第百五話:新たなる扉
アルマンの穏やかな最期は、王都大教会付属施療院に、静かな、しかし確かな波紋を広げた。耐え難い苦痛に呻き続けていた一人の人間が、まるで眠るように安らかに旅立っていったという事実は、死を日常的に看取る尼僧たちや、同じように病に苦しむ他の患者たちの心に、畏敬と、そして一条の希望の光を灯したのだ。
その光に導かれるように、ヨハン・シュトラッサーの特別な計らいと、患者本人とその家族の強い希望により、新たに三人の患者がレオナールの臨床試験に参加することになった。肺の病が骨にまで転移し、寝返りを打つことすら激痛を伴う老婆。腹部の大きな腫瘤によって内臓が圧迫され、固形物を一切受け付けなくなって久しい老人。そして、大腿骨を複雑骨折した後、骨は歪んだまま癒合したものの、まるで過去の痛みの記憶が体に刻み込まれたかのように、頑固な慢性疼痛だけが残った初老の男性、グンター。レオナールは、一人一人の病状と痛みの性質を、前世の知識と経験を総動員して丁寧に診察し、それぞれに最適な投与計画を立てていった。
結果は、アルマンの時と同様、劇的であった。悪性腫瘍に苦しむ二人の老人は、長らく忘れていた「痛みのない穏やかな時間」を取り戻した。家族と、途切れ途切れではあったが意味のある言葉を交わし、微かな笑みを浮かべ、そして数週間後、それぞれが人の尊厳を保ったまま、安らかに神の御許へと旅立っていった。病そのものを治すことはできなくとも、その最期のクオリティ・オブ・ライフを劇的に改善できる。その事実は、この世界の医療における「緩和ケア」という新しい扉を、確かにこじ開けていた。
そして、慢性疼痛の症例は、この『モルヒネ結晶』が持つ、また別の可能性を示した。彼は悪性疾患ではないため、生命の危機はなかったが、絶え間ない痛みが彼の精神を蝕み、生きる気力そのものを奪っていた。レオナールの調製した結晶の水溶液は、彼をその絶望の淵から救い上げた。
「先生…」数日後、レオナールの回診を受けたグンターは、ベッドの上で上半身を起こし、傍らに置かれた数枚の紙束を嬉しそうに撫でながら、晴れやかな表情で言った。「ご覧ください。痛みが和らいだおかげで、ようやく、こうして文字を目で追うことができるようになりました」
彼が示しているのは、上等な羊皮紙ではない、薄くてわずかに生成りがかった、しかし庶民でも何とか手が届く価格で売られ始めた「ベルク紙」に、木版で印刷された簡素な物語集だった。
「最近、ベルク商会さんとやらが、王都でこういう物語集を安く売り出し始めたと聞きましてな。息子に頼んで、買ってきてもらったのです。昔は、本といえば教会にある分厚い聖典くらいしか見たことがありませんでしたが、今では私のような者でも、こうして新しい物語に触れることができる。なんと、素晴らしい時代になったことか。痛みがなければ、こうして夜、灯りの下で物語の続きに胸を躍らせる楽しみも思い出せるというものです」
その言葉に、レオナールの胸には、鎮痛薬の効果とはまた別の、深い感慨が込み上げてきた。
(ベルク紙と木版印刷が、もうこんなところまで……。俺が研究のために作ったものが、意図せずして、人々の生活に新しい『楽しみ』や『文化』を生み出し始めている……)
彼の発明が、彼の知らないところで、確実にこの世界を動かしている。その事実に、彼はわずかな畏れと、しかし確かな手応えを感じていた。そして同時に、グンターの言葉は、彼に新たな課題も認識させた。
彼のその言葉は、レオナールの心に深く響いた。同時に、新たな課題も浮かび上がらせる。
(モルヒネは、癌性疼痛のような強度の高い痛みには絶大な効果を発揮する。だが、彼のような、生命を直接脅かすわけではない慢性的な痛みに対して、これを漫然と使い続けることには、依存や耐性といった、また別の、そして非常に根深い問題が付きまとう。オピオイド系以外の、異なる作用機序を持つ鎮痛薬――例えば、炎症を抑えることで痛みを和らげる薬や、神経の過剰な興奮を鎮める薬。そういったものの開発も、いずれ必ず必要になるだろう)
彼の視線は、常に目の前の患者の、さらにその先の未来を見据えていた。
