第百八話:あり得ざる暦
アウレリア川を遡る『シルフィード号』の旅は、陸路に比べれば格段に快適であった。揺れも少なく、個室は清潔で、食事も王都ほどではないにせよ十分に満足できるものが提供される。しかし、レオナールにとって、その単調さは学院での目まぐるしい研究生活と比べると、いささか退屈なものであった。彼の知的好奇心を満たすには、窓の外を流れる景色はあまりにゆっくりと過ぎていく。
その退屈を紛らわすささやかな楽しみを、彼は最近覚えていた。船が補給や荷物の積み下ろしのために停泊する時間が長い時、護衛を伴って街に降り立ち、その土地の空気や人々の暮らしに直接触れるのだ。それは、将来領地を治める者としての見聞を広める目的も兼ねていたが、純粋に彼の知的好奇心を刺激する時間でもあった。
旅も中盤に差し掛かり、船はアウレリア川の支流へと入った。両岸の景色は広大な農地から、鬱蒼とした深い森へと姿を変える。この辺りは、古くから様々な亜人たちが独自のコミュニティを形成して暮らす地域として知られていた。
「レオナール様、次は『シルヴァン』に停泊いたします。この森林地帯では唯一の、比較的大きな交易街だそうで」
従者のギルバートが、地図を確認しながら報告する。シルヴァンは、森に住まう亜人たちと、王国から訪れる人間の商人たちが交わる、この地域における交易の中心地だという。
「半日ほど停泊するらしい。少し長めだな。街の様子を見てこようと思う。準備を頼む」
シルヴァンに到着した船から降り立ったレオナールは、その独特の活気に目を見張った。人間の商人が営む武具屋や食料品店の隣に、獣人族が経営する毛皮店や、ドワーフ族が叩いたであろう精巧な工芸品を並べる露店が軒を連ねている。行き交う人々も、人間、猫人族、犬人族、そして背の高いエルフらしき姿も混じり、多種多様な言語と活気が満ち溢れていた。
レオナールはギルバートと数名の護衛を伴い、興味の赴くままに市場を散策した。民芸品や珍しい薬草を扱う店を眺めていると、ふと、一軒の古物屋らしき店の壁に飾られた、一つの額縁が彼の目に留まった。カラフルな色彩が、この世界の工芸品とはどこか異質な雰囲気を放っている。
(なんだ、あれは……?)
吸い寄せられるように店に近づき、その額縁を間近で見て、レオナールは息をのんだ。
額縁の中に収められているのは、明らかにこの世界の羊皮紙やベルク紙とは違う、光沢のある滑らかな紙だった。そして、そこに描かれているのは、見慣れぬ意匠のタイポグラフィ。前世で使っていた言語――英語だった。
『GRAYS SPORTS ALMANAC』
銀色の地に、赤と白の立体的な文字。このフォント、この色彩、そして英語という言語。それは、彼が前世で目にした、大量生産された印刷物特有の雰囲気を色濃く放っていた。何かの雑誌か、あるいは書籍の表紙だろうか。なぜか、この文字列とデザインには、強烈な既視感を覚える。何度も目にしたことがあるような、しかしそれが何だったのか、記憶の霞の向こう側にあって思い出せない。だが、一つだけ確信が持てた。これは、紛れもなく前世の世界のモノだ。
「……!」
言葉を失い、その額縁を凝視するレオナールに、店の奥から「にゃにか、お探しで?」と、独特の抑揚を持つ声がかかった。振り返ると、そこに立っていたのは、しなやかな体躯を持つ猫人族の店主だった。
「……店主。この、額縁に入った紙は?」
レオナールは、動揺を悟られぬよう、努めて冷静に尋ねた。
「ああ、それかい?」猫人族の店主は、長い尻尾を揺らしながら、人懐っこい笑みを浮かべた。「そいつは、ウチの知り合いの親父さんが、もう15年くれぇ前に、この先の深い森ん中で偶然見つけたんだったかにゃ。見たこともにゃい派手な色使いだし、紙も変なツヤツヤしたもんだから、ずっと大事に持ってたらしいんだ。で、その親父さんも亡くなっちまって、息子の知り合いが『珍しいもんだから、誰か買うやつもいるかもしれにゃい』って、ウチに売りに来たのさ。確かに珍品だから、こうして飾ってるってわけだにゃ」
