第十二話:王都の喧騒、学び舎の日常
ターナー教授の研究室という新たな活動拠点を得て、レオナールの知的な探求は加速していた。原子・分子という世界の根源に迫る興奮と、魔法という未知の現象との関連性を解き明かそうとする情熱。彼の頭の中は、常に実験と考察で満たされていると言っても過言ではなかった。
しかし、そんなレオナールも、王立アステリア学院の一生徒であることに変わりはない。図書館と研究室に籠る日々が中心とはいえ、彼にも学院のカリキュラムに沿った授業があり、同年代の(精神年齢は遥かに下だが)学生たちとの関わりがあり、そして時には研究から離れる休日もあった。
ある日の午後、レオナールは少し憂鬱な気分で「貴族芸術論」の講義を受けていた。将来、領主や官僚として社交界で振る舞う上で必須とされる教養科目の一つだが、正直なところ、彼にとってはあまり興味の持てない分野だった。担当の教授は、恰幅の良い、いかにも貴族然とした初老の男性で、熱心に絵画の様式美や詩の韻律について解説しているが、レオナールにはその価値がいまひとつ理解できなかった。
(……この時代の絵画における光と影の表現は、光学的な正確さよりも、画家の主観や感情を重視しているように見えるな。詩の形式も、厳格なルールに縛られすぎていて、自由な発想を妨げている気がするが……まあ、これも文化というものか)
周囲の学生たちの反応も様々だった。熱心にメモを取る者、うっとりと聞き入る者、そして明らかに退屈そうに欠伸を噛み殺している者。レオナールの隣の席に座る、商家の出身だという大人しい雰囲気の男子生徒は、必死に教授の話についていこうとしているが、時折困惑した表情を浮かべていた。貴族社会の共通言語とも言える芸術への理解は、平民出身者にとっては高いハードルなのかもしれない。
講義が終わり、学生たちがぞろぞろと退出していく中、レオナールがノートを閉じていると、不意に声をかけられた。
「あ、あの、ヴァルステリア様……」
先ほどの隣の席の生徒だった。彼は少し緊張した面持ちで立っていた。
「今日の講義、少し分からない箇所があったのですが……もし、ご迷惑でなければ、少しだけ教えていただけませんか?」
彼は、レオナールが授業中に時折鋭い質問をしていたのを見て、彼ならば理解しているかもしれないと思ったのだろう。
レオナールは少し意外に思ったが、無下に断る理由もない。彼は普段、他の学生と積極的に関わることは少ないが、真剣に学びたいという相手に対しては、それなりに対応するつもりはあった。
「構いませんよ。どのあたりですか?」
レオナールが穏やかに応じると、その生徒——名をトーマスといった——は安堵した表情になり、熱心に質問を始めた。レオナールは、自分が理解している範囲で、専門用語を避けながら、できるだけ分かりやすく説明を試みた。彼の説明は、単に知識を披露するのではなく、なぜそのような表現が用いられるのか、その背景にある歴史や思想にも触れるもので、トーマスは感心したように聞き入っていた。
「ありがとうございます! ヴァルステリア様のおかげで、よく分かりました!」
説明が終わると、トーマスは心からの感謝を述べた。
「あなたは、魔法の成績はともかく、他の分野では本当に優秀なのですね。正直、少し近寄りがたい方だと思っていましたが……」
「そうですか? 私はただ、知らないことを知りたいだけですよ」
レオナールは軽く微笑んで答えた。このやり取りがきっかけとなり、その後、レオナールは時折トーマスと図書館で顔を合わせ、情報交換をするようになった。トーマスは王都の商人ギルドの情報を得る独自の情報網を持っており、それは時にレオナールの研究にも役立つことがあった。全てが研究に繋がるわけではないが、こうした予期せぬ交流も、学院生活の一部だった。
昼食時の大食堂は、いつも学生たちの活気で満ち溢れていた。様々な学年、学科の学生たちが、グループごとにテーブルを囲み、談笑している。レオナールは、そうした喧騒を少し離れた場所で観察しながら、一人で黙々と食事をとるのが常だった。