一連の臨床試験の成功と、レオナールの深い倫理観に感銘を受けたヨハン・シュトラッサーは、ついに大きな決断を下した。「レオナール公子。この『白き結晶』は、もはや単なる研究対象ではない。これは、神が与え給うた、苦しむ民への慈悲の光そのものです。これを、我々教会が責任をもって管理し、必要とする人々に届ける責務がある」。彼はそう語ると、教会内でアヘンを精製し、管理・供給するための専門部署を設立すべく、具体的な準備に着手し始めた。
レオナールもまた、これ以上の直接的な臨床介入は、シュトラッサーのような経験豊富な指導者と、日夜患者に寄り添う尼僧たちに委ねるべきだと判断した。彼は、自らの手で詳細な手引書を作成し、治療を引き継ぐ尼僧たちに、数日間にわたって丁寧なレクチャーを行った。投与量の調整方法、副作用として注意すべき兆候――呼吸数の低下、過度の傾眠、瞳孔の縮小――の観察ポイント、そして何よりも、患者との対話を重視し、その小さな変化から痛みの度合いを客観的に評価する方法。彼の指導は、単なる薬の使い方に留まらず、患者を全人的にケアするための、近代的な看護学の基礎ともいえる内容を含んでいた。
転生後、母エレオノーラ以外で、初めて本格的な診療行為を行ったこの経験は、レオナールの心に、医の原点ともいえる思いを再燃させていた。
(診断、治療、そして緩和。その全てにおいて、まだこの世界には基本的な道具すら足りていない。特に、モルヒネのような強力な薬を、より安全かつ持続的に投与するには……)
彼の思考は、自然と次なる医療器具の開発へと向かった。
(点滴静脈注射――インフュージョンシステムだ。経口投与が困難な患者や、より厳密な血中濃度の管理が必要な場合に、このシステムは不可欠となる。モルヒネ結晶を持続的に、微量ずつ静脈内に投与できれば、安定した鎮痛効果が得られ、副作用のリスクもさらに低減できるはずだ)
彼の研究個室の机の上には、滅菌された液体を入れるためのガラス瓶、輸液の速度を指先で精密に調整するためのローラークレンメの構造図、そして静脈に安全に留置するための翼状針の設計図などが、ベルク紙の上に次々と描き出されていった。
季節は、夏の盛りのような力強い日差しから、次第に穏やかな秋の陽光へと移り変わっていた。マルクスは、レオナールの指導のもと、アヘン研究と並行して、様々な植物や鉱物から染色法の候補となる色素の抽出・精製を進めていた。
そして、物質科学研究センターの裏手の窯では、クラウスが来る日も来る日も、粘土と炎と格闘を続けていたが、ある日、その瞬間が訪れた。
「レオナール様! や、やりました……! ついに……!」
研究個室に、クラウスが息を切らせて駆け込んできた。その顔は煤と汗で汚れていたが、瞳はこれまでにないほどの達成感と興奮で輝いていた。彼の手には、数枚の、白く薄いセラミック製の円盤が、まるで宝物のように大切に抱えられている。
「まだ、再現性は低く、百枚焼いてようやく数個、というレベルですが……。細菌懸濁液を完全に濾過し、無菌状態にできるフィルターが、ついに完成いたしました!」
その報告に、レオナールは弾かれたように立ち上がった。すぐさま行われた検証実験で、そのフィルターがマルクスが培養した細菌を完全に除去できることが証明された。それは、抗菌薬開発という、長きにわたり停滞していた研究の、大きな扉をこじ開ける、まさに待望の成果だった。
研究チーム全体が、新たな挑戦への期待と高揚感に包まれた。レオナールは、完成したばかりのフィルターを手に取り、記念すべき最初のアオカビ培養上清の濾過を開始しようと、滅菌済みのフラスコへと手を伸ばした。いよいよ、見えざる敵との戦いが本格的に始まるのだ。
その、まさにその時だった。
コン、コン、コン。
研究個室の扉が、控えめながらも、しかし確かな存在感をもってノックされた。ギルバートが応じると、そこに立っていたのは、王家の紋章をつけた伝令官だった。彼は、レオナールに進み出ると、恭しく一通の書状を差し出した。
その書状の封蝋に刻まれていたのは、アステリア王家やヴァルステリア家の紋章ではなかった。
「レオナール・ヴァルステリア様宛てに、北東辺境領、アンブロワーズ伯爵家より、親書にございます」




