第十話:探究の場
王立学院での生活にも慣れ、図書館での文献調査と並行して、レオナールは次なる行動に移る準備を進めていた。彼の目標達成に不可欠な、化学——この世界で言うところの物質の成り立ちと変化の法則——の基礎を学ぶため、そして可能ならば前世の知識を応用・検証するための場として、ターナー教授の研究室は最も有力な候補だった。従者ギルバートが集めてくれた情報によれば、教授は「変わり者」との評判だが、その研究内容はレオナールの求める方向性に最も近そうだった。
(よし、行ってみよう。変わり者、結構じゃないか。本物の探求者というのは、いつだって少し風変わりなものだ)
決意を固めたレオナールは、ある日の午後、授業が終わると図書館には向かわず、ギルバートに場所を確認した、学院の敷地の隅にあるという古い実験棟を目指した。その建物は、華やかな講義棟や寄宿舎とは対照的に、煤けた石造りで、蔦が壁を覆い、どこか忘れ去られたような雰囲気を醸し出していた。中からは、時折、奇妙な音や異臭が漏れ聞こえてくることもあり、他の学生たちはあまり近寄らない場所のようだった。
いくつかの研究室が並ぶ薄暗い廊下を進み、一番奥にある「ターナー研究室」と記された古びた木製の扉の前で、レオナールは立ち止まった。扉には「訪問者歓迎(ただし邪魔はするな)」という、いかにもな注意書きが貼られている。深呼吸を一つして、彼は意を決して扉をノックした。
「……入ってくれたまえ。鍵はかかっておらん」
中から、少ししゃがれた、ぶっきらぼうな声が聞こえた。レオナールは静かに扉を開け、一歩足を踏み入れた。
部屋の中は、噂に違わず混沌としていた。壁一面の本棚には、羊皮紙の巻物や分厚い書物が無造作に詰め込まれ、床には用途不明の金属部品や鉱石が転がっている。実験台の上には、複雑な形状のガラス器具や、錬金術師が使うような蒸留装置、そして火を起こすための魔道具などが所狭しと並べられ、独特の薬品臭と埃っぽさが混じった空気が漂っていた。
部屋の奥の机では、白衣を着た初老の男性が、丸眼鏡を額に押し上げ、何やら焦げ付いた金属片をピンセットでつまみ上げながら、難しい顔で唸っていた。彼がターナー教授本人だろう。歳は50代半ばだろうか、白髪混じりの無精髭を生やし、服装も白衣の下は着古したシャツとズボンで、お世辞にも身綺麗とは言えない。しかし、その丸眼鏡の奥の瞳は、鋭い知性の光を宿していた。
レオナールは、教授の研究を邪魔しないよう、入り口で静かに声をかけた。
「失礼いたします、ターナー先生。1年生のレオナール・ヴァルステリアと申します。先生の研究について伺い、ぜひお話を伺いたく参りました」
教授は、金属片から顔を上げ、レオナールをじろりと見た。その視線は、値踏みするようであり、同時に面倒くさそうでもあった。
「ほう、君がヴァルステリアの……辺境伯のところの、例の『物知り小僧』かね?こんな辺鄙な研究室に何の用だ?ここには、君のようなお坊ちゃんが喜ぶような魔法や、ましてや立身出世に繋がるような研究など、何もないぞ」
どうやら、レオナールの噂(あるいは、彼が様々な分野の情報を集めていること)は、すでに一部の教授の間にも伝わっているらしい。
「『物知り』など、とんでもない。私はまだ何も知らないに等しいのです」レオナールは謙虚に、しかし臆することなく答えた。「ですが、だからこそ学びたいのです。従者が集めた資料や学院の案内で、先生が『気体の性質と反応』という、物質の根源に関わる重要な研究をされていると知りました。私自身、物が燃える原理や空気の正体、物質が変化する際の法則といったことに強い関心があり、先生の研究内容に非常に心を惹かれた次第です」
彼は、言葉を選びながら続けた。
「もし、先生さえよろしければ、この研究室で、先生の研究のお手伝いをさせていただくことはできないでしょうか?もちろん、専門的な知識も技術もありません。ですが、学ぶ意欲だけは誰にも負けないつもりです。掃除でも、雑用でも、何でもいたします。どうか、この知の探求の場に、末席でも加えていただけないでしょうか」
