第百一話:白き結晶と教会
今頃、ファビアン殿はアンブロワーズ伯爵の代理人と、どのような交渉を繰り広げているのだろうか……。
王立アステリア学院、物質科学研究センター。その一角に設けられたレオナールの研究個室で、彼は窓の外に広がる王都の空を見つめながら、水面下の攻防に思考を巡らせていた。自らが提示した『モルヒネ結晶』という切り札が、果たして外科医療への道を切り拓く鍵となるのか。その行方は、まだ誰にも分からない。
彼の思索は、マルクスの訪問によって中断された。
「レオナール様、先日、教会へ提出いたしましたアヘン研究に関する報告書と、臨床での限定的な使用許可の申請についてですが、上層部より返答がございました」
「もうですか。随分と早いですね」
レオナールは、ペンを置き、マルクスに向き直った。
「はい。レオナール様のこの研究が、いかに重要視されているかの表れかと存じます」マルクスは頷いた。「そして、その返答ですが…『計画の重要性と、その倫理的配慮の深さについては理解した。しかし、これほど重要かつデリケートな案件について、書面だけで判断を下すことはできない』とのことでした。つきましては、国内の教会組織における保健衛生を統括する責任者である方が、レオナール様と直接お会いし、お考えを伺いたい、と」
「責任者の方が、私と直接?」
「はい。その方、ヨハン・シュトラッサー様は、経験豊富な薬師であると同時に、神に仕える高位の僧侶でもあらせられます。かつては宮廷医師団にも籍を置かれていたことがあると伺っております」
マルクスの言葉には、シュトラッサーという人物への深い敬意が滲んでいた。「そのシュトラッサー様が、我々が抽出した結晶そのものと、レオナール様のお考えを、直接その目と耳で確かめたい、と。場所は、王都の大教会が直接運営しております施療院にて、とのことです」
その申し出は、レオナールにとって望外のものであり、同時に、避けては通れない試練でもあった。教会という、この世界の医療と倫理観の根幹をなす組織の国内トップに、自らの研究の真価を問われるのだ。
「分かりました、マルクスさん。そのお申し出、お受けしましょう」
数日後、レオナールはマルクスと共に、一台の簡素な馬車に乗り、王都の一角にある大教会付属の施療院へと向かった。手には、厳重に封をされた木箱。中には、純白の『モルヒネ結晶』のサンプルと、その効果を客観的に示す動物実験のデータが収められている。
施療院は、大教会の荘厳な建物の裏手に、まるでその影に寄り添うように静かに佇んでいた。建物そのものは古く、華美な装飾はない。しかし、手入れの行き届いた石壁と、清潔に磨かれた窓ガラスは、この場所が深い慈愛と規律をもって運営されていることを物語っていた。
中に入ると、待っていたのは尼僧と思われる初老の女性だった。彼女は二人を静かに迎え入れ、応接室へと案内した。通された部屋は、広くはないが、隅々まで掃き清められ、壁には薬草を乾燥させるための棚が整然と並んでいる。空気は、薬草の匂いと、清潔なリネンの香りが混じり合った、独特の清浄さに満ちていた。
やがて、扉が静かに開き、一人の男性が入室してきた。歳は六十代ほどだろうか。僧侶がまとう簡素な、しかし上質な生地の法衣を身に着け、その穏やかな顔には、深い知識と経験に裏打ちされた知性の光が宿っている。彼が、ヨハン・シュトラッサーその人だった。
「レオナール・ヴァルステリア公子、そしてマルクス殿。ようこそお越しくださいました。私がヨハン・シュトラッサーです」
その声は、静かだが、聞く者の心を落ち着かせる不思議な響きを持っていた。レオナールとマルクスは、深く頭を下げ、丁重に挨拶を返した。
「さて、レオナール公子」シュトラッサーは、席に着くのを促すと、単刀直入に切り出した。「マルクス殿を通じて提出された報告書、拝見いたしました。実に興味深く、そして野心的な研究です。つきましては、公子がアヘンから取り出したという、その『白き結晶』について、改めてご説明いただけますかな?」
