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血液内科医、異世界転生する  作者:
Principal Investigator
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第百話:白き結晶の価値、交渉への布石

アヘンから抽出された純白の結晶。それは、レオナールの研究チームが掴んだ、最初の、そして極めて重要な成果だった。動物実験によってその強力な鎮痛効果と、生アヘンを上回る安全性が示唆された今、次なるステップは、この成果をそれぞれの目的に合わせて報告し、具体的な行動へと繋げることだった。


特別研究科の研究個室。広大な執務机の上には、整然とベルク紙の束が置かれている。レオナールは木炭ペンを手に、二通の報告書を同時に、しかし全く異なる視点でまとめ上げていた。一つは、マルクスを通じて教会へ提出するための、医学的・倫理的観点を最優先した詳細な研究報告書。動物実験の結果、無菌性の証明、そして将来的な臨床応用への慎重な展望が、専門的かつ丁寧な言葉で綴られている。もう一つは、ファビアン・クローウェルに提示するための、より戦略的で、交渉材料としての価値を明確にした要約報告書だ。こちらでは、既存の鎮痛法に対する優位性、特に即効性と正確な用量管理の可能性といった、戦術的な利点が強調されていた。


「マルクスさん、こちらが教会へ提出する報告書の最終稿です」

数日後、レオナールは完成した報告書を、研究員として正式に活動を開始したマルクスに手渡した。その表情は真剣そのものだ。

「この報告書には、我々が抽出した結晶の無菌性試験の結果、動物実験における鎮痛効果の定量的データ、そして生アヘンと比較した際の副作用の軽減に関する考察を、可能な限り客観的に、そして詳細に記述しました。この結果をもって、教会に限定的な臨床試験の実施を働きかけていただきたいのです」

レオナールは、そこで一度言葉を切り、マルクスに視線を向けた。

「以前、ヴァルステリア領の診療所で診た患者さんのように、既存の治療法では手の施しようのない痛みに苦しむ方がいるはずです。マルクスさん、あなたの教会との繋がりの中で、例えば末期の病に苦しむ方々を受け入れ、痛みの緩和ケアを行っているような施設に心当たりはありませんか? もし、そのような場所で、既にアヘンを使用している患者さんにご協力いただければ、我々の新しい鎮痛薬の真価を、より安全な形で問うことができるかもしれません」


その提案に、マルクスは深く頷いた。彼の薬師としての経験と、教会とのネットワークが、まさにこの瞬間のためにあったのかもしれない。

「レオナール様、お任せください」マルクスは力強く応じた。「王都の大教会が直接運営しております、治癒が困難な方々が、せめて最期は安らかな時を過ごせるようにと設立された施療院がございます。 まさに先生がおっしゃるように、そこでは教会の厳格な管理の下、アヘンチンキを用いた鎮痛も行われております。まずは、この報告書をしかるべき部署に提出し、施療院の責任者の方に、この研究の意義を丁寧に説明してみましょう。患者様ご本人の強い希望と、ご家族の理解、そして教会の許可という高いハードルはございますが、おそらくそう悪くない反応が得られると思います」

「ありがとうございます、マルクスさん。その件、引き続きよろしくお願いいたします」


教会との交渉という、デリケートかつ重要なルートをマルクスに託したレオナールは、次なる一手へと移った。もう一通の報告書。これは、彼自身がファビアンに直接届け、説明する必要があった。

「ギルバート、ファビアン殿に面会を要請してくれ。アヘン研究について、重要な進捗があった、と」

ファビアンの返答は速やかだった。数日後の午後、今回も彼が研究棟まで出向くという。


約束の日、レオナールは物質科学研究センターの応接室で、ファビアンを一人で待っていた。やがて、扉が静かに開き、ファビアンがいつものように、感情の揺らぎを一切見せない、しかしその場を支配するような静かな圧力を纏って入室してきた。

「レオナール公子、待たせたな。して、報告とは?」

レオナールは、挨拶もそこそこに、完成した報告書をファビアンに差し出した。ファビアンはそれに目を通し始めると、その読む速度は驚くほど速く、数分で全てのページを読み終えてしまった。彼の関心は、科学的な詳細よりも、この発見がもたらす戦略的価値にあることが見て取れた。

「……なるほど。生アヘンからの有効成分の濃縮。そして、動物実験による明確な優位性の証明か。一月足らずで、ここまでの成果を出すとは、見事と言うほかない。この報告書は、単なる科学的発見の記録ではない。これは、交渉の場で相手の喉元に突きつける、鋭利な刃そのものだ」

ファビアンの言葉には、率直な称賛が込められていた。

「ですが、ファビアン殿。現物もご覧になりますか?」

レオナールが問いかけると、ファビアンの目がわずかに細められた。その視線は、レオナールの言葉の奥にある価値を探っているかのようだ。

「ほう、見せる準備があると?」

「はい。こちらへ」

レオナールはファビアンを、厳重に管理された薬品保管庫へと案内した。その一角に、ガラス製のデシケーター(乾燥保管器)の中に、純白の針状結晶が収められた小瓶が、静かに置かれている。

「これが、報告書にある『モルヒネ結晶』の粗精製品です」

ファビアンは、その純粋な輝きを放つ結晶を、全てを見透かすような瞳で黙って見つめた。それは、黒く粘り気のあるアヘン樹脂からは想像もつかない、化学の力によって生まれ変わった姿だった。

「そして、この結晶の最大の利点は、その投与経路の多様性にあります」レオナールは続けた。「この結晶は水溶性が高く、我々が滅菌処理した蒸留水に溶かすことができます。つまり……」

彼は、傍らに用意していた、自身が試作した滅菌済みのガラス製シリンジと注射針を手に取った。

「このように、注射器を用いることで、経口投与よりも遥かに速く、そして正確な量を、直接体内に投与することが可能なのです。皮下や筋肉内、あるいは血管に直接。これにより、緊急時の迅速な鎮痛や、より精密な用量管理が実現できます。これは、既存の薬草や、生アヘンをそのまま用いる方法では、決して真似のできない利点です」

ファビアンは、レオナールの説明を聞きながら、シリンジの針先と、純白の結晶を交互に見つめていた。彼の頭の中では、この新しい「薬」が持つ、戦場での、あるいは政治的な交渉の場での戦略的価値が、高速で計算されているのだろう。迅速性、確実性、そして効率性。戦場で求められる全ての要素を、この小さな結晶は満たしている。

やがて、彼は深く頷いた。

「……十分だ。いや、十分すぎる」

ファビアンは、レオナールに向き直り、その顔には確かな手応えと、交渉の成否を既に見通しているかのような戦略家の自信が浮かんでいた。

「この報告書、そしてこの現物。これだけ揃っていれば、アンブロワーズの代理人との交渉も、何とかなるだろう。彼らが喉から手が出るほど欲しているであろう、戦傷治療の未来。その可能性を、我々は確かに手にしているのだからな」

彼は、そう言い残すと、レオナールの肩を軽く一度叩き、踵を返した。

「後日、改めて連絡する。それまで、さらなる精製と、データの蓄積を頼む」

ファビアンが去った後、薬品保管庫には静寂が戻った。レオナールの手元には、まだ微量の、しかし計り知れない可能性を秘めた純白の結晶が残されている。この結晶が、外科医療への道を切り拓くための、鋭い刃となるのだろうか。

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