第百十七話:秘伝の礎
レオナールの諮問(?)はまだ続く。
「先ほどの兎人族の方がお使いになった魔法、あれは一体どういう原理なのでしょうか。患者は意識を保ったまま、局所的な痛覚だけが、かくも完璧に遮断されるとは……。私が知るどの治癒魔法とも、その性質を異にしています」
ルーカスはレオナールの真摯な問いに、一瞬、言葉を詰まらせた。彼の視線が、部屋の隅に控えるアンブロワーズ家の護衛へと、僅かに、しかし明らかに向けられる。護衛の男は、その視線を静かに受け止めると、ほとんど目立たないほど小さく、しかし明確に一度だけ頷いた。その無言の許可が、ルーカスの口を開かせる最後の鍵となったようだった。彼はふぅ、と一つ息をつくと、観念したように語り始めた。
「…お察しの通り、あの術こそが、我々の創縫術の根幹をなす、最大の秘伝の一つです」
彼の声には、長年守り続けてきた秘密を明かすことへの、わずかなためらいと、レオナールの知性に対する敬意が入り混じっていた。
「正直に申し上げて、我々の創縫術がここまで発展したのは、彼らの『痺れの術』があったからこそ、と言っても過言ではありません。この術がなければ、深い傷の洗浄や、複雑な骨折の整復、あるいは四肢の切断といった、激しい痛みを伴う処置を、患者の意識がある状態で行うことなど到底不可能だったでしょう。彼らの術が、我々に時間と、そして患者の命を繋ぐ猶予を与えてくれたのです」
(先ほどの兎人族の術…。あの短い詠唱、指先に集中させる魔力の流れ、そして寸分の狂いもなく作用点を限定する指向性。以前、王都の市場でリラ殿が私の腕に施してくれた術と、その原理や効果において何ら変わりがない。これは、特定の個人だけが使える特殊能力というよりも、兎人族という種族の中で、ある程度の再現性をもって継承されている『技術体系』なのだ。であればこそ、グライフ商会も術者を『雇用』し、外科治療のシステムに組み込むことができたのだろう。だとしたら、その術のメカニズムを解明し、魔力制御のパターンを解析できれば、人間である俺にも再現、あるいは応用できる可能性は十分にあるはずだ)
レオナールが思考の海に沈む間も、ルーカスの説明は続いていた。
「我々アンブロワーズと兎人族の方々との付き合いは、古くまで遡ります。この辺境の地では、人間と亜人が互いの領域を尊重しつつも、必要な物資を交換する交易が、昔から行われてきました。彼らが森で採る特殊な薬草や、その手先の器用さを活かした工芸品は、我々にとって価値あるものでしたし、我々が作る鉄製品や保存食は、彼らの生活を支えてきました」
ルーカスは、治療院の窓から見える、ヴォルグリム湖の厳しい自然に目をやった。
「では、その関係はいつ頃から?」
「何代も前の話で、今となっては詳しい経緯を知る者はおりません」ルーカスは首を振った。「ただ、グライフ商会の記録によれば、少なくとも百年以上前から、アンブロワーズ領主家とグライフ商会が共同で、兎人族の特定の集落との間に、特別な協定を結んでいるとされています。その協定に基づき、我々は彼らの集落に必要な物資を優先的に供給する代わりに、彼らの中から『痺れの術』に長けた術者を、正式な治療技術者として、破格の待遇で雇い入れているのです。先ほどの彼も、そうして我々の仲間となってくれた一人です」
「へへ、オラたちの術に、そんなに興味があるのかい、若様?」
不意に、背後から独特の抑揚を持つ声がした。振り返ると、そこには先ほど見事な術を披露した兎人族の術者が、興味深そうな赤い瞳をレオナールに向け、人懐っこい笑みを浮かべて立っていた。処置を終え、一息つきに来たのだろう。
「ミロと申します。さっきぶりだね、レオナール様」
「ミロ殿。先ほどは素晴らしい術を拝見しました」レオナールは丁寧に礼を述べた。「あなたの術について、今、ルーカス殿からお話を伺っていたところです。あなた方の集落と、アンブロワーズとの関係は、それほどまでに長いのですね」
「そうらしいねぇ」ミロはあっけらかんと頷いた。「オラたちにとっちゃあ、アンブロワーズとの付き合いは、物心ついた時からの当たり前のこったからねぇ。正直、なんで始まったのかなんて、長老たちも詳しいこたぁ知らねえんじゃねえかな。ただ、ここでの仕事は、結構良い暮らしをさせてもらってるし、集落に必要な物資なんかも、優先的に回してくれる。持ちつ持たれつ、ってやつさ。だから、オラたちも、ここで腕を振るうことに何の不満もねえよ」
彼の言葉には、複雑な政治的背景など意に介さない、実利に基づいたシンプルな関係性が示されていた。レオナールは、その明快さに納得しつつ、最も重要な技術的な質問を投げかけた。
「ミロ殿、一つ、技術的な側面からお伺いしたいのですが、その『痺れの術』の効果範囲と深度は、どの程度なのでしょうか? 例えば、腹の奥深くが痛むような場合にも、効果はあるのでしょうか?」
ミロは、その問いに長い耳をぴくりと動かし、少し考える素振りを見せた後、自身の指先を見つめながら答えた。
「ああ、そいつはね、見たまんまさ。この指先から、せいぜい…指二本分か、三本分くらいの範囲だね。それに、体の奥深くまでは届かねえ。あくまで、この皮一枚、その下の肉をちょっと、ってくらいのもんだ。だから、腹が痛えとか、頭が痛えとか、そういう体の内側から来る痛みには、あんまり効かねえんだ 。表面が痺れるだけだから、創の治療にはもってこいだけどね」
その言葉は、レオナールの推測を裏付けるものだった。
(局所麻酔……それも、これほど安全かつ簡便に施行できる技術。アンブロワーズの外科が、体表の腫瘍切除や四肢切断といった、比較的深度の浅い手術に特化して発展してきた理由も、ここにあるのだろう。概ね、リラ殿の術を見た時に考察した通りだ。効果範囲がこれほど限定的となると、腹腔内の臓器を扱うような、大規模な開腹手術への応用は難しいだろう。だが、彼らの技術には、まだ先があるはずだ)
レオナールは、この世界の外科医療の現実的な到達点と、その限界を、同時に示された気がした。そして、その限界を突破することこそが、自分がこの世界で果たすべき役割なのだと、改めて確信した。
「なるほど……。非常に分かりやすいご説明、ありがとうございます、ミロ殿。あなたの術は、この世界の医療にとって、計り知れない価値を持つものです」
レオナールは、心からの敬意を込めて、兎人族の術者に深く頭を下げた。彼の頭の中では、この『痺れの術』のより広範な応用を可能にするための、壮大な研究計画が、既に具体性を持っていたのだった。




