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血液内科医、異世界転生する  作者:
アンブロワーズへの道
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第百五話:辺境からの親書

「レオナール・ヴァルステリア様宛てに、北東辺境領、アンブロワーズ伯爵家より、親書にございます」


アンブロワーズ伯爵家から、自分に直接。レオナールは、その事実に内心の驚きを隠せなかった。ファビアンを介した交渉が行われていることは知っていたが、このような公式的な形で、相手側から接触があるとは予想していなかったからだ。辺境の、しかも外科医療の秘密を抱えると言われる大貴族からの、突然の便り。その意図は、まだ計り知れない。


「……分かった。ご苦労」


レオナールは、伝令官から書状を受け取ると、すぐさまターナー教授が待つセンター長室へと向かった。重厚な扉を開けると、教授は拡大鏡を片手に、新しく分析した鉱石の結晶構造をスケッチしているところだった。


「先生、アンブロワーズ伯爵家から、私宛に親書が届きました」


「なに、伯爵本人からだと?」


ターナー教授も、驚きに目を見張った。彼はスケッチの手を止め、レオナールと共に厳かな封蝋を解き、中に収められた上質なベルク紙に目を通した。優雅ながらも力強い筆跡で綴られた文面は、丁重な言葉選びの中に、老練な領主のしたたかさを窺わせるものだった。


『ヴァルステリア公子レオナール殿。

秋冷の候、公子におかれては益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。

先般のローネン州における貴殿の目覚ましいご活躍、そして『特別研究科』創設の報は、この北東の辺境にまで、輝かしい報せとして届いております。複雑に絡み合った事象の中から、科学的な手法をもって真実を見出すその手腕に、アンブロワーズ家当主として深く感銘を受けました。

先日、王都へ派遣した我が代理人がファビアン・クローウェル殿と面会し、その折に伺った貴殿の類稀なる才能とご活躍については、報告を受け、私も深く承知しております。

さて、我がアンブロワーズ領もまた、国境地帯という土地柄、兵士たちの間で流行する原因不明の病や、古くから領民を悩ませる風土病といった、未だ解明に至らぬ課題を抱えております。

つきましては、ローネン州で示された貴殿のその『科学の目』をお借りし、我が領が抱えるこれらの問題の原因究明の糸口を見出すべく、ご助言を賜りたく存じます。この度、公子を『アンブロワーズ領 特別科学顧問』として、我が領へ正式に招聘いたしたく、筆を執った次第です。

招聘をお受けいただけた暁には、ヴァルステリア家の公子、そして王国の宝たる探求者をお迎えするに相応しい、最高の礼をもってお応えすることをお約束いたします。滞在中の館、調査に必要な人員、その他ご要望には、可能な限りお応えする所存です。

ご多忙の折とは存じますが、北東の地にて、公子との知的な邂逅を楽しみにしております。良きお返事を心よりお待ち申し上げております。』


「……特別科学顧問、だと?」ターナー教授は、唸るように言った。「馬鹿馬鹿しい。これは、表向きは丁重な協力依頼だが、その裏には明らかな政治的な意図があるな。風土病の調査などというのは、おそらくはただの口実だろう。奴らが本当に知りたいのは、ローネン州で使った君の分析技術と、そして何より、ファビアン殿が交渉の場でちらつかせたという、あの『白き結晶』の正体のはずだ。レオナール君、君はどう見る?」


「先生、私もそう思います」レオナールは、教授の分析に同意した。「この文面には、丁重さの裏に、我々を試すような響きすら感じます。最高の礼を尽くす、と。それはつまり、彼らの土俵であるアンブロワーズ領へ我々を招き入れ、その上で我々の価値をじっくりと値踏みしようという魂胆でしょう。ですが、これは我々にとっても好機です。彼らの懐に飛び込むことでしか得られない情報があるはずです」


「ふむ。危険な賭けになるかもしれんが、君が行くと決めたのなら、儂は止めん。だが、これは君一人の判断で動くべきではない。この親書の真意を、より正確に測る必要がある」