レオナールは頷き、持参した木箱から結晶のサンプルと、動物実験のデータをまとめたベルク紙を取り出した。
「シュトラッサー様。こちらが、我々が『モルヒネ結晶』と仮称している物質です」
彼は、まずその精製プロセスについて説明した。黒い樹脂状の生アヘンを、アルコール系の溶媒と酸を用いて化学的に処理し、不純物を段階的に取り除くことで、鎮痛効果を持つ主成分だけを結晶化させたこと。
次に、彼は動物実験の結果を示した。グラフは、既存の生アヘンを用いた場合と比較して、この結晶がいかに速やかに、そして強力に痛みを抑えるか、そして副作用である鎮静作用や消化器系への影響が、いかに軽減されているかを、客観的な数値で示していた。
「……我々の目標は、単に強力な鎮痛薬を作ることではありません」レオナールの声に、熱がこもる。「真の目的は、その力を正確に制御し、不要な苦しみを取り除き、患者さんの尊厳を守ることにあるのです。この結晶は、まだ純度が完璧とは言えません。我々が保有している『クロマトグラフィー』という新しい分離技術を応用すれば、将来的にはさらに純度を高め、より安全なものにできると考えております。これは、そのための、最初の一歩に過ぎません」
シュトラッサーは、レオナールの説明を、一切の口を挟むことなく、静かに聞いていた。その目は、目の前の若き才能の、その奥にある深い思想と倫理観を見定めようとしているかのようだった。
長い沈黙の後、シュトラッサーは、深く、そしてゆっくりと頷いた。
「……お見事です、レオナール公子」彼の声には、率直な感嘆の響きがあった。「その科学的な探求心もさることながら、私が最も感銘を受けましたのは、その倫理観の高さです。力を持つ物質の性質を深く理解し、その危険性を認識した上で、いかにして人々の苦しみを和らげるかという一点に集中する。その深い配慮。それこそが、真に癒やしの道に携わる者に求められる姿勢でしょう」
シュトラッサーは、立ち上がった。
「よろしければ、この施療院を、少しご案内いたしましょう。我々が、日々どのような『苦しみ』と向き合っているのか、公子にもご覧いただきたい」
案内された施療院の内部は、驚くほど清潔に保たれていた。高い天井の病室には、大きな窓から穏やかな光が差し込み、換気も十分に行われているようだった。ベッドに横たわるのは、ほとんどが骨と皮ばかりに痩せ細った高齢の患者たちで、その多くは自力で起き上がることもままならない様子だった。しかし、その顔に浮かぶのは、絶望だけではない。尼僧たちが、一人一人の患者に寄り添い、体を拭き、食事の世話をし、そして静かに祈りを捧げる姿。そこには、死を待つだけの場所ではない、人の尊厳を最後まで守ろうとする、静かで、しかし力強い意志が満ちていた。
「ここにいるのは、もはや治癒の見込みがなく、ただ苦痛を和らげることだけが、我々にできる唯一の救いである方々です」シュトラッサーは、静かな声で言った。「現在、この施療院には、痛みが特に強く、既にアヘンチンキを定期的に使用している方が、7名おられます」
彼は、一つのベッドを指差した。そこには、浅い呼吸を繰り返す、老婆の姿があった。その細く骨ばった手が、シーツを固く握りしめているのが見える。
「……レオナール公子。もし、公子のお考えが、本当にこの方々の苦しみを和らげるためのものであるならば…」
シュトラッサーは、レオナールに向き直った。その目は、最終的な判断を、目の前の若き研究者に委ねるかのように、静かに彼を見つめていた。
レオナールは、ベッドに横たわる患者たちの姿から、目を逸らさなかった。前世で、何度も見てきた光景。そして、母の最期。彼の胸に、医師としての原点が、熱く蘇る。
「シュトラッサー様」レオナールは、顔を上げた。その瞳には、揺るぎない決意の光が宿っていた。「臨床試験を始める前に、まず、その7名の患者さん全員を、私自身の目で診察させていただくことは可能でしょうか? 一人一人の状態を、正確に把握させていただきたいのです」
その言葉は、研究者としてではなく、一人の医師としての、真摯な申し出だった。