表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
血液内科医、異世界転生する  作者:
アンブロワーズへの道
129/168

第百二十八話:輸液への光明

グライフ商会治療院本院の一室。そこはレオナールのために、コンラート会頭が特別に用意した研究と思索のための空間だった。壁にはレオナールが持ち込んだベルク紙が何枚も貼られ、そこには彼がこれからアンブロワーズの術者たちと共有したいと考える、新しい医学体系の骨子が、細かい書き込みがなされた精密な図で描き出されていた。


その日、レオナールは筆頭術者であるヴァレリーと二人、その図を前にして向き合っていた。これは、本格的な技術交流を始めるにあたり、まず双方の知識レベルと目指す方向性を共有するための、重要なすり合わせの場であった。


「――そして、これが私が皆さんにお伝えしたい知識の全体像です。『全身管理』とでも呼ぶべき概念で、生命活動の根幹である循環、呼吸、代謝。これらを術中術後を通じて安定させることが、高度な外科医療の成功率を飛躍的に高めるという考え方です」


ヴァレリーは、レオナールが示した壮大なカリキュラム案――体系化された生理学の基礎――に、深い感嘆の息を漏らした。彼女の瞳には、長年の臨床経験の中で漠然と感じていた数々の疑問が、レオナールの理論によって鮮やかに解き明かされていくことへの、知的な興奮が宿っている。


「この理論…素晴らしいです。循環、呼吸、代謝。我々が『生命力』と呼んできたものの正体が、これほど論理的に説明できるとは…。ですが」と彼女は、循環に関する図を指でなぞりながら、現実的な問いを投げかけた。「この理論を実践するには、大きな壁があります。長時間にわたる手術中、口から水分や栄養を摂れない患者の体液バランスを、我々はどう維持すればよいのでしょうか」


その問いは、レオナールがまさに議論の中心に据えようとしていた課題だった。

「その通りです、ヴァレリー殿。全身管理の基礎は、まず循環管理にあります。体内の水分量を適切に保ち、血圧を維持し、必要な薬剤を安定して投与する経路を確保すること。そのための具体的な手段として、私は『輸液システム』の確立が不可欠だと考えています」


レオナールは、新たなベルク紙にシステムの概念図を描き始めた。輸液ボトル、流量を調整するクレンメ、そして血管へと繋がる針とチューブ。


「針については、ひとまずヴォルグリムで試作した中空針と同等なものを流用するしかありません。真の課題は、このチューブです。取り回しの効く柔らかさを持ち、かつ感染を防ぐために滅菌、少なくとも殺菌可能でなければならない。現状で使える手段は、高圧蒸気とアルコールくらいです。この過酷な条件に耐えられる柔軟な素材を見つけ出す必要があります」


レオナールは、布に天然樹脂を浸透させる複合素材というアイデアを打ち明けた。幸いにもアンジェは多様な種族と文化が交差する交易都市だ。ヴァレリーの助言も得て、ギルバートに命じ、彼は王都では見かけないような、様々な土地から集められた天然樹脂のサンプルを可能な限り収集させた。


治療院の裏手にある、普段は薬草の乾燥などに使われる工房が、レオナールのための臨時の実験場となった。数日後、そこはさながら異国の市場のような雑多な匂いに満たされた。南方の森林地帯で採取されたという琥珀色の樹脂、猫人族が装飾に使うという漆に似た樹液、隣国の鉱山から産出するらしい脆い結晶。レオナールは、それらを一つ一つ、系統的に検証していった。


しかし、実験は難航を極めた。

最初に試した光沢の美しい樹脂は、柔軟性こそ申し分なかったが、煮沸した湯に入れた途端、見る影もなく溶けてどろどろの塊へと姿を変えた。高圧蒸気滅滅菌など論外だった。

次に試した、鉱物由来の硬質な樹脂は、高圧蒸気に晒してもびくともしなかった。レオナールは一瞬期待したが、完成したチューブを軽く曲げた瞬間、パキン、という乾いた音と共にガラスのように砕け散った。

