第百二話:若き医師の診察
王都大教会付属施療院の一室。そこは、清潔ではあるが、薬草と、そして人の世の苦しみが凝縮されたような独特の匂いが満ちていた。レオナールは、シュトラッサーとマルクスが見守る中、最初の患者である老婆の前に静かに膝をついた。
「こんにちは、おばあさん。私はレオナールと申します。少しだけ、お体の様子を診させていただけますか?」
彼の声は穏やかで、その若さに似合わぬ落ち着きは、長年病に苦しんできた老婆の警戒心を和らげる不思議な力を持っていた。彼はまず、急に体に触れることはせず、老婆自身の言葉に耳を傾けることから始めた。いつから、どこが、どのように痛むのか。眠れているか、食事は摂れているか。その問いかけは、まるでチェックリストを一つ一つ確認するように系統的でありながら、決して機械的ではなかった。
老婆の言葉が途切れると、彼は丁寧に、しかし的確に身体診察を進めていく。眼瞼結膜を確認して貧血の有無を評価し、脈を取り、胸の音を聴き、腹部を優しく触診する。その一連の流れは、淀みがなく、洗練されていた。
「……なるほど。お辛いですね。後で、少しでも楽になるようなお薬を考えてみましょう」
レオナールが老婆の手を優しく握り、労いの言葉をかけると、彼女の強張っていた表情がわずかに和らいだように見えた。
その様子を、少し離れた場所から見ていたマルクスは、感嘆の念を禁じ得なかった。彼も長年、薬師として多くの患者を診てきた自負がある。だが、レオナールの診察は、自身の経験則に基づいたアプローチとは根本的に異なっていた。問診で得た主観的な情報と、身体診察で得た客観的な所見を、頭の中で論理的に組み立て、病態を推測していく。その思考プロセスが、彼の立ち居振る舞いの端々から透けて見えるようだった。
(これが、レオナール様の『医学』か……。我々薬師が長年培ってきた経験と勘の世界とは違う。なんと系統立っており、そして洗練されていることか。これならば、病の根本に、より深く迫れるやもしれん)
シュトラッサーに至っては、もはや感動を隠そうともしていなかった。彼は、レオナールの技術的な卓越性以上に、その姿勢に心を打たれていたのだ。患者一人ひとりに対し、その社会的背景や精神的な苦痛まで含めて全人的に捉えようとする深い洞察力。それは、彼が長年、宮廷医師団や教会で追い求めてきた、理想の医療者の姿そのものであった。
レオナールは、コミュニケーションが困難な患者に対しては、普段のケアを担当している尼僧たちから、睡眠の状態、食事の量、排泄物の性状、そして痛みのサインと思われる表情や体のこわばりといった、極めて具体的な情報を丁寧に聞き出していった。その真摯な姿勢は、尼僧たちの信頼をもすぐに勝ち得ていった。
そして、七人の患者の中で、レオナールの注意を最も強く引いたのが、アルマンと名乗る五十代の男性だった。彼は、ベッドの上で荒い呼吸を繰り返し、時折、腹部を押さえて呻き声を上げている。アヘンチンキが処方されているが、ほとんど効いていないことは明らかだった。
「アルマンさん、分かりますか? レオナールです。どこが一番お辛いですか?」
「……うぅ……先生……。この、右の腹が……まるで内側から、焼け火箸で抉られるようだ……。時々、波のように、耐えられない痛みが……襲ってくるんだ……」
アルマンは、途切れ途切れに、しかし必死に痛みを訴えた。レオナールは彼の腹部を慎重に触診する。右の側腹部に、硬く、不整な形状の腫瘤を明らかに触知した。さらに、右の季肋部、肝臓の位置にも、同じように硬く腫れ上がった腫瘤の辺縁を触れる。骨盤や背骨に軽く圧を加えると、アルマンは顔を苦痛に歪めた。
(右側腹部の腫瘤…上行結腸がんか。肝臓にも複数の腫瘤を触れる…多発肝転移。そして骨への圧痛…骨転移も強く疑われる。通過障害はまだ起きていないようだが、アヘンチンキではコントロール不能な、癌性疼痛、特に突発痛が頻発している状態か。一方で、アヘンによる便秘の副作用はまだ出ていない。これは…我々の結晶を試すには、まさに最適な症例かもしれない)
レオナールは、診断的確信を深めると同時に、治療の適応を冷静に判断した。彼はベッドサイドの椅子を静かに引き寄せ、アルマンの目を見つめると、できるだけ分かりやすい言葉で、そして真実を包み隠さず伝えることを決意した。
「アルマンさん」彼の声は、これまで以上に真摯な響きを帯びていた。「お辛いですね。その痛みがどれほどのものか、お察しいたします。そこで、ご提案があります。我々は、あなたのその痛みを和らげるための、新しい薬を研究しています」
