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血液内科医、異世界転生する  作者:
アンブロワーズへの道
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第百六話:託されし研究の灯

アンブロワーズ伯爵からの、丁重な言葉の裏に老獪な探り合いを潜ませた親書。そして、ファビアン・クローウェルが語った、その裏にあるであろう真意と、交渉の材料としての『白き結晶』の価値。軍務省の執務室から物質科学研究センターへの帰り道、レオナールの心は既に決まっていた。この招聘、受けるべきだ。いや、受けねばならない。それは、彼が渇望してやまない外科医療への、最も確実で、そしておそらくは唯一の扉なのだから。


研究個室に戻るや否や、彼はギルバートに最高級のベルク紙と、インク、そしてヴァルステリア家の紋章が入った封蝋を用意させた。机に向かい、ペンを手に取る。返信の文面は、慎重に、しかし迷いなく紡がれていった。


『アンブロワーズ伯爵閣下。

この度は、過分なるご招聘の栄誉に浴し、心より御礼申し上げます。

閣下が我が拙き分析技術にご関心をお寄せくださったこと、そして『特別科学顧問』という身に余るお役目をご提案いただきましたこと、ヴァルステリア家の名誉として、謹んでお受けいたしたく存じます。

我が知識と技術が、貴領が抱える問題の解決に、いささかでも貢献できるのであれば、これに勝る喜びはございません。

つきましては、近いうちに貴領へお伺いたく、準備を進める所存です。北東の地にて、閣下との知的な邂逅を賜れますことを、心より楽しみにしております』


その文面は、相手の厚意に感謝し、招聘を快諾するという形式を取りながらも、自らの価値を卑下することなく、対等な協力者としての立場を明確にするものだった。レオナールは、完成した手紙を丁寧に丸め、ヴァルステリア家の封蝋で固く封をすると、王家の伝令官を通じて、アンブロワーズ伯爵の元へと送らせた。


次なる課題は、旅の準備と、学院への手続きだ。しかし、この点において、彼の心はローネン州へ向かった時のように重くはなかった。勅許奏聞権によって創設された『特別研究科』。その最大の利点の一つが、ここにあった。


「それで、レオナール様。以前のように、副学長先生や各教科の先生方へのご説明と、長期休暇の申請が必要になりますな。お供いたしましょうか?」

ギルバートが、心配そうに尋ねる。

「いや、その必要はないんだ、ギルバート」

レオナールは、穏やかに微笑んだ。「特別研究科の規定では、研究活動に必要な長期の学外調査については、事前に計画書を提出し、届け出るだけで許可されることになっている。ローネン州での前例と、その後の功績が、こうして形として活きているというわけだ。以前のような、複雑な調整はもう不要だよ。本当に、ありがたいことだ」

特別研究科という聖域は、彼に研究の自由だけでなく、行動の自由をも与えてくれていたのだ。


旅の同行者についても、彼の考えはまとまっていた。

(今回の旅は、片道だけでも一月はかかる長旅だ。そして、アンブロワーズ領で何が待ち受けているか、まだ分からない。マルクスさんとクラウスさんには、王都に残ってもらうのが最善だろう)

アヘンの精製、そして抗菌薬のスクリーニング。どちらも、今まさに重要な局面を迎えようとしていた。その流れを、ここで止めるわけにはいかなかった。

「ギルバート、今回の旅は、私とお前、そしてファビアン殿が手配してくれた護衛の方々だけで向かうことにする。マルクスさんとクラウスさんには、私が不在の間、このセンターでの研究を続けてもらわなければならないからな」

「かしこまりました。護衛チームの責任者には、その旨を伝え、万全の警護体制を要請いたします」


出発までの数日間、レオナールは自身の不在中に研究が滞ることのないよう、マルクスとクラウスへの引き継ぎ作業に全力を注いだ。それは、単なる作業指示に留まらない、未来への布石でもあった。


