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血液内科医、異世界転生する  作者:
アンブロワーズへの道
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第百二十七話:北の夜、交わされた未来への誓約

アンブロワーズ領の領都アンジェを包む夜気は、王都のそれとは比べ物にならぬほどに冷たく、澄み渡っていた。吐く息は白く凍り、石畳を照らす魔法の街灯の光も、どこか凛とした硬質的な輝きを放っている。レオナール・ヴァルステリアは、襟を立てて寒さをしのぎながら、アンブロワーズ伯爵が用意してくれたゲストハウスへの道を、従者のギルバートと共に歩んでいた。日中の喧騒が嘘のように静まり返った街並みの向こうには、雪を頂いた峻険な山々のシルエットが、月明かりの下で荘厳に浮かび上がっている。


彼の頭の中では、つい先ほどまで続いていた、あの濃密な対話の熱がまだ冷めやらぬまま渦巻いていた。グライフ商会が運営する治療院の一室で、筆頭術者ヴァレリーと交わした言葉の数々。それは、単なる学術的な意見交換ではない。この世界の医療の未来を左右するかもしれない、異なる知識体系を持つ二人の探求者の魂が、互いの存在を認め、共鳴し合う、約束の儀式にも似た時間だった。


(……ヴァレリー殿との対話で、今後の方針は概ね定まった)


レオナールは、白い息と共に思考を巡らせる。彼女の、生命に対して真摯に向き合う姿勢と、長年の経験に裏打ちされた深い洞察力。そして、未知の知識に対する貪欲なまでの探求心。彼女とならば、自分が目指す医療革命を、共に、そして確実に前進させることができる。その確信が、彼の胸を熱くしていた。


アンブロワーズに滞在する間にやるべきこと。その優先順位は、ヴァレリーとの長時間にわたる対話の中で、自ずと明確になっていた。

(やはり、最優先で取り組むべきは、伝達針を用いた麻酔法の解剖学的検討だ)


ヴォルグリムでの、自らを被験者とした実験は、確かに一つの可能性を示した 。だが、同時に、重大な課題も浮き彫りになった。


(脊髄くも膜下麻酔は、概念実証としては成功した。だが、効果はあまりに限定的だった)レオナールは、自らの身体で体験した感覚の消失と、その範囲を正確に思い返していた。

(ミロ殿の『痺れの術』は、リドカインのような液体の局所麻酔薬とは異なり、髄腔内で液体のように拡散することがない。術の効果は、伝達針の先端周囲、ごく狭い範囲の神経にしか及ばなかった。ヤコビー線上で穿刺した結果、麻痺したのは第四腰椎以下の神経のみ。これでは下肢の手術には使えても、我々が目指す開腹手術に必要な腹壁の麻酔レベルには到底到達しない)


その技術的限界をヴァレリーに説明した際、彼女もまた、深く頷いていた。そして、二人の結論は一致した。より高位――おそらくは胸椎レベルでの穿刺が、開腹手術には必要となるだろう、と。しかし、そこには脊髄本体が存在し、損傷のリスクは腰椎穿刺の比ではない。


(だからこそ、ご遺体での検討が不可欠となる。胸椎レベルくらい高位になれば、おそらく針は髄腔にあたらず背骨にあたると思われるが、前世の医学では手技として確立していたわけではない。安全性を高めるためには検証が必要だ。それらを、この世界の人間で、この目で直接確認しなければ、実用などできない)


しかし、その「機会」の背景にあるシステムを思う時、レオナールの胸には複雑な感情が渦巻いた。ヴァレリーが語った、治療費や借金の減免と引き換えに、死後の身体を医学の発展のために提供するという契約。それは、この世界の過酷な現実が生んだ、一つの合理的な解決策なのかもしれない。だが、前世で医師として叩き込まれた倫理観が、そのシステムに対して静かに警鐘を鳴らしていた。


(人の死を、金銭的な価値で取引する…。それは、果たして許されることなのか?生前の同意があったとしても、その背景にあるのは貧困や絶望だ。それは真に自由な意志と言えるのだろうか。前世であれば、献体はあくまで無償の、尊い自己犠牲の精神に基づくものだった。だが、この世界では、それが経済的な契約として成り立っている。その事実を、俺はただの「好機」として受け入れてしまって良いのだろうか……)


