第百三話:白き結晶の光
王都大教会付属施療院。その静謐な空間を、レオナールの急ぎ、しかし音を立てない足音が駆け抜けた。研究棟から馬車を飛ばし、彼は治療に必要な量の『モルヒネ結晶』を携え、再びアルマンが待つ病室へと戻ってきたのだ。その表情には、医師としての使命感と、これから始まる世界初の試みに対する、科学者としての冷静な緊張感が同居していた。
「シュトラッサー様、マルクスさん。お待たせいたしました。治療薬の準備ができました」
施療院の一角にある、清潔に保たれた調剤室。レオナールは、シュトラッサーとマルクスが見守る中、持参した木箱から厳重に封をされたガラス瓶を取り出した。中には、先日彼らが精製に成功した、純白の針状結晶が、静かな輝きを放っている。
「これから、アルマンさんに投与する初回量を正確に調製します」
レオナールは、クラウスが特別に校正してくれた超精密天秤を設置すると、滅菌済みの薬さじで、計算通りのごく微量の結晶を慎重に薬包紙の上に取り出した。その手つきは、少しの震えもなく、彼の深い知識と確信に裏打ちされている。
「この量を、マルクスさんが用意してくれた滅菌水に完全に溶解させます」
秤量された結晶は、清潔なガラス杯に移され、そこにマルクスが用意した温めの滅菌水が注がれる。ガラス棒で静かにかき混ぜると、純白の結晶はあっという間に水に溶け、無色透明の液体へと姿を変えた。それは、見た目にはただの水と変わらないが、一人の患者を耐え難い苦痛から解放する可能性を秘めた、希望の雫だった。
調製を終えたレオナールは、その杯を手に、再びアルマンのベッドサイドへと向かった。アルマンは、先ほどよりもさらに消耗し、浅い呼吸を繰り返しながら、痛みに顔を歪めている。
「アルマンさん、分かりますか。新しいお薬を持ってきました」レオナールは、彼の肩に優しく触れながら、語りかけた。「これを飲めば、きっと楽になりますから。ゆっくりと飲んでください」
マルクスがアルマンの上半身をそっと抱き起こし、レオナールが杯を彼の乾いた唇へと近づける。アルマンは、こくり、こくりと、レオナールの言葉を信じるように、ゆっくりと液体を飲み干した。
投与を終えると、レオナールは椅子を引き寄せ、アルマンの傍らで静かに経過の観察を始めた。脈拍、呼吸数、顔色、そして何よりも、彼の表情の変化。その全てを、医師の鋭い観察眼で見逃すまいと集中する。マルクスとシュトラッサーもまた、固唾を飲んでその様子を見守っていた。
長い、静かな時間が流れる。十分、二十分……。アルマンの荒い呼吸が、少しずつ、しかし確実に穏やかになっていく。額に滲んでいた脂汗も引き、苦痛に固く結ばれていた唇が、わずかに緩んだ。
そして、投与からおよそ三十分程度が経過した頃。アルマンの目が、ゆっくりと開かれた。その瞳には、先ほどまでの苦悶の色ではなく、信じられないといった驚きと、そして確かな安堵の色が浮かんでいた。
「……ああ……。痛みが……和らいでいる……」
彼の口から漏れたのは、か細い、しかしはっきりとした感謝の言葉だった。
「先生……あの、焼け火箸で抉られるような痛みが……消えた。まだ、体の奥に重たい鈍い痛みは残っているが、それでも、さっきまでの地獄のような苦しみに比べれば、まるで夢のようだ……。こんなに、楽になったのは、もう何ヶ月ぶりだろうか……」
アルマンの目から、一筋の涙が静かに流れ落ちた。それは、苦痛からの解放を告げる、安堵の涙だった。彼の表情は、先ほどまでの苦悶に満ちたものから、驚くほど穏やかなものへと変わっていた。
「良かった……。ひとまずは、効果があったようですね」
レオナールは、アルマンの手を握りながら、安堵の息をついた。予想以上の、そして理想的な効果だった。彼は、アルマンの反応を見て、この初回量で十分な効果が得られたと判断すると、再び薬瓶を取り出した。そして、その場で滅菌済みの薬包紙を数枚広げ、先ほどと同じ量を精密天秤で一つ一つ正確に秤量し、未来の突発痛に備えるための頓服薬として丁寧に包んでいく。
「シュトラッサー様、これを預けます。もし、またアルマンさんが強い痛み(突発痛)を訴えられたら、この包み一つ分を、先ほどと同様に滅菌水に溶かして飲ませてあげてください。おそらく、これで三日間はもたないでしょう。明日からは、私が毎日こちらへ伺い、アルマンさんの様子を診察させていただくと共に、新しい薬をお届けします」
「分かりました、レオナール公子。お預かりいたします」シュトラッサーは、その小さな包みを、まるで聖遺物でも受け取るかのように、慎重に受け取った。「しかし、これほど効果的な薬を、今後も安定して供給することは可能なのでしょうか?」
その問いに、レオナールは頷いた。
「そこで、シュトラッサー様にお願いがございます。今回、教会から供給していただいたアヘンは、あくまで我々の研究用です。これをアルマンさんのような患者さんの治療に使い続ければ、あっという間になくなってしまうでしょう。もし可能であれば、彼の治療のためだけに、別途アヘンを供給していただくことはできないでしょうか」
そして、彼は、さらにその先の未来を見据えた提案を口にした。
「この治験がうまくいき、将来的により多くの患者さんにこの薬を届けることができるようになった暁には、この結晶の精製方法を、教会にお伝えすることも吝かではありません。そうすれば、教会が運営するこの施療院で、直接、高純度の鎮痛薬を安定して製造することも可能になるはずです。それは、多くの人々の苦しみを和らげるための、大きな力となるでしょう」
その言葉は、単なる薬の提供依頼ではない。レオナールの持つ先進的な科学技術と、教会が持つ組織力・倫理観を結びつけ、この世界の医療を共に前進させようという、壮大な協力の提案だった。
シュトラッサーは、レオナールのその申し出に、深く、そして厳粛な面持ちで頷いた。その目には、もはや単なる感嘆ではなく、この国の医療の未来を左右する重大な決断を下す、責任者としての覚悟が宿っていた。
「……レオナール公子。そのお考え、そして我々教会への信頼に、心から感謝いたします。アルマンさんのためのアヘンの追加供給については、この施療院での治療行為を監督し、また王国におけるアヘンの管理責任者の一人である、この私が責任をもって許可しましょう。すぐにでも手配させます。そして、将来的な製法の共有についてですが…それは、我々がまさに望んでいた提案です。今回の試みで安全性と有効性がさらに確立された暁には、私が主導し、教会の薬師たちにその技術を習得させ、この施療院内で直接、この『白き結晶』を精製・管理する体制を構築できるよう、全力で準備を進めることをお約束します。共に、苦しむ人々のための道を切り拓きましょうぞ」
シュトラッサーは、力強く、そして確かな信頼を込めて、レオナールに約束した。
施療院の一室で、純白の結晶がもたらした小さな光。それは、一人の患者を苦痛から解放し、そしてこの世界の医療の未来を照らし出す、希望の光の第一歩となった。