深々と、頭を下げる。貴族の子息としては異例の頼み込みだが、彼の熱意と真剣さは、言葉の端々から伝わるはずだった。
ターナー教授は、しばらくの間、黙ってレオナールのつむじを見つめていたが、やがて、ふう、と一つため息をついた。
「……頭を上げなさい。ヴァルステリアの者が、そう易々と頭を下げるものではない」
レオナールが顔を上げると、教授は少し呆れたような、しかしどこか面白そうな表情をしていた。
「ふん。私の研究の重要性が分かるとは、やはり物好きな小僧だ。他の学生どもは、もっと派手な魔法や、金儲けになる錬金術にしか興味を示さんというのに」
彼は、顎髭を撫でながら、再びレオナールを見た。その目には、先ほどまでの面倒くさそうな色は消え、純粋な研究者としての興味が浮かんでいた。
「君の話を聞く限り、単なる貴族の物好きというわけでもなさそうだ。その熱意は買うことにしよう。それに、この雑然とした研究室を片付けてくれる者がいるなら、正直助かる」
教授は、ニヤリと笑った。
「ただし、言っておくが、手取り足取り教えるつもりはないぞ。見て、考えて、自分で盗め。私の研究の邪魔だけはするな。……それでも良いというなら、好きに出入りするがいい」
「はい!ありがとうございます、ターナー先生!」
レオナールは、喜びを隠しきれない声で礼を言った。正式な弟子というわけではないだろう。だが、この知の探求の最前線に身を置くことを許されたのだ。それだけで、大きな一歩だった。
その日から、レオナールの学院生活に、新たな日課が加わった。午後の自由時間になると、彼は図書館へ行く前に、まずターナー教授の研究室へ顔を出すようになった。
最初の仕事は、教授の言った通り、雑用だった。床に散らばった鉱石や金属片を種類ごとに整理し、埃まみれの棚を拭き清め、山積みになった羊皮紙のメモをテーマ別に分類する。実験器具の洗浄や、薬品(その多くは彼にとって未知のものだった)のラベルを確認しながらの補充、そして教授が実験で使う奇妙な装置の簡単な清掃とメンテナンス。それは、地味で骨の折れる作業だったが、レオナールは少しも苦にはしなかった。
むしろ、彼はその作業を楽しみながら行っていた。研究室にある全てのものが、彼にとっては未知の知識の宝庫だったからだ。見たこともない鉱石の結晶構造を観察し、様々な薬品の性質(色、粘度、匂い——安全には最大限配慮した)を記録し、複雑なガラス器具の用途を推測する。教授が書き殴ったメモの断片からは、彼の独創的な思考プロセスや、この世界の物質観(四大元素論に囚われない、独自の考察)の一端を垣間見ることができた。
教授は、相変わらず自分の研究に没頭しており、レオナールに細かく指示を出すことはなかった。だが、レオナールが作業の合間に、研究内容について的を射た質問(例えば、「先生、この鉱石を加熱すると、なぜ元の重さよりも軽くなる場合と重くなる場合があるのでしょうか?」など、酸化・還元を示唆するような質問)をすると、面倒くさそうな顔をしながらも、「それはだな……」と、自身の仮説や考察を語ってくれることもあった。
「おい、小僧。そのフラスコを洗っておけ。前の実験の残留物がこびりついておる」
「はい、先生。ところで先生、先ほどの実験で発生したあの無色透明の気体ですが、もしかして、空気そのものにも同じ成分が含まれている、ということは考えられませんか?」
「ふむ……空気の成分、か。古来より空気は単一の元素『風』とされてきたが、私も最近、どうもそうではないのではないかと疑っておるのだ。あの気体は、物を激しく燃やす性質があるようだしな……あるいは、空気とは、あの『燃やす気体』と、燃えもせず生命も支えぬ『不活性な気体』の混合物なのかもしれん……」
雑然とした研究室で、目を輝かせながらフラスコを磨くレオナールの姿があった。彼の新たな探求——異世界の化学の謎を解き明かし、魔法と医学を融合させるための地道な努力が、この王都の片隅で、確かに始まっていた。それはまだ、ほんの小さな一歩に過ぎなかったが、彼の胸には、未来への確かな手応えと、尽きることのない知的好奇心が満ち溢れていた。