(魔法科の連中は、相変わらず実技の自慢話か……。騎士科は、次の対抗試合の話で盛り上がっているな。政務科や領地経営科の上級生たちは、何やら難しい顔で議論している……。貴族の派閥争いも、水面下では色々とあるらしいが……)
彼の耳には、様々な噂話や情報が自然と入ってくる。誰それが卒業試験に落ちそうだとか、どこそこの貴族令嬢が誰と婚約したとか、王都で新しい魔道具が発明されたとか。そのほとんどは彼にとって取るに足らない情報だったが、中には興味深いものもあった。例えば、最近、王国の辺境で原因不明の奇病が流行しているという噂。あるいは、教会が管理しているはずの古い遺跡から、未知の魔法に関する遺物が見つかったという真偽不明の話。彼は、そうした情報を聞き流すふりをしながらも、記憶の片隅に留めておくのだった。
休日になると、レオナールは普段のルーティンから少しだけ解放された。といっても、完全に研究から離れるわけではない。午前中は、平日に比べて空いている図書館で、普段はなかなか読めない希少な文献や、個人的な興味に基づく分野(例えば、この世界の天文学や数学など)の書物を読み耽ることが多かった。
午後は、気分転換も兼ねて、従者のギルバートと共に王都の街へ出かけることもあった。主な目的は、専門的な書物を扱う書店を巡ったり、研究に必要な素材(珍しい鉱石や薬品など)を探したりすることだが、時には市場の活気に触れるのも悪くないと感じていた。
「レオナール様、あちらの屋台で売っている『火吹き鳥の串焼き』は、王都の名物だそうですよ。試してみますか?」
ギルバートが珍しくそんな提案をしてきた。彼は、主人が研究に没頭しすぎるのを少し心配しているのかもしれない。
「……火吹き鳥? 辛いのか?」
「ええ、香辛料が効いていて、なかなかの刺激だと評判です」
「……遠慮しておくよ。胃に負担がかかりそうだ」
レオナールは顔をしかめた。前世でも辛い物は苦手だったのだ。結局、彼は近くのカフェでハーブティーを飲み、ギルバートが買ってきた焼き菓子を少しだけ口にした。味覚や嗜好は、前世からあまり変わっていないようだった。
寄宿舎に戻ると、ギルバートが淹れてくれた紅茶を飲みながら、彼から王都の情勢や貴族社会の動向について報告を受けるのが習慣になっていた。ギルバートは、従者としての長年の経験から、様々な情報網を持っていた。
「宰相閣下と教会との間で、新たな鉱山の利権を巡って少々駆け引きがあるようですな」
「ふむ……。例の奇病の噂は、その後どうなっている?」
「依然として原因は不明ですが、王都から調査団が派遣されたとのことです。ただ、あまり良い報せは届いておりません」
こうした情報は、直接研究に関係なくとも、世の中の動きを知る上で重要だった。レオナールは、ギルバートとの何気ない会話の中に、貴重な情報源を見出していた。彼は、単なる従者ではなく、レオナールにとって数少ない、気兼ねなく話せる相手の一人だった。
夜、自室の窓から月明かりに照らされた学院の庭を眺める。一日の終わり、ほんのわずかな時間だけ、レオナールは研究から意識を離し、静かな思索にふけることがあった。故郷のヴァルステリア領のこと、厳格だが愛情深い父のこと、そして、もう会うことのできない母のこと……。温かい記憶が蘇ると同時に、彼女を救えなかった無力感と、必ず目標を達成するという決意が、改めて胸に込み上げてくる。
(息抜きも必要だとは思うが……)
彼は小さく息をついた。結局のところ、彼にとっての休息とは、次の探求へのエネルギーを蓄えるための、戦略的な小休止でしかないのかもしれない。窓の外の静寂とは裏腹に、彼の頭脳は、常に動き続けていた。
世界の真理を探求し、新たな医療を創り上げる。その壮大な目標に向かって、レオナールの学院生活は、研究と日常、そして静かな決意を織り交ぜながら、着実に続いていくのだった。