第三十一話 開幕
一週間後。
劇場には、クーサの住民が押し寄せていた。
不景気のせいか、最近は空席も目立っていた劇場の席。
それが、今日は満員御礼である。
一週間の公演予定が中止となり、券の払い戻しすら行ってまで変えた新しい演目。
それは、クーサのかつての定番であった。
賢者の戦い。
三十年前の王都奪還戦を題材とした演目である。
ケイヴァーンを主役とする戯曲であり、クーサ住民の人気は高かったが、最近公演されることはなかった。
ケイヴァーンが、自身の敗戦の作品を好まなかったのである。
本来の演目を変えてまでティグヘフがこの題材を選んだ理由が、ボルールにはわからなかった。
デルカシュとの交渉の後、ティグヘフは劇団と話を付け、一週間後の演目を変えさせた。
それだけでなく、ザーミーンを連れて劇団に行ったっきりになってしまったのである。
オミードとボルールは、宿で無聊をかこつしかなかった。
暇があれば剣を振るっていればいいオミードと異なり、ボルールはやることがない。
仕方がないのでクーサの街中を出歩き、いまの都市の状況調査という名目の食べ歩きを行なっていた。
むろん、抜かりなくオミードにもお土産を渡してある。
「あの二人、何をやっていたのか、わたしにも言わないのよね」
劇場の貴賓席には、ケイヴァーンとデルカシュが陣取っている。
隣にはティグヘフがいるが、ザーミーンの姿はない。
本来、客を迎える招待主はザーミーンである。
客が来ているのに招待主がいないとはどういうことか。
ボルールは気が気でなかった。
「ケイヴァーン老、あまり機嫌いい感じではないな」
オミードとボルールは、貴賓席ではなく二階席の一角に座っている。
下級神官の二人は、同席する立場ではないのだ。
フィルーズの正使は上級神官であるザーミーンなのだ。
その肝心のザーミーンがいない。
ケイヴァーンが不審がり、機嫌悪くなるのも当然である。
「何やっているのかしら。もう始まるわよ」
「ま、ティグヘフがいるんだ。任せれば大丈夫だ」
オミードの友人への信頼が篤い。
それだけ二人の絆が固いということであるが、ボルールは彼が頭を使いたくないだけではないのかと密かに疑っていた。
開幕の銅鑼が鳴り響いた。
この劇の構成は、四幕から成り立っている。
王都の民の苦境に心を痛めるケイヴァーンが出陣を決意する第一幕。
各都市の神殿長を集め、出陣を命令する第二幕。
クーサからケイヴァーンが出陣し、王都南で各地の軍と合流する第三幕。
異形の軍と激突し、皇帝の横槍で敗走する第四幕。
べバールの奮戦で生還したケイヴァーンが、クーサにたどり着いて女神に祈りを捧げるところで終幕となる。
敗戦の重みに耐えかねているケイヴァーンが、見たいと思う内容ではなかった。
主役のケイヴァーン役は、一座の座長であるザカリヤーが演じていた。
重厚な存在感と深い演技力がひときわ光っており、さすがと思わせる。
クーサでの人気も高く、観客から歓声も上がっていた。
この観客たちは、今日ケイヴァーンが観に来ることを知っていた。
ティグヘフが、意図的に噂をばら撒いていたのである。
お陰で今日の公演の券は高騰し、劇場の前には入れなかった客が詰めかけているような状況であった。
これだけ盛り上げた結果が、失敗したでは済まされない。
ボルールは両手を握りしめて女神に祈った。
幸い、今のところ観客の受けはいい。
「べバールだ」
オミードの呟きの通り、舞台にはべバールが登場していた。
べバール役は、クーサでも一番人気の若手俳優が当てられている。
登場するだけで、観客席から黄色い声が上がった。
最前列に陣取っているのが、その役者を贔屓にしている女性たちらしい。
王都に潜入したべバールが、状況の報告をケイヴァーンに行う。
その悲惨な内容は、ケイヴァーンの眉を曇らせた。
場内の灯りが落とされ、光魔法による照明が舞台のケイヴァーンに集中する。
このやり方は新しく、観客たちを驚かせた。
「──これ、ザーミーンがやっているのよね」
「高度な光魔法をこれだけ巧みに操れるのは、彼女だけじゃないか?」
姿は見えないが、、ザーミーンがいるのは確かなようだ。
ボルールは、少しだけ安堵する。
照明を浴びたケイヴァーンの独白の後、舞台は第二幕へと移った。
当時は十都市会議はまだなく、ケイヴァーンが各都市の神殿長に強い権限を持っていた。
クーサの神殿に集った神殿長たちは、ケイヴァーンの出陣の命に異論を唱えない。
いまの十都市とは、えらい違いである。
中でも、ケイヴァーンが頼りにしていたのが、フィルーズとファリドである。
ケイヴァーンの直弟子であり、ティラーズの神殿長のフィルーズ。
英雄エスファンディアルと太陽神の巫女イラの子であり、アレイヴァの神殿長のファリド。
ケイヴァーンにとって、この二人は両翼であった。
ファリドは経験によってケイヴァーンに助言を与え、フィルーズは各都市との調整を担う役割である。
(フィルーズ様、昔から調整役だったのね)
叡智と学識で人望を集めるケイヴァーンは、神殿長たちに支配的である。
ともすれば反感を買いかねないのだが、そこをフィルーズがうまく補佐していた。
三幕に移り、クーサをケイヴァーンが出陣する場面に移る。
ボルールは、ちらりと貴賓席に視線を移した。
舞台を見つめる老神殿長の目は、感情を呼び起こされたようには見えない。
老いてくたびれきったケイヴァーンの現実と、凛々しく覇気溢れる舞台の姿が対照的で、惨めであった。
ボルールは、思わずケイヴァーンから目を逸らした。
この舞台は、失敗ではないか。
そんな疑念が、頭の隅に湧き上がってくる。
事実、あの老人はもう陣頭指揮を取れるような若さはないだろう。
歩くのもままならない老人に、剣を取れというのは無謀である。
ティグヘフは、何を考えているのか。
本当に、これでうまくいくと思っているのだろうか。
「見ろ、あの兵士、ザーミーンだ。兜をかぶっているが、歩き方でわかる」
オミードが、ケイヴァーンに従って出陣する兵士の一人を指差した。
確かに、一人小柄な兵がいる。
顔は、兜で隠れていて見えない。
オミードは、よくあれでザーミーンだと看破できたと感心する。
(まあ、こいつは変態だから……)
歩き方なんかで見分けられるとか、どんな観察力だろう。
しかし、ザーミーンが登場するにしては、地味な役割である。
もっとも、彼女は役者ではないし、演技などもできないだろう。
そう考えれば端役で当たり前なのだが、一体何を狙っているのか。
「舞台で転んだりしないでしょうね、あの子」
「大丈夫だ。ザーミーンはお前より勘がいい」
ザーミーンが、優れた運動神経を持っていることなどわかっている。
そんなことを超越して、あのおのぼりさんは何かをやらかしそうな雰囲気を持っているのだ。
安心したのも束の間、ボルールは別な意味で心配をし始めた。




