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血液内科医、異世界転生する  作者:
アンブロワーズへの道
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第百二十一話:湖畔の街の別れ

針が刺された腰椎の周辺から、まるで凍てついていた血が再び流れ出すかのような、チリチリとした微かな痺れが広がっていく。ゆっくりと、しかし確実に、レオナールは失われていた下半身の感覚を取り戻しつつあった。ミロが施した『痺れの術』の効果が、綺麗に消失し始めたのだ。


「……素晴らしい。術後の知覚回復も、実にスムーズだ」


レオナールは、自らの身体で証明された魔法の可逆性に、科学者としての純粋な感嘆の声を漏らした。隣では、ルーカスとミロが、まだ信じられないといった表情で、目の前で起きた奇跡の余韻に浸っている。


(脊髄くも膜下麻酔は、概念実証としては成功した。だが、問題点は多い。まず、穿刺針と伝達針を別々に使う今の方法では、手技が煩雑でリスクが高い。髄液の流出確認と術の伝達を一本で完結できる、中空構造の伝達針の開発が不可欠だろう。それに、術の作用深度や範囲も、まだ完全にコントロールできているとは言えない。だが、それでも…道は拓かれた)


今回のヴォルグリム湖畔の街での視察は、彼に想像以上の収穫をもたらした。アンブロワーズの『創縫術』の現実、兎人族が持つ『痺れの術』という切り札、そしてその応用可能性。伯爵が彼に課した「我が領の現状を見て、君の持つカードの価値を確かめよ」という宿題に対し、彼は今や、単なる鎮痛薬の提供という一枚のカードだけではない、医療体系そのものを革新しうる、より強力な手札を複数手にしていた。


「ギルバート」ベッドからゆっくりと体を起こしたレオナールは、控えていた従者に告げた。「ヴォルグリムでの調査は、これで十分だろう。領都アンジェへ戻る。すぐに出立の準備を頼む」


季節は、既に晩秋から初冬へと移ろいでいた。山々から吹き下ろす風は日増に冷たさを増し、空には時折、白いものがちらつき始めている。これ以上長居すれば、峠道が雪で閉ざされる危険性もあった。


出立までの短い時間、レオナールはお世話になった人々への挨拶回りに奔走した。


まずは、魔道具工房のボルガの元を訪れた。工房内は相変わらず鉄と油の匂い、そして魔力が迸る熱気に満ちている。レオナールが、伝達針の見事な出来栄えと、それによって可能になった実験の成功を伝えると、ボルガはぶっきらぼうな口調の中に、職人としての確かな満足感を滲ませた。


「ふん、儂は頼まれたものを、言われた通りに作っただけだ。そいつがどう使われようが、儂の知ったことではない。だが……」彼は、レオナールが返却した試作品の針先を、指先で確かめるように撫でた。「その針が、あんたの言う『新しい医療』とやらの役に立ったというのなら、まあ、悪い気はせんわい。もし、さらに改良が必要になったなら、いつでも言ってくるがいい。最高の仕事で応えてやろう」


「ありがとうございます、ボルガ殿。その時は、必ずご相談に上がります」


レオナールは、この無骨だが信頼できるドワーフの職人に、深く頭を下げた。


次に彼が向かったのは、ルーカスとミロがいる治療院だった。二人は、運び込まれてきた軽傷の兵士の手当てを終えたところだった。レオナールがアンジェへ戻ることを告げると、ミロは長い耳を揺らしながら、少し寂しそうな、しかし人懐っこい笑顔を見せた。


「なんだい、もう帰っちまうのかい、レオナール様。あんたと話してると、オラたちのこの術が、なんだかとんでもない宝物みたいに思えてきて、面白かったんだがなぁ。まあ、仕方ない。領都に戻っても、元気でな」


「ミロ殿にも、本当にお世話になりました。あなたの術がなければ、私の探求は始まりすらしなかったでしょう」


レオナールが感謝を述べると、最後にルーカスが、真剣な眼差しで彼に向き直った。


「レオナール様。アンジェに戻られたら、必ず、ヴァレリー殿に会ってください」その声には、有無を言わせぬ強い響きがあった。「彼女こそが、我々の『創縫術』を、単なる経験則から、今の『技術』へと引き上げた張本人です。貴方が示した『神経ブロック』や、あの針の概念…その真価を、我々の中で最も深く理解できるのは、間違いなく彼女です」


