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血液内科医、異世界転生する  作者:
アンブロワーズへの道
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第百十三話:湖畔の街

アウレリア川の渓谷に拓かれた中継都市は、川船が遡上できる北東の終着点として、山から下りてくる者と、これから山を目指す者たちの熱気で満ちていた 。王都からの二日間の船旅を終えたレオナール一行が、その喧騒の中に降り立つと、すぐにアンブロワーズ伯爵家の紋章をつけた一人の役人が、馬車と共に彼らを待っていた 。



「レオナール・ヴァルステリア様、長旅お疲れ様でございます。主、アンブロワーズ伯の命により、これより先、ヴォルグリムまでの陸路の警護を増強し、万全を期すよう申し付かっております」


役人の言葉と共に、馬車の周囲に控えていた数名の男たちが、レオナールに向かって一様に敬礼した。彼らは、王都から同行してきた騎士たちとは明らかに雰囲気が異なっていた。華美な装飾のない実用的な革鎧に身を包み、その顔には山岳地帯の厳しい風雪に鍛えられたであろう深い皺が刻まれている。背には大きな剣を負い、その立ち居振る舞いには、常に周囲を警戒する野生動物のような鋭さと、土地に根差した者だけが持つ揺るぎない落ち着きが感じられた。


「彼らは、この山岳地帯の地理に精通した、伯爵直属の山岳警備隊の者たちでございます。これからの峠道、必ずやレオナール様のお力となるでしょう」


「これは、ご丁寧な配慮、痛み入ります。伯爵閣下によろしくお伝えください」


レオナールは、その周到な手配に、改めてアンブロワーズ伯爵という人物の統治能力の高さと、自分という客人をいかに重要視しているか(あるいは、管理下に置こうとしているか)を感じ取った。


一行は、新たに加わった屈強な護衛たちに前後を固められ、中継都市を後にした。馬車が、ヴォルグリム湖畔へと続く峠道へと差し掛かる。レオナールは、前世の記憶にある日本の険しい山道を想像していたが、目の前に広がる光景は、その予想を良い意味で裏切るものだった。道は確かに山々を縫うように続いているが、それは急峻な登りや下りが続くものではない。むしろ、広大で、なだらかな勾配を持つ高原地帯を、ゆっくりと登っていくような、穏やかな道程だった。


(なるほど、標高は高いが、急峻ではない。これならば、大規模な軍隊の移動や、物資の輸送も比較的容易だろう。アンブロワーズ領が、交易と防衛の要衝たり得た理由の一つかもしれんな)


レオナールは、車窓から見える雄大な景色を観察しながら、地形が持つ地政学的な意味を分析していた。両脇には、背の低い針葉樹や、厳しい環境に耐える高山植物が広がり、空気は王都とは比べ物にならないほど澄み渡り、そして冷涼だった。


旅は、彼の想像以上に快適に進んだ。峠道とはいえ、ほぼ一日ごとに、旅行者のための宿場町が整備されていたのだ。野営を覚悟していたギルバートも、これには安堵の表情を浮かべていた。


「いやはや、レオナール様。この辺境の峠道に、これほど宿場が整っているとは驚きました。これならば、夜も安心して休息がとれますな」


「ああ。これも、アンブロワーズ伯の統治の賜物なのだろう。国境という土地柄、常に人や物資の往来がある。その安全と利便性を確保することが、領地の安定と発展に繋がることを、彼はよく理解しているに違いない」


宿場町の宿は、王都のそれのような華やかさはない。太い梁がむき出しになった、質実剛健な作りの宿屋だ。宿泊客も、商人や、あるいはレオナールたちのような武装した一団が多く、どの顔にも長旅の疲れと、辺境ならではの緊張感が滲んでいる。食事も、飾り気はないが、塩漬けの肉と豆を煮込んだ滋味深いスープや、硬いが噛むほどに味の出る黒パンといった、体の芯から温まるような、素朴で力強い料理が中心だった。レオナールは、そうした宿場町の雰囲気そのものから、この土地の厳しさと、そこで生きる人々のたくましさを肌で感じ取っていた。


