第百二十五話:創縫の筆頭術者
ヴァレリーに案内されて足を踏み入れた診察室は、ヴォルグリム湖畔のあの無骨な治療院で見た光景を、より洗練させた形で再現したかのような空間だった。中央に置かれた機能的な診察台、壁際に整然と並べられた煮沸消毒済みの金属器具、そして天井から診察台の上を多角的に照らし、術者の手元に一切の影を作らないよう設計された無影灯のような照明設備。全てが、華美な装飾を排し、ただひたすらに「治療」という目的のために最適化されている。本院であるここは、さらに広く、清潔で、隅々まで磨き上げられており、グライフ商会が持つ技術力の高さを静かに物語っていた。
「どうぞ、お掛けください」
ヴァレリーは、診察台の横に置かれた簡素な木製の椅子を指し示した。レオナールは礼を述べ、その椅子に腰を下ろす。ヴァレリーもまた、彼の正面に静かに腰を下ろした。二人の間には、探るような、しかし互いの知識と技術に対する敬意が入り混じった、濃密な沈黙が流れる。先にその沈黙を破ったのは、ヴァレリーだった。
「ルーカスからの早馬での報告、そして先日のコンラート会頭との会談の記録も、全て拝見しました」彼女の声は、落ち着いていて、深く、聞く者に不思議な安心感を与える。「ヴォルグリムで示されたという『伝達針』の概念と、それを用いた神経への直接的なアプローチ。正直に申し上げて、驚嘆するほかありません。我々が長年、経験則の先に夢想だにしながらも、決して手の届かなかった領域です。単刀直入にお伺いします、レオナール様。どのような観点から、あの着想に至られたのですか?そして、『モルヒネ結晶』と呼ばれる新たな薬。あれは、我々の創縫術に、どのように応用できるとお考えでしょうか?」
その問いは、レオナールがまさに望んでいたものだった。彼は、自身の知識の源泉をどこまで明かすべきか一瞬考えたが、目の前の女性が、この世界で最も進んだ外科的知見を持つ人物の一人である以上、小手先の誤魔化しは通用しないと判断し、可能な限り誠実に答えることとした。
「お答えします」レオナールは、静かに、しかし確信を込めて語り始めた。「伝達針の発想の源は、幼い頃に遡ります。幸いにも、私の実家であるヴァルステリア家の書庫には、いくつかの精密な人体の解剖図がございました。それを読み解くうちに、私は、我々の体を動かし、あるいは痛みや熱さを感じさせるのは、脳から全身へと伸びる『神経』という筋の働きによるものではないか、と考えるようになりました。感覚を頭に伝える機能と、運動の指令を筋肉に伝える機能。その二つがあるのだと」
「以前、ふとした拍子に肘を強く打ち付けた際、腕の内側から小指と薬指にかけて、電気が走るような強い痺れを感じた経験があります。これは、肘の内側を通る太い神経を直接刺激した結果、その神経が支配する領域に異常な感覚が生じたのだと、私は解釈しました」
ヴァレリーは、黙ってレオナールの言葉に耳を傾けている。その深い色の瞳は、彼の言葉の真偽と、その奥にある論理の整合性を冷静に見極めようとしているかのようだ。
「そして半年ほど前、王都の市場で、兎人族の行商人の方と会う機会に恵まれました。彼らが『痺れの術』という、局所的な痛みを和らげる魔法を使うと聞き、私は一つの仮説を試してみたのです。もし、あの肘の痺れる部分…つまり、神経そのものに術をかけたらどうなるか、と。結果は、私の予測通りでした。術をかけられた肘だけでなく、そこから先の、小指と薬指の感覚が完全に消失したのです。このことから、痺れの術の真の作用は、感覚を脳に伝える神経の機能を、一時的に遮断することにあるのだと確信いたしました」
「行商隊の方々も時間がなく、その試みは一度きりでしたが、その時から考えておりました。もし、体のより中枢…根本に近い神経に術を効かせることができれば、一度に、そしてより広範囲に麻酔をかけることが可能になるのではないか、と。今回、ヴォルグリム湖畔の街で、ルーカス殿やミロ殿のご協力を得て、その仮説を何度も試すことができたのは、望外の幸運でした」
レオナールの説明に、ヴァレリーは深く息をのんだ。それは、偶然の発見ではない。解剖学的な知識、日常の経験からの鋭い洞察、そして未知の魔法に対する科学的な仮説検証。その全てが論理的に組み合わさって生まれた、必然の発見だった。
「……信じがたいほどの、観察眼と洞察力です」ヴァレリーは、ようやく言葉を絞り出した。「ですが、最後の実験…ご自身の背骨に針を刺したという、あの試み。針を刺す場所は、一体どのようにしてお決めになったのですか?一歩間違えれば、取り返しのつかない事態になりかねない。極めて危険な行為だったと、私は思いますが」
「ええ、その危険性は十分に認識しておりました」レオナールは、動揺を見せずに答えた。「刺した場所の決定も、やはり解剖図を参考にしています。あの場所は、中枢神経そのものであると思われる太い脊髄に絶対に針が当たることなく、それでいて、腰の骨と骨との隙間から、下半身を支配する太い神経の束のすぐ近くまで、安全に針を通せると判断したのです」
そのあまりに冷静な返答に、ヴァレリーはついに、最も聞きたかった核心的な問いを口にした。その声には、わずかな震えが混じっていた。
「……レオナール様。なぜ、そこまでなさるのですか?なぜ、ご自身の身体を危険に晒してまで、その技術を求めるのですか?」
レオナールは、その問いに、静かに目を伏せた。脳裏に、苦しみながら息を引き取った母の顔が浮かぶ。
「私の母は、数年前に病で亡くなりました」彼の声は、低く、重かった。「体内の深い場所で起きた問題に対し、外から薬を与えるだけでは、根本的な解決には至らなかったのです。私は、その時、自らの無力さを痛感しました。直接、身体の内部に触れ、病巣を取り除き、傷ついた部分を修復する技術。私が『外科』と呼ぶそのアプローチがなければ、決して救えない命があるのだと。その『外科』へのヒントが、このアンブロワーズの地にあると、私は確信しています」
彼は顔を上げ、ヴァレリーの目を真っ直ぐに見つめた。
「あなた方が持つ創縫術は、素晴らしい。ですが、私が見させていただいた現状では、おそらく腹を切り、内臓にまでアクセスするような手術は、麻酔の限界から不可能でしょう。しかし、伝達針を用いた広範囲麻酔が確立されれば、その可能性が生まれます。そして、手術中の麻酔の補助、もしくは術後の激しい痛みを安全にコントロールできるのが、私が開発した『モルヒネ結晶』なのです」
「もちろん、開腹手術の実現には、他にも解決すべき問題が多数あります。感染を防ぐための薬、術中術後の全身管理、そして何よりも、正確な解剖学的知識。私は、このアンブロワーズに滞在させていただいている間に、それらの課題に対する具体的な方向性を見出し、あなた方と共に、その道を切り拓くための第一歩を踏み出してから、王都へ戻りたいのです」
その言葉は、もはや単なる技術への興味ではない。一人の医師としての、そして母を失った一人の息子としての、魂からの誓いだった。ヴァレリーは、目の前の若き公子の瞳の奥に宿る、あまりにも深く、そして揺るぎない決意の光に、ただ圧倒されていた。