研究室に二人を呼び、レオナールはまず、この数週間、粘土と炎にまみれながら試行錯誤を続けてきたクラウスに、心からの称賛の言葉を向けた。

「クラウスさん、あなたが開発してくれた新しいセラミックフィルター、性能を改めて検証させてもらったが、実に見事な出来だ。細菌レベルの粒子を、ほぼ完全に濾過できる。君のその不屈の探求心と精密な技術がなければ、我々の研究はここで完全に停滞していただろう。本当に、ありがとう。君のおかげで、我々はついに次の段階へ進める」

その言葉に、いつもは実直な表情を崩さないクラウスの顔が、誇らしさと安堵でわずかに緩んだ。

「レオナール様……もったいないお言葉です。レオナール様のポアフォーマーを使用するという発想とご指導があってこその成果です」

「いや、あなたの力だ」レオナールは穏やかに、しかしきっぱりと言った。「そして、そのフィルターを使って、私が不在の間の最も重要な任務を、あなたがた二人に託したい」


彼は、新しいベルク紙を広げ、今後のミッションを具体的に説明し始めた。

「まず一つは、アヘンの精製です。マルクスさん、これは引き続きお願いしたい。臨床での効果は確認できたが、より純度と収率を高め、安定供給できる体制を整える必要がある。クラウスさんには、その過程での精密な品質管理を手伝ってほしい」

「承知いたしました」マルクスが力強く頷く。

「そして、二つ目。これが、お二人に託す、我々の研究の未来を左右するかもしれない重要なミッションとなります。抗菌薬産生カビのスクリーニングを、本格的に開始してください」

レオナールは、具体的な手順をスケッチしながら説明する。

「収集した様々なアオカビを、マルクスさんが調製してくれた液体培地で培養する。そして、その培養液を、クラウスさんが開発した新型フィルターで濾過し、完全に無菌化された『培養上清』を作る。一方で、マルクスさんには、様々な感染症の現場から分離・培養してもらった病原性細菌を、寒天培地の上に均一に塗抹してもらう。最後に、無菌の培養上清を染み込ませた小さな円盤状のベルク紙を、その細菌が育つ培地の上に置く。もし、アオカビが細菌の増殖を抑える物質を産生していれば、その円盤の周囲にだけ、細菌が生えない『阻止円』が形成されるはずです。この阻止円の大きさを測定することで、どのカビが、どの細菌に対して、どれくらい強力な効果を持つのかを、系統的に評価できる」

それは、前世では「ディスク拡散法」として知られる、古典的だが極めて有効な抗菌薬のスクリーニング方法だった。マルクスとクラウスは、そのシンプルかつ合理的な実験計画に、息をのんで聞き入った。

「このスクリーニングで、有望なカビを見つけ出すこと。それが、お二人に託す最大の任務です」


そして、レオナールはさらに、その先の未来を見据えた構想を語り始めた。

「もし、このスクリーニングが成功し、有望な抗菌物質が見つかったなら、それを安定して大量に生産する必要が出てきます。そのための『ファーメンター(発酵槽)』。そして、その薬効と安全性を最終的に評価するための『動物感染モデル』。これらの構想も、ここに書き記しておく。私が不在の間も、あなたがたが自律的に次のステップへと進めるように。我々は、もはや単なる研究チームではない。この世界の医療の未来を創造するための、運命共同体なのだから」

彼は、二人に、自らが不在の間も研究の灯を絶やすことなく、次のステップへと進んでほしいという、深い信頼を伝えた。

マルクスとクラウスは、レオナールが示した壮大な未来図と、その背後にある揺るぎない決意に、深く感銘を受けていた。

「レオナール様……。お任せください。レオナール様がお留守の間、我々が必ずや、この研究の灯を守り、そして少しでも前進させてみせます」

二人の力強い言葉に、レオナールは静かに頷いた。信頼できる仲間に後を託し、彼は新たな探求の旅へと出発する。目指すは、北東の辺境、アンブロワーズ。

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