彼の心に、深い葛藤が生まれる。だが、同時に、冷徹な科学者としての一面が囁きかける。この機会を逃せば、外科医療の発展は数十年、いや数百年遅れるかもしれない。その間に失われる命の数を思えば、このシステムを利用することこそが、より多くの命を救うための「必要悪」なのではないか、と。

(……今は、この葛藤から目を背けるわけにはいかない。だが、立ち止まることも許されない)


レオナールは、この倫理的な問いを自らの内に深く刻み込みつつ、それでも前に進むことを決意した。少なくとも、解剖が1例行われるまでは、このアンブロワーズの地に留まらなければならない。


(それまでの時間は、輸液システムの開発を進めよう。外科手術の基盤となる循環管理は、絶対に疎かにはできない。母上の時も、感染症による敗血症性ショックで、循環動態が破綻しかけたが、あの時の様に毎回魔法で対処するのは現実的ではない。安全な輸液ルートを確保し、体液バランスを維持する技術。それなくして、外科の発展はあり得ない)


同時に、周術期管理や麻酔管理に必要な生理学的知識――循環、呼吸、代謝といった生命活動の根幹について、ヴァレリーやルーカスといった術者たちへ講義を行うことも計画に加えた。この世界の医療には、まだ体系化された生理学の概念が存在しない。経験則で補われてきたその領域に、科学的な視点からの知識を導入することで、術後の回復率や生存率は飛躍的に向上する可能性がある。それは、アンブロワーズの外科レベルを、さらに一段階引き上げるための、確実な布石となるはずだった。


そして、ヴァレリーと最も深く議論を重ねるべき、もう一つの重要なテーマ。

(最初の開腹手術の適応についても、彼女とよく検討しなければならない)


新しい麻酔法が確立されれば、これまで不可能とされてきた腹腔内へのアプローチも、理論的には可能となる。だが、それは同時に、未知なるリスクとの戦いの始まりをも意味する。どのような患者に、どのような状態の時に、その大きなリスクを冒してまで腹を開くべきなのか。その判断基準――適応の決定――は、外科医にとって最も重く、そして最も重要な責務だ。ヴァレリーもまた、その重みを深く理解していた。彼女が積み重ねてきた臨床経験と、レオナールが持つ病態生理学の知識。その二つを融合させ、慎重に、そして厳密に適応基準を定めていく必要がある。


彼の思考は、さらにその先、王都へ戻ってから取り組むべき課題へと及んだ。アンブロワワーズは外科技術の最前線だが、化学研究の拠点ではない。


(化学的なアプローチは、全て王都に戻ってからだ。アンブロワーズは外科の『術』を学ぶ場。物質を創り出す『学』を探求するには、物質科学研究センターの設備と、マルクスやクラウスのような専門家の力が必要不可欠だ)

彼は、いくつかの重要な研究テーマを、戦略的に「先送り」することを決断した。


(ホルマリンの開発もその一つだ。ヴァレリー殿が語っていた、アルコール固定による組織変性の問題。ホルマリンはその完璧な解決策となりうるが、木材の乾留で得られる木精からのメタノール精製と、それを酸化させる触媒反応……。これは、ここアンブロワーズで片手間にできることではない。王都での体系的な研究テーマとして据えるべきだ )


抗菌薬開発も同様だった。

(マルクスさんとクラウスさんに研究を進めるようにお願いしてきたけど、現在の進捗はどうなっているのだろう。あの二人なら心配はないが、なにせ運要素が大きすぎる)


そして、麻酔薬そのものの開発。

(兎人族の『痺れの術』は、まさに天啓だった。だが、いつまでも彼らの特異な能力に依存するわけにはいかない。兎人族の術者以外で『痺れの術』の再現を検討することも必要だが、何より誰もが使える、化学合成による局所麻酔薬の開発。そして、いずれは安全な全身麻酔薬の創出も……。だが、これもまた、王都で腰を据えて取り組むべき、遠大なる目標だ。今は、焦るべきではない)


ゲストハウスの温かい灯りが見えてきた。アンブロワーズでやるべきこと、そして王都に帰ってからやるべきこと。二つの道筋が、彼の頭の中で明確に整理された。長いようで短い、しかし確実に未来へと繋がる重要な時間が、始まろうとしていた。

更新頻度落ちてて申し訳ないです。

物語が長大になってきて、自分の能力的に毎日更新は難しそうです。


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