第百九話:亜人の都
アウレリア川を遡る大型客船『シルフィード号』の旅は、王都を出てから一月近くが経過しようとしていた。王都の北側を悠々と流れ、向こう岸が霞んで見えるほどの威容を誇っていた大河は、上流へと進むにつれて、その表情を大きく変えていた。両岸には険しい山々が迫り、川の流れは速度を増す。そして、川幅は目に見えて狭まり、今や100メートルほどだろうか、対岸の木々の一本一本がはっきりと見て取れるほどになっていた。
「レオナール様、あれをご覧ください。おそらく、アンブロワーズ領の領都アンジェの街明かりかと」
一等船室の窓から、供のギルバートが指し示す。その方角には、山々の谷間に、魔法の灯りが星々のように瞬いているのが見えた。長かった船旅の終わりが近いことを、その光は告げていた。
「そうか。ようやく、だな」
レオナールは静かに頷き、窓の外の景色に目を凝らした。
翌日の昼前、シルフィード号は速度を落とし、ついにアンブロワーズ領の玄関口である、領都アンジェの船着き場へとその優美な船体を寄せた。船着き場は、レオナールの想像を遥かに超える活気に満ち溢れていた。王都のそれとは規模こそ違うが、人々の熱気はむしろこちらの方が高いかもしれない。様々な荷を積んだ大小の船がひしめき合い、荷揚げ人夫の威勢の良い掛け声が飛び交っている。だが、レオナールの目を最も強く引いたのは、その喧騒を構成する人々の多様性だった。
行き交う人々の半数近くが、人間ではない。いわゆる「亜人」と呼ばれる種族だった。しなやかな体躯と猫の耳を持つ猫人族の商人が、身振り手振りを交えて人間の商人と交渉している。屈強な体つきの犬人族の男たちが、重そうな木箱を軽々と肩に担ぎ、倉庫へと運んでいく。背は低いが頑健なドワーフの職人が、露店で自らが鍛えたであろう精巧な装飾が施されたナイフや金属食器を並べている。中には、森の奥深くで暮らすとされる、尖った耳を持つエルフらしき姿も、数は少ないながら見受けられた。彼らは、人間とごく自然に混じり合い、この街の経済活動の重要な一員として、確かに存在しているのだ。
(これが、アンブロワーズ領……。ファビアン殿の話にあった通り、実に多様な種族が共存している。そして、グライフ商会が外科治療の担い手として、多くの亜人を雇用しているという情報。この光景は、その話を裏付けているのかもしれないな)
レオナールがそんな思索に耽っていると、シルフィード号の船員が、一等船室の彼らの元へ丁重に知らせに来た。
「レオナール様、アンブロワーズ伯爵家からの御使いの方が、船着き場でお待ちでございます」
レオナールはギルバートと共に、護衛の騎士たちを後に従え、ゆっくりとタラップを降りた。山から吹き下ろす風は、王都とは比べ物にならないほど冷涼で、思わず身震いするほどだった。船着き場の喧騒と、様々な種族が発する独特の匂いや活気が、その冷気と共に肌を直接撫でる。その中心で、一人の初老の男性が、数名の供を連れて静かに佇んでいた。上質な、しかし華美ではない執事服に身を包み、その姿勢には一分の隙もない。穏やかな表情をしているが、その目は鋭く、レオナールの一挙手一投足を冷静に観察しているのが分かった。
「ようこそお越しくださいました、レオナール・ヴァルステリア様。私、アンブロワーズ伯爵家に仕え、執事長を務めております、グスタフと申します。主、アンブロワーズ伯より、レオナール様を丁重にお迎えするよう、固く申し付かっております」
グスタフと名乗った執事長は、深々と、しかし威厳を失わない完璧な礼をした。その洗練された物腰は、彼が長年、伯爵の側近くで仕えてきた、極めて有能な人物であることを示していた。
「ご丁寧なお出迎え、感謝いたします。ヴァルステリア辺境伯が嫡男、レオナール・ヴァルステリアです。この度は、アンブロワーズ伯爵閣下からのご招聘、光栄に存じます」
レオナールもまた、ヴァルステリア家の公子として、堂々とした態度で応じた。これは、単なる表敬訪問ではない。高度な政治交渉の始まりなのだ。最初の挨拶から、互いの腹を探り合うような、静かな緊張感が漂う。
「長旅でお疲れのことと存じます。さ、馬車をご用意しております。こちらへどうぞ」
グスタフに案内され、レオナール一行は船着き場に待機していた、アンブロワーズ家の紋章が描かれた豪奢な馬車へと向かった。内装は、黒を基調とした落ち着いたデザインで、シートには柔らかな革が使われている。華美ではないが、質実剛健な、そして確かな財力を感じさせる作りだった。