「これは、全く未知の薬というわけではありません。今アルマンさんがお使いになっているアヘンのお薬、その中から、本当に痛みを抑える成分だけを、特別な技術で取り出して純度を極限まで高めたものです」
その説明に、アルマンの目がわずかに見開かれた。
「ただし」レオナールは言葉を続けた。その声には、医師としての誠実さが込められている。「非常に重要なことがあります。この薬は、まだ人に対しては、一度も使われたことがありません。もし試されるなら、あなたが、世界で最初の患者さんになるのです。ですから、どのような効果が、あるいは予期せぬ影響が出るか、完全には分かりません」
痛みに喘いでいたアルマンの表情に、一瞬、不安の色がよぎる。それを見逃さず、レオナールは続けた。
「ですが、動物を使った実験では、今のお薬よりもずっと速く、そして強く痛みを抑えることができ、かつ体への負担が少ないという、非常に有望な結果が得られています。私は、この薬があなたの苦しみを和らげる大きな助けになると信じています」
そして、彼は最終的な決定を患者に委ねた。
「この説明を聞いた上で、それでもこの新しい薬を試してみたいというお気持ちは、ありますでしょうか? 決して無理強いはいたしません。アルマンさん、あなたご自身の意志でお決めください」
この一連の説明を、シュトラッサーとマルクスは息をのんで聞いていた。薬の効果だけでなく、リスクについても正直に伝え、最終的な決定権を患者に委ねる。その姿勢は、この世界の「お上から与える治療」とは全く異なる、患者の尊厳を重んじる思想の表れだった。シュトラッサーは、レオナールの中に、新しい時代の医療者の姿をはっきりと見ていた。
アルマンは、しばらくレオナールの目をじっと見つめていたが、やがて、その乾いた唇が動いた。
「……先生……。この痛みが、少しでも楽になるというのなら……。もう、なんだっていい……。ぜひ、試させてくれ……! 新しいこと、大歓迎だ……!」
その声は、絶望の淵から差し伸べられた一本の蜘蛛の糸に、必死で掴まろうとする者の、魂の叫びのようだった。
「シュトラッサー様」レオナールは、傍らで見守っていたシュトラッサーに向き直った。「この方の状態と、ご本人の強い希望を鑑み、最初の臨床試験の対象とさせていただきたいと存じます。いかがでしょうか」
シュトラッサーは、深く、そしてゆっくりと頷いた。
「彼の痛みは、ここ一週間で特にひどくなっていました。我々も、これ以上アヘンチンキの量を増やすことのリスクを考え、まさに途方に暮れていたところです。残念ながら、彼には身寄りもおられません。本人の強い意志があるのであれば、公子のお考えを、教会として妨げる理由はございません。どうか、彼の苦しみを、和らげてさしあげてください」
許可は、下りた。
「ありがとうございます」レオナールは、シュトラッサーと、そしてベッドの上のアルマンに、深く頭を下げた。「早速、準備に取り掛かります。ですが、申し訳ありません。本日、私が持参したのは、あくまでサンプルのごく少量のみ。一刻も早く、研究棟へ戻り、治療に必要な量を用意してまいります」
彼は、マルクスに視線を送った。
「マルクスさん、後の準備をお願いします。経口投与用の滅菌水、投与量を正確に測るための器具、そして万が一の事態に備えた救急用の薬草の準備を。私は、ギルバートと共に、すぐに研究棟へ戻ります」
レオナールは、足早に施療院を後にした。馬車に乗り込むと、彼はすぐさまベルク紙とペンを取り出し、思考を巡らせる。
(アルマンさんの体重、全身状態、そして現在のアヘンチンキの投与量を考慮し、モルヒネ結晶が純品であると仮定した場合の初期投与量を算出する。基本は、持続的な痛みに対する長時間作用型の投与と、突発痛に対する即放性のレスキュードーズの組み合わせが理想だが、まだ徐放性の製剤は開発できていない。ならば、まずはレスキューのみで開始するべきだ。痛みの訴えがあった時に、即効性のある経口液として、少量から投与を開始し、鎮痛効果と副作用の発現を注意深く観察しながら、最適な投与量を探っていく。これが、現時点で最も安全かつ有効な方法のはずだ)
馬車は、研究棟へと速度を上げる。その車内で、レオナールは医師として、そして科学者として、一人の患者を苦痛から解放するための、最も確実な一手を、静かに、しかし熱く練り上げていた。それは、この世界の医療が、新たな一歩を踏み出すための、歴史的な序曲となるはずだった。