「これでは、ただの脆い管だ…」

アルコールへの耐性も大きな壁だった。熱や衝撃に耐えた試作品も、高濃度のアルコールに一晩浸しておくと、表面がぬるりと溶け出したり、アルコールを吸収してふやけてしまったりして、使い物にならなかった。彼の足元には、そうした失敗作の残骸が、日増しに積み上がっていった。


「行き詰まりましたか、レオナール様…」

数日後、実験の様子を見に来たヴァレリーが、心配そうに声をかけた。

「ええ。単一の素材で全ての条件…柔軟性、耐熱性、耐薬品性を満たすのは、極めて難しいようです。何か、複数の素材を組み合わせる知恵が必要なのかもしれません」


その言葉に、ヴァレリーは何かを思い出したように、ふっと口元を緩めた。

「それでしたら、ヒントがあるかもしれません。この街の職人区画に、馬車の幌や山岳警備隊の防水外套を作っている工房があります。彼らが使う樹脂は、熱にも強く、冬の厳しい寒さでもひび割れないしなやかさを持つと聞きます」


その助言は、まさに天啓だった。レオナールはすぐさまギルバートを伴い、その工房を訪れた。工房の主である老職人は、レオナールの問いに、長年の経験に裏打ちされた知恵を披露してくれた。

「ああ、この樹脂かい? こいつは東方の珍しい虫から採れるもんでね。そのままだと硬すぎて、冬場なんざすぐにひび割れちまう。だがな、こいつを少し混ぜて熱してやるんだ」

職人は、一つの小瓶を指差した。中には、粘度の高い、特有の匂いを持つリシナスという植物の実から絞った油が入っている。

「この油を混ぜて練り込むと、不思議と粘りが出て、しなやかになる。職人の間じゃ、当たり前の知恵だよ」


その言葉を聞いた瞬間、レオナールの頭に衝撃が走った。

(油を…混ぜる…? そうか、可塑剤か!)


医師であった彼にとって、それは専門外の、あくまで「教養」として記憶の引き出しの奥深くにしまわれていた知識だった。素材そのものを開発する場面に直面するまで、その引き出しが開けられることはなかったのだ。

(迂闊だった…! 俺は「完璧な単一素材」を探すことばかりに囚われて、素材の性質を後から調整するという、基本的な材料科学の発想が完全に抜け落ちていた!しかも、前世では化学工業の産物であったその概念が、この世界では職人たちの経験則として当たり前に存在していたとは…!)


驚きは、技術そのものに対してではない。自身の思考の死角と、この世界の職人たちが持つ実践的な叡智の深さに対してだった。


彼は職人に丁重に礼を言うと、その虫由来の樹脂とリシナスの油をありったけ買い求め、治療院へと飛んで帰った。


最後の実験は、これまでの試行錯誤が嘘のようにスムーズに進んだ。芯材には、最もしなやかで強靭な絹の布を選ぶ。溶解した琥珀色の樹脂に、あのリシナスの油を様々な比率で慎重に加え、均一になるまで撹拌する。そして、その樹脂液を絹布に丁寧に浸透させ、チューブを成形した。


完成した試作品は、これまでとは明らかに違っていた。乳白色のチューブは適度な弾力があり、指で強く曲げてもひび割れることなく、しなやかに追従する。彼は、そのチューブを煮沸した湯の中に数分間浸したが溶け出すことはなかった。一方で高圧蒸気やアルコール処理には耐えられないようだった。


「……煮沸消毒は可能なものができた。最初の試作品としては、十分すぎる」


ヴァレリーも、完成したチューブを手に取り、そのしなやかさと耐久性に目を見張った。

「素晴らしい…。この一本の管が、我々の創縫術、いや、この国の医療の未来を大きく変えるかもしれません」


レオナールの言葉に、彼女は静かに頷いた。王都に戻れば、可塑剤の検討も含め、さらに改良の余地はある。少なくとも高圧蒸気滅菌に耐えることができる素材が必要。また、樹脂がわずかに溶け出すことによる長期的な影響も、いずれは検証しなければならない。だが、正常な免疫を持つ患者が、緊急時に短時間使用するだけであれば、許容できる範囲のはずだ。


それは、この世界の医療を、また一つ、新たなステージへと押し上げる、確かな光明だった。彼は、この小さなチューブの先に、救えるはずの多くの命の未来を、確かに見ていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