馬車が動き出すと、まずは船着き場に隣接する商業地区を抜けていく。市場は活気に満ち、様々な品物が所狭しと並べられていた。近隣の領地や、国境の向こうのガルニア帝国から運ばれてきたであろう珍しい織物や香辛料。そして、この地の森で採れたであろう薬草や、亜人たちが作った工芸品。それらが混じり合い、独特の国際色豊かな雰囲気を醸し出している。
やがて、馬車は商業地区の喧騒を抜け、アウレリア川に架かる大きな石橋を渡り始めた。橋の上から、レオナールは眼下を流れる川を見下ろした。王都では大河の様相を呈していたアウレリア川も、ここではまだ若々しく、力強い流れを見せている。その清流の両岸に、アンジェの美しい街並みが広がっていた。
橋を渡り終えると、街の雰囲気は一変した。道は広く、石畳で美しく舗装され、両脇には手入れの行き届いた街路樹が並んでいる。建ち並ぶ屋敷も、商業地区のそれとは異なり、落ち着いた色合いの石材で造られた、重厚で品格のあるものばかりだ。貴族街に入ったのだ。警備にあたる兵士たちの姿も増え、その装備や立ち居振る舞いからは、領地の統治が隅々まで行き届いていることが窺える。
(ヴァルステリア領とは、また違う発展の仕方をしているな。我が領は、農業と、魔鉱石を基盤とした実利的な豊かさだが、ここは交易と、そしておそらくは『グライフ商会』がもたらすであろう独自の富によって支えられているのかもしれない)
レオナールは、車窓の風景から、この領地の経済構造や、アンブロワーズ伯爵の統治手腕を推し量ろうとしていた。
貴族街をしばらく進むと、馬車はひときわ大きく、そして荘厳な建物の前で速度を落とした。それは、領主が住まう城や館というよりは、むしろ王都の官庁街にあるような、機能性を重視した、巨大な石造りの建築物だった。正面には広大な前庭があり、多くの役人らしき人々が忙しなく行き交っている。
「レオナール様、執務館に到着いたしました」
グスタフが、馬車の扉を開けながら告げた。ここが、アンブロワーズ領の行政の中心地なのだろう。ヴァルステリア領では、政務も領主の館で行われることが多かったが、ここでは明確に住居と執務の場が分けられているようだ。その合理性もまた、アンブロワーズ伯爵の性格を示しているのかもしれない。
レオナールは馬車を降り、執務館の威容を見上げた。その巨大さと、無駄をそぎ落とした機能的なデザインに、彼は静かな感銘を覚えていた。案内されるままに中へ入ると、そこはまさに国家の庁舎と呼ぶにふさわしい空間だった。高い天井、磨き上げられた床、そして各部署へと繋がるいくつもの扉。役人たちの早足で歩く音と、時折交わされる低い声でのやり取りが、この場所が常に動き続けていることを物語っていた。
レオナール一行は、グスタフに先導され、庁舎の二階にある、一際重厚な扉の前に通された。
「こちらでお待ちください。主は今、急ぎの案件を処理しておられます。一段落つき次第、こちらへお見えになりますので」
通されたのは、広々とした応接室だった。壁には、この領地の詳細な地図や、近隣諸国との関係を示す図などが掛けられている。テーブルや椅子といった調度品は、馬車の内装と同様、華美ではないが、最高級の木材を使い、熟練の職人が手掛けたであろう、質実剛健かつ洗練されたものだった。部屋の隅には、高価そうな魔法の灯りが、静かに柔らかな光を投げかけている。
「では、私は主をお呼びして参りますので、今しばらく」
グスタフはそう言い残し、静かに部屋を退出していった。応接室には、レオナールとギルバート、そして入口で控える護衛の騎士たちだけが残された。
レオナールは、革張りのソファに深く腰を下ろし、息をついた。長い旅の終わり。そして、これから始まるであろう、アンブロワーズ伯爵との対面。彼は、この部屋の雰囲気、調度品の一つ一つから、まだ見ぬ領主の人となりを探ろうとしていた。実利を重んじ、合理性を好み、そしておそらくは、極めて用心深い人物。交渉は、一筋縄ではいかないだろう。
(さて、どう切り出すか……。特別科学顧問としての招聘。その名目を逆手に取り、まずは彼らが抱える『風土病』とやらの調査から入るのが筋か。その過程で、グライフ商会や外科医療の実態に自然な形で触れていく……)
彼は、窓の外に広がる、アンジェの整然とした街並みを見つめながら、これから始まるであろう知的な、そして政治的な駆け引きの筋書きを、静かに、そして熱く練り上げていた。遠き辺境の地で、彼の運命を左右するかもしれない、重要な面会が始まろうとしていた。




