。それが、トーマスに言わせれば、歴史を変えるほどの発明だという。
(……冷静に考えれば、そうか。前世における紙のインパクトを考えれば、当然のことだったのかもしれない。文字を記録し、知識を伝え、文化を広める媒体。そのコストが劇的に下がり、誰もが容易に手に入れられるようになれば、社会に与える影響は計り知れない……。俺は、なんて安直に、とんでもないものを作り出してしまったんだ……?)
彼は少し背筋が寒くなるのを感じた。自分の行動が、意図せずして世界のあり方に大きな影響を与えてしまうかもしれない。その可能性を、これまで全く考えていなかったのだ。自分の目標は、あくまで医療の変革にあるはずだった。
(……いや、待てよ?)
ふと、彼の頭に、別の考えがよぎった。それは、少しばかり魅力的で、そして邪な考えだった。
(もし、この紙のように、前世の知識を使えば、この世界で簡単に『凄いこと』ができてしまうのなら……?例えば、もっと単純な化学反応を利用した……そう、火薬とか?あるいは、簡単な印刷技術?それだけでも、軍事や情報伝達に革命を起こせるかもしれない。もっと楽に、大きな力や富、名声を手に入れられるんじゃないか……?わざわざ地道に化学の基礎を再構築したり、複雑な医学や魔法の研究をしたりしなくても……)
一瞬、楽な道への誘惑が心をかすめる。転生者として、圧倒的な知識アドバンテージを使って、この世界で成り上がる。「俺TUEE」と呼ばれるような、そんな生き方もできるのかもしれない。
だが——
その考えは、すぐに別の記憶によって打ち消された。脳裏に蘇るのは、苦しみながら息を引き取った母の顔。何もできずに、ただ無力感に打ちひしがれていた自分の姿。
(……違う!)
レオナールは、強くかぶりを振った。
(俺がやるべきことは、そんなことじゃないだろう! 楽な道を選んで、一時的な力や富を得て、それで何になる?母さんのような人を、もう二度と出したくない。病に苦しむ人々を、この手で救いたい。そのために、俺はこの知識と、二度目の人生を得たはずじゃないのか!)
そうだ、彼の原点はそこにある。母を救えなかった悔しさ。医師としての使命感。安直な発明で一時的な成功を得ても、それは彼の魂が決して満たされることのない、空虚な道だ。
(危なかった……少し、浮かれていたのかもしれないな。トーマスの言葉に、自分の発明の価値に……。だが、俺の本分はそこじゃない)
彼は、新しい紙の上に書きかけた研究計画に、改めて視線を落とした。原子、分子、化学反応、そして魔法との関連性。その先にある、薬の開発、診断技術、治療法の確立。それは、地道で、困難で、途方もなく時間のかかる道だ。
(この紙は、その道を歩むための、あくまで道具の一つだ。これを使って、俺は俺のやるべきことを成し遂げる。それだけだ)
邪な考えは消え去り、彼の心には再び、研究への静かで熱い決意が満ちていた。トーマスが提案した紙の事業化については、いずれ考える必要もあるだろう。だが、それはあくまで副次的なものだ。
レオナールは立ち上がり、自室へと戻るために歩き出した。彼の足取りには、もう迷いはなかった。目の前には、解き明かすべき世界の謎と、救うべき未来の命が待っている。