「ヴァレリー殿…心得ました。必ず」


「そして、レオナール様」ルーカスは、一瞬言葉をためらった後、意を決したように続けた。「あの針を、正確に、そして安全に目的の場所へと導くためには、ただ闇雲に刺すだけでは不十分です。その下にある、骨や筋肉、そして何よりも神経の走行を、正確に知る必要がありましょう。そのためには、我々は…その、ヴァレリー殿は、これまで幾度となく…」


彼の言葉が「解剖」に触れようとした、その瞬間だった。


「ルーカス殿」


レオナールは、静かに、しかしきっぱりとした口調で彼の言葉を遮った。


「それ以上は、おっしゃらないでください。あなた方が、どれほどの覚悟をもってその技術を磨いてこられたか、私には分かります。そして、その中には、軽々しく口外すべきではない事柄も含まれているのでしょう。私に話すことで、あなたやヴァレリー殿の立場が悪くなるようなことがあってはなりません。知るべき時が来れば、私は自らの手でその扉を開きます。ですから、今は何も」


その言葉に、ルーカスは息をのんだ。目の前の若者は、ただ知識を渇望するだけでなく、その知識が持つ重みと、それを守る者たちへの深い配慮を併せ持っていた。彼の瞳には、非難の色など微塵もなく、ただ静かな理解と敬意だけが浮かんでいた。


「……レオナール様」ルーカスは、感極まったように声を震わせ、深く、深く頭を下げた。「あなた様のような方にこそ、我々の…ヴァレリー殿の目指す未来を、見ていただきたい。アンジェで、お待ちしております」


ヴォルグリム湖畔の街を後にし、アンジェへと向かう馬車の車窓から、レオナールは白く染まり始めた山々を眺めていた。出立の翌日から、空からは本格的な雪が舞い始め、日に日にその勢いを増していった。なだらかで整備されていたはずの峠道は、ぬかるみ、やがてうっすらと雪化粧をまとい、馬車の速度を著しく鈍らせた。


来た時にはわずか四日で越えた道のりが、帰りは六日を要した。時には吹雪で完全に立ち往生し、宿場町で足止めを食らう日もあった。馬車の外は、刃のような冷たい風が唸りを上げ、世界は白と灰色だけに塗り込められる。


ようやく峠を越え、渓谷に拓かれた中継都市にたどり着いた時、一行は心底安堵した。ここからは、再びアウレリア川の水路を行く船旅となる。アンブロワーズ伯爵家が手配した船は、来た時と同じく、レオナール一行の貸し切りとなっていた。


「レオナール様、川の流れに乗れば、アンジェまでは二日とかかりますまい」


船長の言葉通り、下りの船旅は驚くほど速やかだった。上りの際にはあれほど力強く感じられた川の流れが、今度は頼もしい追い風のように船体を押し進める。雪景色に覆われた渓谷の景色が、来た時とは違う速度で窓の外を過ぎ去っていった。


レオナールは、揺れる船室で、毛布にくるまりながら、ヴォルグリムでの収穫を反芻し、アンジェで始まるであろう、アンブロワーズ伯爵との本格的な交渉の筋道を練り上げていた。


『白き結晶』の価値。それはもはや、単なる鎮痛薬ではない。『痺れの術』と組み合わせることで、より安全な局所麻酔を。そして『神経ブロック』という新しい概念を導入することで、これまで不可能だった領域へのアプローチを可能にする。それは、アンブロワーズの『創縫術』を、次のステージへと引き上げる、まさに起爆剤となりうる。


雪は、川を下るにつれて次第に雨へと変わり、二日目の昼過ぎには、長く続いた雲の切れ間から、ようやく陽の光が差し込み始めた。そして、川の向こうに、アンジェの街を守る巨大な城壁が見えてきた。白い雪に覆われたその姿は、レオナールが初めて見た時とはまた違う、静かで荘厳な美しさを湛えていた。


伯爵との次なる対話の舞台は、整った。彼の胸には、厳しい冬の寒さにも消されることのない、熱い決意の炎が燃えていた。

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