「はい。ですので、一度、ファビアン殿にご相談に上がろうかと存じます」


レオナールは、この巧みな外交文書に隠された、アンブロワーズ伯爵の真の狙いを探るべく、すぐに行動を開始した 。


数日後、レオナールは軍務省の庁舎内にあるファビアンの執務室を訪れていた。そこは王宮の華やかさとは対照的に、機能性と機密性を重視した、質実剛健な空間だった。壁には巨大な王国全図と近隣諸国の地図が掲げられ、国境線、特にアンブロワーズ領周辺には、軍事拠点を示す無数の赤い印が打たれている。机の上には報告書の束が整然と積み重ねられており、この部屋の主が常に国家の安全保障という重責と向き合っていることを物語っていた。


「ファビアン殿、本日はお時間をいただき、ありがとうございます」


レオナールがアンブロワーズ伯爵からの親書を差し出すと、ファビアンはそれに目を通し、表情一つ変えずに、しかしその内容を瞬時に分析したようだった。


「なるほど。伯爵も、なかなかに巧みな手を打ってきたな」


ファビアンは、親書をテーブルに置き、レオナールに向き直った。


「この親書の真意だが、君の推察通り、風土病の調査云々というのは方便だろうな」ファビアンは、きっぱりと言い切った。「彼らが今、最も知りたいのは、君が持つ別のカード、件の辺境防衛戦略に関する関係者会議の際に私がアンブロワーズの代理人に提示した『白き結晶』――君が開発を進めているという、強力な鎮痛薬の正体と、その進捗状況のはずだ。彼らは、君という類稀な才能そのものに、強い興味を持っている」


ファビアンは、そこで一度言葉を切った。


「伯爵は老獪な領主でもある。彼は君を『特別科学顧問』という名誉ある地位で迎え入れることで、君の行動を自領内でコントロールしようとするだろう。そして、君が持つ知識の全てを引き出そうとするはずだ。君は、客として招かれるのではない。むしろ、価値を測られる商品として、彼の城に足を踏み入れるのだと考えた方がいい」


その冷徹な分析に、レオナールの背筋がわずかに伸びた。


「では、私が持つ外科的技術への興味については…」


「それこそが、この交渉の核心だ」ファビアンは頷いた。「彼らは、自分たちの持つ『外科』という切り札を最大限に高く売るつもりだろう。そのために、まず君という『買い手』が、どれほどの対価を支払えるのかを見極めようとしている。私が提示した鎮痛薬は、彼らにとって極めて魅力的な『対価』の候補だ。だからこそ、その詳細を知るために、君自身を呼び寄せた」


「ですが、私が教会と協力し、既に臨床試験を開始しているという情報は…」


「私からは伝えていない」ファビアンは静かに言った。「だが、君も知る通り、教会という組織は我々が思う以上に広範な情報網を持っている。アンブロワーズは比較的教会の影響力が弱い土地だが、君の施療院での活動が、何らかの形で彼らの耳に入っている可能性はゼロではない。その上で、君の価値を再評価し、この招聘に踏み切ったのかもしれん」


レオナールは、水面下で繰り広げられる情報の探り合いに、改めて政治の複雑さを感じていた。


「いずれにせよ」ファビアンは結論付けた。「この招聘、受けるべきだ。これは、君が渇望していた外科医療への、最も確実な扉だ。だが、心してかかれ。これは単なる学術調査ではない。アンブロワーズ伯爵という、一筋縄ではいかん老獪な領主との、高度な政治交渉の始まりなのだからな」


「そして忘れるな、レオナール公子。君が持つカードは、あの『白き結晶』だけではない。ローネン州で見せた君自身の分析能力、王国の後ろ盾を得て設立された『特別研究科』という公的な立場、そして何よりも、まだ誰もその全容を知らない君の頭脳そのものだ。これは対等な取引なのだよ。君はもはや、ただの学生ではない。王国という後ろ盾を持つ、一人の交渉者なのだ」


ファビアンの言葉は、レオナールに、次なる挑戦の舞台の複雑さと、その先に待つであろう大きな可能性を、明確に示していた。彼の胸には、不安と共に、未知の領域へと踏み込むことへの、強い決意が固まっていた。外科医療への道は、すぐそこに開かれようとしていた。

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