第三十三話 クーサの魂
ケイヴァーンが剣を掲げるのを、デルカシュは不思議な気持ちで見つめていた。
彼女が見てきたケイヴァーンは、一人で歩くのもままならない衰えた老人の姿であった。
だが、いまや神殿長は、一人で立ち上がって民衆の歓呼に応えている。
ティグヘフが自信ありげだったのは、初めからこれを狙っていたからなのか。
奇蹟は待つものではない、手繰り寄せるものだと、三十年前のケイヴァーンが出陣のときに言っていた。
ザーミーンとティグヘフは、まさにその通りのことをしてのけたのだ。
「ガザーレフとアーラームはどこじゃ。わたしの両腕は」
よろける気配もなく、ケイヴァーンは堂々と威風を放っていた。
そして、クーサの武の要である二人の傭兵部隊の隊長を呼んだ。
いきなり彼らを呼ぶとは思っていなかったデルカシュは、驚きのあまり言葉を失った。
(二十は若返ったように見える。どうなっているんだね)
デルカシュが啞然とする間に、ティグヘフが貴賓席の下に合図を送る。
暫くすると、一組の男女が貴賓席に上がってきた。
「お呼びですか、神殿長」
「爺さん、いきなり若返ってないすか。どうなってんのこれ」
恭しい態度の中年の男と、あまり作法を知らなさそうな若い女性。
三十年前の経験がない新しい傭兵たち。
アーラームはクーサの下級神官から傭兵に転じた男であり、ケイヴァーンにも深い尊崇の念を抱いている。
デルカシュとも知己の仲であり、互いに協力することも多い。
だが、ドスターヴから流れてきた盗賊上がりのガザーレフとは、デルカシュはあまり相性はよくなかった。
「クーサの長ケイヴァーンが命じる」
ケイヴァーンが高く掲げた剣を下ろすと、その平を撫でる。
その動作に淀みはなく、剣の重さも感じていないようである。
「出陣じゃ。ティラーズの要請に応じ、クーサは再び北に兵を出す。部下を集めよ。出立は一週間後。準備においては、デルカシュの協力を仰げ」
「はっ。かしこまりました。ただちに準備に取りかかります」
「あたしらは、いつでも行けるよ。準備なんか、とっくにできてるさ。傭兵と盗賊は、思い立ったらすぐ行動するもんじゃん」
ケイヴァーンの命令に、傭兵たちが答える。
待っていた光景ではあるが、感激よりも違和感が大きい。
何が、ここまでケイヴァーンを動かしたのだろう。
衰え、無気力になった老人。
もう一度奮い立たせるのは、不可能だと思っていた。
だからこそ、出兵しないで済むように言い訳の種を作っていたのだ。
そのケイヴァーンが、鎖から解き放たれたかのように生き生きと動き始めている。
「気を使いすぎたんですよ、デルカシュ殿」
デルカシュの隣で、この芝居の首謀者が笑っていた。
「みな、あの方を老いた方だと腫れ物を触るように扱った。そんなの失礼じゃないですか。ケイヴァーン殿は、王国軍をまとめ上げて王都奪還に動いた紛れもない英傑。その精神が、そう簡単に消え去るはずがないんですよ」
「だが……、実際立ち上がることはできなかった」
「クーサの民が、そうさせていたのです。優しい鎖で、あの方を縛り上げていた。だから、わたしはその鎖をぶち切って、眠っていた感情を叩き起こした」
「──荒療治が過ぎるんじゃないかい……」
「荒療治が適切な治療法だったのです。一度目が醒めれば、あの方は自分で動き出し始める。それだけの力量をお持ちだ」
そうかもしれない、デルカシュは認めざるを得なかった。
ケイヴァーンを尊敬していた。
だから、沈み込む彼を刺激してはいけないと思った。
それが、傷ついた彼を守るために必要なことだと考えた。
だが、間違っていたのは、自分だった。
自分は、あのケイヴァーンを侮ったのだ。
もう立ち直れないと、判断してしまったのだ。
ケイヴァーンは聡い。
当然、周囲がどう思っているか察しただろう。
決して、快くはなかっただろう。
もう英雄ではないと民から突きつけられたと思ったかもしれない。
「──あたしが、ケイヴァーン様の足枷になってしまっていたのかい」
デルカシュは、地響きを立てて絨毯の上にへたり込んだ。
才智を誇っている身としては、受け入れ難い現実。
だが、それも長くは続かない。
ふふ……ふふふと低い声でデルカシュは笑い声を漏らした。
「確かに、あたしが間違っていた。感謝するよ、ティグヘフ。そして、あたしが座り込んでいる場合じゃない。そうだろう?」
「はい。いまケイヴァーン様の前進を支えられるのは、貴女だけです、デルカシュ殿」
「任せな」
デルカシュは巨体を起き上がらせると、勢いよく立ち上がった。
そして、気づく。
ケイヴァーンが、自分を見つめていることに。
「デルカシュ、わたしの目」
神殿長の言葉に、責める気配はなかった。
「一週間後に兵を出す。可能か?」
「お任せください、神殿長。このデルカシュ、クーサの名誉にかけて用意してみせます」
クーサの名誉。
そう、クーサは王国でも常に他の都市を導いてきた誇り高い都市なのだ。
その軍が出陣するというときに、補給に不安があるなどという恥ずかしい真似はできない。
自分はどれだけ神殿長に恥をかかせてきたのか、とデルカシュは頭を深く下げた。
ケイヴァーンは、そんなデルカシュに慈愛のこもった眼差しを向ける。
そして、再び剣を掲げると観客席の民衆に向けて高々と掲げた。
「クーサの民よ、わたしは再び前に進むことを約束する。だが、わたしは一度敗れた身じゃ。みなの先頭に立つのはふさわしくない」
ケイヴァーンの言葉に、観客席からは戸惑いの気配が漂ってくる。
再起の喜び、そしてやはりという悲しみ。
神殿長が何を言い出すのかという不安。
デルカシュも、心臓をぎゅっと握られたような気持ちになる。
「だが、安心するがいい。今宵、わたしを導いたのは、新たなる指導者じゃ。かの英雄エスファンディアルと太陽神の巫女イラの子にしてアレイヴァのファリドの姉、王国を護るもの、その名はザーミーン、時を超えし女神の使者!」
ケイヴァーンの剣が、舞台上のザーミーンに向けて捧げられる。
少女は微笑むを浮かべ、右手を差し出した。
剣は宙に浮かぶと、ザーミーンに向かって飛翔する。
飛来する剣を受け取ったザーミーンは、剣に輝きを与えると再びケイヴァーンに向けて送り返した。
その剣を、ケイヴァーンはまた高々と掲げる。
「クーサは守護者に続く! 蘇りし我が剣は、ザーミーンとともに輝くじゃろう。そして、その切っ先は、今度こそセパーハーンに巣食う侵略者どもに届く!」
凛として宣言するケイヴァーン。
デルカシュは、胸が熱くなった。
この光景が見たかった。
その思いが、心の奥から湧き出てくる。
失っていたのは、クーサの誇り。
心を折られていたのはケイヴァーンだけじゃない。
自分たちもなのだ。
「使いますかい」
ティグヘフが、そっと手巾を差し出してくる。
デルカシュは、自分が涙を流していることにやっと気づいた。
手巾を受け取ると、泣き笑いのような表情を浮かべる。
「あんた、いい男だね」
「誰にでもじゃないですぜ」
「そんな言葉には騙されやしないよ」
クーサの魂が戻ってきた。
ならば、今度は身体が動かねばならない。
デルカシュは、かつてないほどの気迫で、自分の両頬を勢いよく叩いた。




