第二十八話 闇の血
オミードの寝息が聞こえてくる。
闇の中、ティグヘフはそっとまぶたを開く。
何者かが、自分に接触してきている。
その感覚に、眠りを妨害された。
闇の魔術を使った接触。
音もなく身を起こすと、ティグヘフは寝台から降りた。
気配だけで目を醒ますオミードであるが、ティグヘフの消音の技術はそれを上回る。
そっと部屋を抜け出すと、灯りも消えた夜の街へと歩き出した。
すでに、大路にも人影はない。
どの店も閉まり、月だけがほのかに輝いている。
夜の闇の中を、幽鬼のようにティグヘフは歩いていく。
大路から横へと入る。
華やかな建物が減り、伝統的な日干し煉瓦の街並みになる。
さすがにクーサといえども、全ての建物を近代的にすることはできない。
裏道に入れば昔ながらの街並みが広がっている。
人気のない夜の小路で立ち止まる。
月明かりに伸びた影が、静かにティグヘフに付いてきていた。
「──おれに用か?」
誰何の声が、闇の中に消える。
人の気配はない。
だが、ティグヘフにはわかっていた。
濃密な闇の魔術の匂い。
そして、ティグヘフの足下の影がゆっくりと起き上がる。
(──ティラーズにいると思っていたからな。捕まえるのに時間が掛かったじゃないか)
影の口が動き、ティグヘフに不満をぶつけてくる。
剽げた口調に、ティグヘフは氷のような眼差しを向けた。
「──ネストルか。おれになにか用か?」
(もう少し敬意を払ってくれてもいいんじゃないか、ティグヘフ。兄上と呼んでくれてもいいんだぞ)
電光のように短剣が抜かれ、影が斬り裂かれる。
だが、ふたつに分かれた影はけたけたと笑いながら融合し、わざとらしく胸を撫でた。
(ひどいことをするなあ、弟よ。これでもわたしは、父上と違っておまえを認めているんだぞ)
影の言葉は、親しげですらある。
だが、ティグヘフの反応は冷ややかであった。
「消えろ。おまえもハダスも、おれの前に現れたら殺す。やつにもそう伝えておけ」
殺意を込めた視線を浴びても、影は揺るぎもしない。
ただ、静かな嘲笑が、ティグヘフの頭に響いた。
(父上が、巫女の娘を所望だ、弟よ。わたしに手を貸せ。そうすれば、ヴァシリオスの部下を二人斬ったことは見逃してやる)
ネストルが、用件を切り出す。
その言葉を聞いたティグヘフの目は、より一層殺意を帯びた。
「──やはり、あれはヴァシリオスの部下か。カーバーザルト砦は、マージドの支配領域。そこにハダスの手の者がいるのはおかしいと思っていた。ザーミーンを狙っているのは、マージドではなく、ハダスなんだな」
(父上の行動理念は、常にひとつ)
影から嘲笑の気配が消え、畏怖が漂ってくる。
ネストルもまた、ハダスの力を恐れているのだろう。
だが、ティグヘフにとっては違う。
(光と闇の御子が、大陸を統治する。それは、神の示した確定した未来なのだ。父上は、その未来に向けて歩んでいるに過ぎぬ)
光と闇の御子。
ハダスの行動のすべてが、その実現であることは知っている。
だから、密かにセパーハーンを脱出して生き延びたアカーマナフ王家の生き残りの子孫もまた探し出され、ハダスの手に落ちていたのだ。
「──ふん、おれもおまえも、所詮やつにとっては失敗作と言うわけだ」
ハダスが、自分を失敗作と言っているのは知っている。
侮蔑を込めて、あの男は母に向けてそう告げていた。
失敗作を生むとは、役に立たぬ、と。
(一緒にしないでほしいものだな。闇の魔術しか使えぬおまえと違い、わたしはアティケイ王家の雷の魔術も受け継いでいる。アカーマナフ王家の大地の魔術を受け継げなかったおまえとは違う)
ティグヘフの顔から、笑みが消える。
この男もまた、結局自分を侮っている。
わかっていたことだが、だからと言って許せるものではない。
短剣の刃が黒く染まっていくと、影もなだめるように口調を変えた。
(よせ、よせ。影斬りは実体にも影響が出る。そう殺気立つなよ弟よ)
「コスタスとアミュンタスは、おれが斬った。次に来るのはおまえというわけか、ネストル。アティケイ王国から出てくるとは思わなかったが、来るならば殺す。ハダスとやつの部下の魔術師は、全ておれが葬り去る」
(母親が死んだこと、まだ恨んでいるのか)
黒い閃光がきらめく。
闇の魔力で覆われた刃が、影に突き立った。
瞬間、崩れるように影が消えていく。
(──また会おう)
頭の中に声の余韻が響く。
元に戻った影が、月明かりに伸びていた。