「15年前……森の中で……」レオナールの心臓が、大きく脈打った。彼がこの世界に転生したのと、ほぼ同じ時期だ 。
「その森の、どのあたりで見つけたと聞いているか、分かるか?」
「にゃあ、そこまでは聞いてにゃいよ。見つけた本人も、もう死んじまってるからにゃあ。今となっては、誰にも分からにゃいさ」
店主は、興味なさそうに肩をすくめた。
「……これを、売ってほしい」
レオナールの決意のこもった言葉に、店主の目がきらりと光った。
「へへ、旦那、お目が高い。こいつは一点もんだ。そう安くはできにゃいが……」
店主がふっかけてきた値段は、マルクスやクラウスの月収の三分の一に相当するほどの高額だった。だが、レオナールにとって、その価値は金銭では測れない。彼は躊躇なく、ギルバートに金貨を支払わせ、その額縁を買い取った。
『シルフィード号』の一等船室に戻ったレオナールは、ギルバートと護衛を下がらせ、一人、机の上に置いた額縁と向き合っていた。
前世にしか存在しないはずの物体。それが今、この手で触れることができる「物質」として、ここにある。
(……どういうことだ? これは、一体……)
彼の頭脳が、科学者として、そして転生者として、このあり得ざる現象の解明を試み始めた。
(そもそも、俺自身の転生とは何だ? 前世の記憶、知識、人格…それら全ての『情報』が、この世界の赤ん坊の脳に転移した現象と考えることができる。情報がエネルギーを持つことは前世の物理学でも示唆されていた。ならば、情報の転移は、エネルギーの転移と本質的に変わらない。そして、エネルギーが質量に転換することもまた、前世の法則だ。ならば、俺の転生も、この紙切れの出現も、本質的には同じ現象――前世の世界からの『何らかの形での転移』と考えるべきなのか?)
(あるいは、この紙は、物質として転移したのではなく、その『情報』だけがこの世界にコピー&ペーストされ、この世界の元素を用いて再構成されたものなのか? 魔法という、物理法則に干渉する力が存在するこの世界なら、それも有り得ない話ではない。だが、どちらにせよ、結論は同じだ)
(前世の世界からこの世界への転移現象は、俺の記憶だけではなかった。俺の知らないところで、他にも何かが、あるいは『誰か』が、この世界にやってきている可能性がある。そして、その時期も15年前と、俺の転生とほぼ同時期だ 。偶然か? それとも、何か巨大な事象の一部なのか?)
レオナールの思考は、宇宙的なスケールにまで飛躍する。だが、すぐに現実へと引き戻された。
(だが、現時点では、この紙切れ以外に手がかりは何もない。見つけた本人も既に亡く、場所も分からない。これ以上、何をどう調べろというのだ? ……無理だ。この謎を解明するためのロードマップすら、今の俺には思い浮かばない)
彼は、額縁の中の、鮮やかながらも少し色褪せた紙を見つめた。
(……いや、今はそれでいい。この紙切れが孕む謎は、あまりに根源的で、今の俺の知識と技術で解明できるものではない。これは、いつか取り組むべき、生涯をかけた問いなのかもしれない。だが、俺にはもっと喫緊の、そして明確な目標があるはずだ。母を救えなかった悔しさ。領地で見たゴードンさんのような、為す術なく病に蝕まれる人々。その現実を変えるために、俺は今、外科技術を求めてアンブロワーズへと向かっているのだ。この紙の謎も重要だが、それは俺の個人的な探求だ。だが、外科の技術は、目の前の苦しみを、そして未来の多くの命を救うための、直接的な力になる。優先すべきは、どちらか。答えは決まっている)
レオナールは、その奇妙な紙を、額縁からそっと取り出し、自らの荷物の最も奥深くへと、厳重にしまい込んだ。世界の真実へと繋がるかもしれない謎の断片。だが今は、それを心の奥底に封印し、自らが進むべき道を改めて強く見据えるのだった。