第百十五話:血と泥の先の精緻
ルーカスの「縫合する」という決断は、まるで舞台の幕開けを告げる鐘のように、治療院の空気を一変させた。彼の鋭い視線が、傍らに控えていた助手に送られると、心得たように頷いた助手は隣室へと足早に消える。戻ってきた時、その背後には一人の兎人族の術者が、静かな、しかし少しも物怖じしない落ち着いた足取りで付き従っていた。
長い耳、柔和な顔立ち、そしてルビーのように赤い瞳。その術者はレオナールたちを一瞥したが、特に表情を変えることなく、痛みに呻く患者の元へと進み出た。彼は患者の状態を冷静に確認すると、左上腕部の創部周辺に、そっと右の人差し指をかざし、独特の詠唱をはじめた。
その瞬間、レオナールの肌にも感じ取れるほどの微弱な、しかし指向性を持った魔力の波動が放たれた。それは、レオナールが以前体験したリラの術と酷似しているが、より洗練され、無駄がないように感じられた。
術をかけられた患者の体に、目に見える変化が訪れる。先ほどまで痛みにこわばっていた肩の力がふっと抜け、苦痛に歪んでいた顔の筋肉が弛緩していく。荒く、浅かった呼吸は、次第に深く、穏やかなリズムを取り戻し始めた。その瞳からは、恐怖と苦痛の色が薄れ、代わりに安堵と、わずかな戸惑いが浮かんでいる。
「……痛みが……」
患者のかすれた声が、信じられないといった響きで漏れた。
(素晴らしい……。おそらくは神経伝達だけを選択的に遮断し、意識レベルには一切影響を与えない。これほど速やかに、そして確実に局所的な鎮痛効果をもたらすとは。やはり、この技術こそが、彼らの外科医療の根幹をなしている)
レオナールは、その驚くべき魔法の効果を改めて目の当たりにし、内心で舌を巻いた。アンブロワーズの外科レベルの高さは、この完璧な麻酔技術に支えられていると言っても良いものだった。
患者が完全に落ち着いたのを確認すると、ルーカスはすぐさま次の工程へと移った。彼は血と泥に汚れた傷口の上に手をかざし、何もない空間から清浄な水を生成する《アクア》の魔法を発動させる。彼の意志に応じて、水は時に穏やかな流れとなり、時に脈打つような力強い水流となって、傷の内部に付着した土砂や、衣服の破片、そして凝固しかけた血液といった異物を、巧みに洗い流していく。その手つきに一切の無駄はない。レオナールの目には、それが単なる洗浄ではなく、感染源となりうる全ての要素を徹底的に排除しようとする、極めて高度なデブリードマン(創面清掃)に映った。
「消毒を」
ルーカスの短い指示で、助手が滅菌済みの金属トレーを差し出す。トレーの上には、白い綿球が山と積まれた小鉢と、茶褐色の液体が満たされた別の小鉢が置かれていた。治療院に入った時からレオナールの鼻腔を微かに刺激していた、あの独特の匂いの源だ。
ルーカスは、滅菌された鑷子で綿球を一つ器用に掴むと、躊躇なく茶褐色の液体に浸した。白い綿球は、瞬時に濃い茶色へと染まり、滴り落ちる雫がトレーの上で濃い染みを作る。
(やはり、ヨードチンキか……それに類するヨウ素化合物の水溶液だ。この独特の色は間違いない)
レオナールは確信を深めた。王都では消毒の概念すら確立されていないのに、最適な選択肢といってもいい消毒薬が、ここでは標準的に、そして大量に用いられている。
(一体、どこからこれだけの量を?ヨウ素は海藻などから抽出されるものと思うが、この内陸の山岳地帯で、それだけの量を安定して供給するルートがあるというのか。あるいは、特定の鉱物から精製しているのか……?この物質が持つ、有機物、特にタンパク質と結合し、それを変性させる性質。そしてこの強烈な染色性……。これさえあれば、既にいくつか開発した好塩基性の色素とあわせて、グラム染色を完成させることができるかもしれない……。後で少し分けてもらえないか、交渉してみる価値はあるな)
彼の思考が研究へと飛んだ一瞬のうちに、ルーカスはヨードを染み込ませた綿球で、傷の内側から外側へと、螺旋を描くように入念に消毒を行っていく。その手際は、教科書に載せたいほどに正確だった。
そして、いよいよ縫合が始まる。助手が差し出した別の滅菌トレーの上には、レオナールの目を釘付けにする器具が、鈍い銀色の輝きを放って並んでいた。
緩やかに、しかし計算されたカーブを描く縫合針。そして、それを掴むための、まぎれもない持針器。
(器械縫合……だと!?)
レオナールの背筋に、電流のような衝撃が走った。
(直針を用いた手縫いではない。湾曲針と、それを自在に操るための持針器を用いた、より高度で立体的な縫合技術が、既にこの地では確立されているというのか……! なんということだ。この道具は、単なる思い付きでは生まれない。人体の複雑な構造と、創傷治癒の過程を深く理解した上で、より正確に、より深く、そしてより安全に組織を縫い合わせるために、必然として生み出された形だ。誰がこれを? 経験豊富な術者が、自らの必要に応じて鍛冶師と協力して作り上げたのか? これほどのものが存在するということは、彼らの外科技術が、単なる経験則の積み重ねではなく、明確な意志と目的をもって、改良と発展を続けてきた証左に他ならない)
ルーカスは、持針器で湾曲針の最も適切な位置を的確に把持すると、鑷子で皮膚の縁を軽く持ち上げ、滑らかな、しかし力強い手首の返しで、針を組織に貫通させた。一針ごとに、持針器を用いて絹糸を丁寧に結び、余分な糸を助手が手早く切る。基本に忠実な、単結節縫合だ。その結紮の手技も驚くほどスムーズで、緩むことなく、かといって組織を過度に締め付けて血流を妨げることもない、まさに理想的な力加減で、次々と結び目が作られていく。
針が皮膚を貫き、糸が組織を引き寄せるたびに、ぱっくりと開いて筋肉組織まで覗かせていた痛々しい傷口は、まるで魔法のように、一本の綺麗な線となって閉じられていった。その光景は、レオナールにとって、どんな華麗な攻撃魔法よりも精緻で、そして生命の尊厳に満ちた、美しい儀式のように感じられた。
およそ十針ほど縫い終えたところで、ルーカスは最後の結紮を終え、糸を切った。「よし、終わりだ」と短く告げる。診察台の上では、あれほど深く開いていた傷が、一本の綺麗な赤い線となって完全に閉じられていた。その周りを再びヨードで消毒し、清潔な亜麻布を当てて、包帯が手際よく巻かれていく。一連の処置は、わずか半刻(一時間)もかからずに、完璧に終了した。
患者は、麻酔がまだ効いているのか、あるいは処置が終わった安堵からか、すっかり落ち着いた表情で、ルーカスに弱々しくも感謝の言葉を述べている。
レオナールは、その完璧な手際に、ただ感嘆の息を漏らすしかなかった。アンブロワーズの創縫術。それは「血と泥にまみれた戦場の荒療治」などでは決してなかった。麻酔、洗浄、消毒、そして精緻な器械縫合。それらが一つのシステムとして確立された、恐ろしく高度な外科学だった。
ここには、彼が求める「外科」の、確かな、そして眩いほどの光が存在していた。この技術の全容を学ばなければならない。そのために、どんな対価を払ってでも――。彼の決意は、今や揺るぎない確信へと変わっていた。