穏やかな峠道を、馬車は着実に進んでいく。そして、陸路の旅を始めてから四日目の昼過ぎ。それまで続いていた緩やかな登りが終わり、不意に視界が開けた。レオナールの目に、息をのむような光景が飛び込んでくる。


眼下に、どこまでも広がる、巨大な湖。その水面は、空の青を映して、深いサファイアのように静かに、そして冷たく輝いていた。周囲は、天を突くような峻険な山脈に囲まれており、その頂きには万年雪が白く輝いている。湖から吹きつけてくる風は、刃のように鋭く、肌を刺した。ヴォルグリム湖。その圧倒的なまでのスケールと、神々しいまでの美しさに、レオナールはしばし言葉を失った。


「あれが……ヴォルグリム湖……」


ギルバートが、感嘆の声を漏らす。湖の中央付近には、まるで目に見えない線が引かれているかのように、水の色が微妙に変化している部分が見える。おそらく、あれがアステリア王国とガルニア帝国とを分かつ国境線なのだろう。


そして、レオナールの視線は、湖の、アステリア王国側の岸辺から、鋭く突き出すように伸びる一つの巨大な半島に釘付けになった。その半島全体が、まるで一つの要塞のように、高く、堅牢な城壁で囲まれている。城壁の上には、等間隔で監視塔が並び、その先端では王国の旗が冷たい風にはためいていた。半島の先端にある港からは、小型で高速の、明らかに戦闘用と思われる巡視艇が何隻も出入りし、湖上の国境線を鋭く睨むように、絶えず警戒活動を行っているのが見て取れた。


「半島全体が、一つの巨大な軍事拠点となっているのか……。湖そのものを、天然の堀としているわけだ」


レオナールは、その完璧なまでの防衛配置に、アンブロワーズ伯爵の軍事的な手腕の非凡さを改めて感じていた。


そして、その要塞のような半島の付け根部分に、彼らが目指す街はあった。ヴォルグリム湖畔の街。石造りの家々が密集しているが、意外にも街そのものに城壁はない。まるで、有事の際には半島にある軍事拠点に避難することを前提としたかのような、無防備な広がりを見せている。帝国との交易は、湖上での衝突を避けるための協定により、主に陸路で行われていると聞く。その陸路の終着点として、そして軍事拠点への補給基地として、この街は機能しているのだろう。その佇まいは、観光地のそれではない。常に緊張を強いられる国境の、最前線の街そのものだった。


馬車が街の入り口に差しかかると、道の両脇に立つ警備の兵士たちが鋭い目で一行を改めたが、アンブロワーズ伯爵家の紋章と、同行する山岳警備隊の姿を認めると、すぐさま敬礼し、道を譲った。


街の中は、外から見た印象通り、機能的で、どこか張り詰めた空気に満ちていた。行き交う人々も、屈強な兵士や、武具を扱う商人、そして彼らを相手にする宿屋や酒場の主人がほとんどだが、その中には、アンジェで見た光景と同じく、多くの亜人たちの姿が自然に溶け込んでいた。港で荷を降ろす猫人族、城壁の警備に立つ犬人族の兵士。彼らは皆、この厳しい国境の街で、それぞれの役割を果たしながら力強く生きているのだ。レオナールは、この街の空気そのものが、伯爵が彼に見せようとした「現実」なのだと直感した。戦傷治療、創縫術。それらがなぜ、この地で必然として生まれ、発展してきたのか。その答えが、この街にはある。


一行は、伯爵家が手配したという、街で最も格式の高い宿屋へと案内された。レオナールは、部屋の窓から、再びヴォルグリム湖と、その向こうに広がる帝国の山々を眺めた。これから始まる調査への期待と、この地が背負うであろう重い現実に、彼の心は静かに、しかし強く引き締められていた。

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