第百二十六話:探求者たちの対話
レオナールが語った、母の死を乗り越えて抱いた壮大な医療革命への誓い。その言葉は、ヴァレリーの心の奥深くに、静かに、しかし確かな重みをもって届いていた。彼女は、目の前の若き公子の瞳の奥に宿る、あまりにも深く、そして揺るぎない決意の光に、ただ圧倒されていた。彼女もまた、多くの死と、そして多くの生命の誕生に立ち会ってきた。その中で、常に感じてきた無力感と、それでもなお技術を前に進めようとする意志。それが、目の前の若者の言葉と、奇妙なほどに共鳴していた。
長い沈黙の後、ヴァレリーはふっと息を吐き、これまで誰にも明かしたことのない、グライフ商会の最も深い秘密について、静かに語り始めた。
「あなたがおっしゃる『外科』…体を開き、内部の病巣に直接アプローチするという構想が、我々に全くなかったわけではありません」 彼女の声は、診察室の清浄な空気に溶け込むように、低く、そして澄んでいた。「ですが、レオナール様、あなたが的確にご指摘された通り、我々の前には常に二つの大きな壁が立ちはだかっていました。一つは、兎人族の『痺れの術』では、腹の奥深くまでは届かないという麻酔の限界」
「そしてもう一つは、より根源的な問題です」彼女は続けた。「たとえ麻酔の問題が解決したとして、一体どのような症例が、その大きな危険を犯してまで腹を開くに値するのか。その判断基準が、我々には全くつかなかったのです」
その言葉は、この世界の医療が直面する、診断技術の絶望的なまでの欠如を物語っていた。レオナールは、静かに頷き、彼女の次の言葉を待った。
「だからこそ、我々は別の方法で、その壁を乗り越えようとしてきました」ヴァレリーの視線が、わずかに床へと落とされる。まるで、禁忌の領域に足を踏み入れることを、今一度、ためらうかのように。
「グライフ商会では、治療費や、あるいは抱えられた借金を減免する対価として、ご本人の生前の同意のもと、そのお体を我々の研究のための『検体』として提供していただく契約を結ぶことがあります」
その言葉に、レオナールの背筋がわずかに伸びた。ファビアンが示唆し、トーマスが掴みきれなかった「解剖」の真実が、今、まさに明かされようとしていた。
「検体となる方の多くは、あなたのお母上のように、何らかの病によって亡くなられます」 ヴァレリーの声には、深い哀悼の念が込められていた。「そして、そのお体をお借りし、我々は解剖を行っています。体内のどこに病巣があったのか、なぜ死に至ったのか。その原因を探ると同時に、もし生前に我々が腹を開くことができたなら、どのようにすればその病巣を安全に取り除くことができたのか…どの血管を処理すべきか、傷ついた部分をどう繋ぎ合わせるべきか。その術式を、来るべき未来のために、机上演習のように毎回検討しているのです」
それは、レオナールの想像を遥かに超える、地道で、そして悲壮なまでの探求だった。生きた患者を救う術がないからこそ、死者の体から未来の医療を学ぶ。その事実に、彼は深い感銘と、そしてこの世界の医療が置かれた過酷な現実を改めて痛感した。
「その解剖は、どれほどの頻度で行われているのですか?」レオナールは、科学者としての純粋な興味から尋ねた。
「多くはありません。月に一、二例といったところでしょうか」 ヴァレリーは答えた。「亡くなられた直後、体がまだ温もりを失わないうちに、数時間をかけて行います」
「解剖は、腹部だけなのですか?」
「腹部だけということはありませんが、多くは腹部の解剖で死因を考察することがほとんどです。時には、頭部を調べることもあります」
レオナールの脳裏に、ヴァルステリア家の書庫で見た、あの精密な解剖図が浮かんだ 。あれは、単なる部分的な解剖から得られる知識ではない。
「ですが、ヴァレリー殿。私が王都で目にした、おそらくはアンブロワーズから流出したと思われる解剖図は、四肢の筋肉や神経の走行まで、極めて詳細に描かれていました。あれは、全身を系統的に、そして時間をかけて解剖しなければ、決して描けないはずのものです」
その問いに、ヴァレリーは静かに頷いた。
「ええ、その通りです。今のような冬場は、ご遺体の腐敗が進みにくいため、時間的なゆとりがあり、比較的丁寧に、そして広範囲に解剖を行うこともあります」 彼女は、窓の外の雪景色に目をやりながら言った。「ですが、あなた様が見られたような全身の系統的な解剖は、滅多に行いません。以前は、ご遺体をアルコールに浸して防腐処理を施し、時間をかけてゆっくりと解剖を試みた時期もありました。ですが、アルコールに漬けた体は、組織が脆くなったり、あるいは収縮して本来の形から大きく変形してしまったりすることが多く、結局、亡くなられた直後の、生きた状態に近い体で観察する方が、我々の目的…つまり、手術手技の探求には好ましいと分かったのです。ですから、最近は時間的制約から、部分的な解剖が中心となっています」
その言葉は、レオナールにとって、雷に打たれたかのような衝撃だった。
アルコールによる固定。組織の変性。その問題点は、彼も痛いほど理解していた。だが、彼の脳裏には、全く別の、そしてより優れた固定法の記憶が鮮明に蘇っていた。
(……そうか。学生時代の系統解剖…あの独特の匂い。ご遺体は、まずホルマリン溶液を血管から全身に灌流させ、組織の隅々まで固定した後に、長期間保存するためにアルコールに浸されていたんだ)
ホルマリン。単純な化学構造を持つ、強力なタンパク質固定作用を持つ物質。それは、前世の医学、特に解剖学と病理学の発展を支えた、最も基本的な薬品の一つだった。
(この世界には、まだホルマリンが存在しない。だから、彼らはアルコールという不完全な方法に頼るしかなく、結果として系統的な解剖学の発展が阻害されている。だが、ホルマリンの原料はメタノール。そしてメタノールは、木材の乾留で得られる木精の主成分だ。この世界の技術でも、十分に製造可能だ。王都に戻ったら、その製造に取り組む必要があるな)
彼の胸に、新たな、そして極めて具体的な研究テーマが灯った。それは、アンブロワーズの外科医療が抱える根本的な問題を解決し、彼らの知見を飛躍的に向上させる可能性を秘めていた。
「なるほど…つまり、系統的な解剖学の探求における最大の壁は、ご遺体を長期間、生きた状態に近い形で保存する技術そのものにある、ということですね。その厳しい制約の中で、これほどの知見を積み重ねてこられたあなた方の探求心には、ただ頭が下がるばかりです」
レオナールの深い理解と敬意に満ちた言葉に、ヴァレリーはこれまで胸の内に秘めてきた探求の壁と、その先に見据える理想を、堰を切ったように語り始めた。アルコール固定がもたらす組織の変性の具体的な問題点、戦場で培われた独創的な止血の技術、そして開腹手術という夢の実現を阻む数々の課題。レオナールもまた、自身の知識を小出しにしながら、彼女が抱える問題点に対して新たな視点を提示していく。異なる世界で、異なる道を歩んできた二人の叡智は、互いを補い、刺激し合いながら、時間を忘れて交錯した。二人の対話は、その日、夜が更けるまで続いたのだった。