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血液内科医、異世界転生する  作者:
アンブロワーズへの道
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第百二十二話:二つの未来

領都アンジェの城壁が雪化粧の向こうに見えた時、一行は心底安堵した。案内されたゲストハウスの暖炉の前で、レオナールは数日間の休息と、ヴォルグリムで得た膨大な情報の整理に没頭した。そして、彼の思考がまとまりきった頃合いを見計らったかのように、アンブロワーズ伯爵からの呼び出しは、速やかにもたらされた。


再び通された執務館の一室。そこには、鷲のような鋭い眼光を持つ伯爵本人と、もう一人、小太りで壮年の男性がレオナールを待っていた。その男の服装は、光沢を抑えた上質な生地で仕立てられているが、貴族のそれとは違う、実用性を重んじた商人のものであった。しかし、その鷹揚な態度の裏で、レオナールを一瞥した目は、まるで品定めをするかのように鋭く、人や物の価値を瞬時に見定める辣腕の商人のそれだった。


「待っていたぞ、公子」アンブロワーズ伯爵は、レオナールが席に着くのを待って、重々しく口を開いた。

「紹介しよう。彼が、我が領の経済、そして戦傷治療の要を担う『グライフ商会』が七代目会頭、コンラート殿だ」


「コンラートと申します。レオナール様の名声は、王都の商人仲間からもかねがね伺っております。ローネン州でのご活躍、実に見事であったとか」


コンラートは、鷹揚な笑みを浮かべながらも、その目はレオナールの知性、そして交渉相手としての価値を値踏みするように細められている。レオナールもまた、ヴァルステリア家の公子として、礼を尽くしながらも堂々とその視線を受け止めた。


「レオナール・ヴァルステリアです。コンラート会頭、先日は貴商会が運営されるヴォルグリムの治療院の見学を許可いただき、心より感謝申し上げます。大変、有意義な時間でした」


レオナールの礼儀正しい挨拶に、伯爵が「して、何か収穫はあったかな、公子?」と、探るような視線を向ける。


「はい。想像を遥かに超えるものでした。特に、兎人族の方々が使う『痺れの術』、その応用可能性について、大きな発見がございました」


レオナールは、ヴォルグリムの魔道具工房でボルガと開発した『伝達針』の概念と、それを用いた神経ブロックの実験について、簡潔に、しかしその革新性が十分に伝わるように説明した。痛覚を伝達する神経そのものを目標とし、より広範囲を、より効率的に麻痺させるという発想。その言葉に、コンラートの眉がわずかに動いた 。


「なるほど、面白いことを考える。若い方の発想は、実に柔軟ですな。して、レオナール様」コンラートは、いよいよ本題に入るといった口調で問いかけた。

「我々が最も興味あるのは、貴殿が開発したという『モルヒネ結晶』だ。あれは、我々の創縫術に応用できるものかな?」


レオナールは、その問いを待っていたかのように、静かに、しかしきっぱりと答えた。


「結論から申し上げますと、モルヒネ結晶は、兎人族の方々が使う『痺れの術』のような麻酔の代わりにはなり得ません。あれはあくまで強力な鎮痛薬であり、意識を保ったまま局所的な感覚を遮断する魔法とは、作用の原理が全く異なります」


コンラートの表情に、隠しきれない失望の色が浮かぶのを、レオナールは見逃さなかった。彼は、畳み掛けるように続けた。


「ですが、より大掛かりな手術、例えば腹を開くような処置においては、兎人族の術だけでは安全な麻酔管理は困難でしょう。その際、このモルヒネ結晶を補助的に用いることで、より深く、安定した鎮痛状態を維持することが可能になります。また、術後の激しい痛みを管理する上でも、これほど有効な薬剤は他にないでしょう」


しかし、コンラートはその提案に、緩やかに首を振った。彼の目は、完全に商人のものに戻っていた。


「残念ながら、それでは我々の最大の課題は解決しませんな」彼は、冷徹な現実論を口にした。「伝達針の開発も素晴らしいが、それは創縫術をより高度で複雑な方向へ進めるもの。結局のところ、それでは兎人族の術への依存から脱却できませぬ。彼らの術は属人性が高すぎて、事業として他領へ展開するには大きな障壁なのです。我々が今考えているのは、むしろ逆。ヴァレリーが開発した器械縫合のように、標準化された技術…例えば、小さな傷の縫合や体表の腫瘍除去といった比較的単純な処置を、他領の術者でも行えるような形で売り出すことなのです」



レオナールは、コンラートの言葉に静かに耳を傾けていた。彼の言うことは、商売としては理に適っている。だが、ここで引き下がるわけにはいかなかった。


「会頭のお考え、よく理解できます。私もヴォルグリムでその点こそが、貴商会の技術をさらに広める上での最大の障壁だと感じました。ですが、別の道もございます」レオナールは、ヴォルグリムでのルーカスとの会話を思い出しながら、新たなカードを切った。

「先日、ルーカス殿に、私が知る別の縫合法をお見せしたところ『美しすぎるが、時間がかかりすぎる』と一蹴されました。皮下埋没縫合という、縫い目が傷の中に完全に隠れる方法です」


「ほう?」コンラートが、わずかに興味を示した。


「確かに、戦場では悠長な技術でしょう。ですが会頭、貴商会の顧客は、戦場の兵士だけでしょうか?この縫合法は傷跡がほとんど残りません。もし将来的に体内で溶けてなくなる糸を開発できれば、抜糸も不要。例えば、顔に傷を負った貴族の御婦人方には、絶大な需要があるとはお考えになりませんか?これは、貴商会にとって全く新しい市場となり得ます」



コンラートの商人の目が、きらりと光った。レオナールは、その反応を見て、最後の提案を口にした。


「そして、会頭が最も懸念されている『痺れの術』の属人性についてですが、これも解決の道はあります。長期的にはなりますが、私と共同で研究を進めていただければ、兎人族の術と同様の効果を持つ薬剤を、化学的に開発することも可能です。いくつかの薬草には、痺れの術に近い効果を持つものが存在します。それらの原料植物から、私がローネン州で用いたクロマトグラフィーの技術を応用し、有効成分だけを純粋に単離・精製するのです。成功すれば、誰でも、どこでも使える、安定した局所麻酔薬が手に入ります。それは、貴商会の事業を根底から変える力となるでしょう」


その言葉は、もはや単なる薬の売り込みではなかった。グライフ商会の事業の根幹を揺るがし、新たな未来を共に築くことを迫る、レオナールの野心的な申し出だった。


コンラートは、目の前の若き公子の言葉の真意を測るように、しばし黙り込んだ。短期的な新市場の創出と、長期的だが根本的な課題解決。二つの未来が、同時に提示されたのだ。彼は、隣で静かに、しかし全ての会話を鋭い眼差しで見守っていたアンブロワーズ伯爵に、ちらりと視線を送る。伯爵は、ただ黙って、わずかに口の端を上げただけだった。交渉の天秤は、今、ゆっくりと動き始めようとしていた。

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