第百二十三話:禁忌への取引
静寂が、アンブロワーズ伯爵の執務館の一室を重々しく満たしていた。レオナールが提示した二つの未来――美容外科という新たな市場と、局所麻酔薬の共同開発という根本的な技術革新――は、商人であるコンラート会頭の心を揺さぶり、その思考を沈黙の海に沈めていた。計算高い彼の頭脳が、利益とリスクを天秤にかけ、激しくそろばんを弾いている。その張り詰めた均衡を破ったのは、これまで玉座に座す王のように静かに二人のやり取りを見守っていた、アンブロワーズ伯爵その人だった。
「面白い提案だ、ヴァルステリアの公子」
鷲のように鋭い双眸が、射抜くようにレオナールを捉える。その視線は、もはや一介の学生ではなく、未知の価値を持つ交渉相手を見定める光を宿していた。
「だが」と伯爵は、年輪の刻まれた手でテーブルをゆっくりと撫でながら続けた。「公子の提案は、いずれも遠い未来への種蒔きに過ぎん。それが芽吹き、グライフ商会に実利をもたらすのが五年後か、十年後か…あるいは、この儂が土に還った後かもしれん。短期的な利益には、残念ながら繋がらぬ」
その言葉に、コンラートがわずかに安堵の表情を浮かべたのも束の間、伯爵の言葉は予期せぬ方向へと舵を切った。
「しかし、ヴォルグリムで君が示したという『伝達針』の概念や、ルーカスを驚かせたという新しい縫合方法。それらは、短期的に見ても我らの創縫術に革新をもたらす可能性を秘めている」 伯爵はテーブルに肘をつき、コンラートとレオナールを交互に見据えた。「つまるところ、これは君がもたらすであろう未来の製品ではなく、君のその頭脳そのものに投資する、ということになる。アンブロワーズ家としては、創縫術のさらなる発展に、レオナール・ヴァルステリアという存在は必須と判断する。…儂の役目はここまでだ。あとは、会頭と公子、二人で話すが良い」
そう言い残すと、アンブロワーズ伯爵はまるで後のことに一切興味がないとでもいうように、静かに席を立ち、執務長グスタフと共に部屋を後にしてしまった。残されたのは、レオナールと、そして領主直々に「交渉成立」という無言の圧力をかけられたコンラート会頭の二人だけだった。
コンラートは、閉ざされた扉をしばし見つめた後、重々しく息を吐き出した。その額には、じわりと汗が滲んでいる。
「……伯爵閣下にそう言われてしまっては、我々に否やはございませんな」彼は、商人らしい鷹揚な笑みを無理やり浮かべながら、レオナールに向き直った。「共同研究、お受けしましょう。正直なところ、あなたの提案が絵に描いた餅に終わったとしても、あなたという類稀なる才能が関わることで、何か別の、我々が予期せぬ利益が生まれるやもしれんと、そう感じてもおります。商売の本質とは、予定通りに物事が進むことではなく、想定外の事態にどう対処するか、ですからな。あなたはその要点を、よく理解されているように見える」
そして、彼は少しだけ本音を漏らした。
「それに、グライフ商会としても、共同研究そのものに大きなリスクがあるとは考えておりません。だからこそ、先日、ヴォルグリムの治療院の見学も許可したのです」
「では、交渉成立ということで、ありがとうございます」レオナールは礼を述べつつも、相手の目の奥にある警戒の色を見逃さなかった。「ですが、それはつまり、私が最も関心を寄せている『解剖』については、やはり難しい、ということですね?」
その直接的な、あまりにも踏み込んだ言葉に、コンラートの鷹揚な笑みが凍りついた。驚いたように一瞬言葉を詰まらせ、部屋の空気が再び張り詰める。しばしの沈黙の後、彼は重々しく口を開いた。
「……最初に伯爵閣下からあなた様の話を伺った時から、そのご興味の先がどこにあるかは、察しておりました。ですが、ヴァルステリアの公子というお立場でその言葉を口にされるのは、あなた様ご自身の立場をも悪くしかねませんぞ。教会が聞けば、どう思うか」
その声には、警告と、そしてこれ以上踏み込むなという牽制の色が混じっていた。
「承知の上です」レオナールは、間髪入れずに言葉を返した。彼の瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。
「私の推察が正しければ、グライフ商会は、禁忌感を伴う『解剖』を主体的に行うというリスクを負い、創縫術を発展・維持することで、このアンブロワーズ領内において、他に替えの効かない存在感を確立してこられた。だからこそ、リスクを鑑みれば不採算部門であるにも関わらず、事業を継続されてきたのではありませんか?そして、その収益化を考えた時、先ほどおっしゃっていた、ヴァレリー殿が開発されたという器械縫合技術の販売という発想に行き着く」
レオナールの的確な分析に、コンラートの目が鋭く細められる。この若者は、ただの学者ではない。商売の本質すら見抜いている。
「そこで、ご提案です」レオナールは、最後のカードを切った。「もし、この場で私に、解剖への参加も含めた完全な情報開示をお認めいただけるのであれば、私はその『解剖』そのものが持つ禁忌性を、王都で緩和するための交渉が可能です。宮廷魔術師のファビアン・クローウェル殿には、既に私の解剖への興味は伝えてあります。そもそも、私がアンブロワーズの情報を得て、こうして交渉の場に来ることができたのも、ファビアン殿の力添えあってこそ。彼を介して、王家や然るべき筋に働きかけることは不可能ではありません」
ファビアン・クローウェル。
その名が持つ重みを、商人であるコンラートが知らないはずはなかった。王国の影の実力者、国王の懐刀とも噂される大物の名が、この若き公子の口から、これほど確信に満ちた形で語られるとは。伯爵からは、一言も聞かされていない。まさか、この一件の背後に、それほどの人物が関わっていたというのか。
コンラートの頭の中で、そろばんが猛烈な勢いで弾かれる。
禁忌ゆえのリスク。それが、グライフ商会の力の源泉の一つであった。だが、もし、その禁忌そのものが、国家公認の形で取り払われるとしたら?リスクは消え、純粋な技術的優位性だけが残る。それは、事業を他領へ展開する上で、計り知れないメリットとなるだろう。レオナール一人にその内実を見せたところで、現状が大きく変わるわけではない。むしろ、彼を王都への交渉役として利用できるなら……。
天秤は、決した。
「……分かりました、レオナール様」コンラートは、観念したように、しかし新たな取引相手を見る目で、レオナールに告げた。「あなた様の覚悟、そしてその背後にあるものの大きさ、理解いたしました。ご協力しましょう。『創縫術』の全て…ええ、我々が秘匿してきた、その根幹も含めて、あなたにお見せいたします」
禁忌の扉は、軋みを上げて開かれようとしていた。その音は、新たな時代の幕開けを告げる祝鐘か、それとも彼を深淵へと誘う鎖の音か。レオナールはまだ、その答えを知らない。
ファビえも~ん




