第二十四話 預言者と巫女
「カーバーザルト砦が落ちただと」
闇の塔。
それは、セパーハーンの北にそびえる王都で最も高い尖塔の名前である。
かつては光の塔と呼ばれ、太陽神の巫女と言われた古代種の女性が居館としていた。
だが、白大理石で作られた壁は、いまや闇の魔力で全て黒く塗り替わっていた。
夜そのものが存在しているかのような漆黒の塔は、いまは王都に住む人間たちの恐怖の象徴にもなっている。
預言者ハダスは、麾下の黒衣の魔術師の一人ヴァシリオスにこの闇の塔の管理を任せていた。
セパーハーンの民から最も憎まれているのは治安隊長のクタイバだが、最も恐怖されているのがこのヴァシリオスである。
クタイバは、人間の中に裏切者を潜ませ、反乱分子を捕まえては黒の塔に収監している。
ヴァシリオスはクタイバほど人間を攫いはしないが、攫われた人間は魂まで双角神への生贄に捧げられるという噂があった。
そんな王都の民の恐怖の象徴であるヴァシリオスであったが、今日の彼はそんな評判とは裏腹に非常に憂鬱であった。
彼の主君の居室にて、極めて悪い報告をしなければならない。
こんな報告を上げたら、主君は激怒するだろう。
彼は人間としては類まれなる才能を持つ魔術師であったが、それでも主のハダスには遠く及ばなかった。
「マージドの無能め。砦の防衛も指示できんのか。まあ、いい。この地域の担当はマージドだしな。それより、ザーミーンは現れたのか? 貴様の部下を派遣していたのだろう」
「は、ははっ、それが……」
言い淀むヴァシリオスを見て、ハダスの眉が跳ね上がる。
額に青筋が浮き上がってくるのが、目に見えるようだ。
「どうやら、無能はマージドだけではないようだな。それで、ザーミーンは取り逃がしたのか?」
「はっ、カーバーザルト砦には精鋭二名を派遣していたのですが、両名とも死亡が確認されております」
「腐っても聖衛隊の一員だぞ。誰を派遣していたのだ。──ああ、あの二人か。確かに、人選は悪くないが、投入した人数が少なかったな」
ハダスの冷ややかな目がヴァシリオスに突き刺さる。
冷や汗をかきながら、魔術師は平伏した。
「本国から、追加で精鋭十名を呼び寄せます」
「うむ。それと、ザーミーンが匿われたのは、確かティラーズだったな。あそこには、例の失敗作がいたはずだ。あれも使え」
「王家の生き残りに生ませた御子のなり損ない……ですか?」
「ああ。王家の血筋ならあるいはと思ったが、闇の魔力しか受け継がなかった。やはり、光と闇の御子を生めるのはザーミーンしかいない。神託は絶対だ」
ハダスの視線が、ヴァシリオスの後ろへと向けられる。
氷のような眼差しに、ヴァシリオスの肝も氷点下まで下がる。
自分がいま跪いている場所の後ろには、ヴァシリオスも製作に携わっていたあのプールがある。
広さは、二十人くらいの人間が入っても余裕なくらいだ。
そして、そのプールは厳選された人間たちから搾り取った新鮮な血液で満たされていた。
(あの女も、よく保つ)
天井から鎖で吊るされた全裸の女性が、その血のプールに沈められていた。
ハダスが見ているのはその女性、すなわちイラである。
「古代種は繁殖力が弱い。百年経っても子は成さぬし、屈しもせぬ。強情なものよ。闇の魔力を溶かした魔血に浸かれば、並の人間なら一日で屈服するものを」
ハダスは西方で、この方法で敵対する人間を従属させてきた。
黒衣の魔術師は、みなこの方法で双角神に転向した者たちである。
「エスファンディアルはよく二人も子を作ったものよ。さすがは英雄。夜も強者ということか。わたしでは、古代種を孕ませることはできなかった。だが、ザーミーンは人間の血も入っている。わたしでも、子を作ることはできるであろう。そうであろう、イラよ」
座ったまま傲岸に語りかけるハダスの声が聞こえたか、ゆっくりとイラが顔を上げた。
肩まで赤黒い血に浸かり、むせ返るような闇の血の臭いに曝されながらも、その目は凄絶に美しかった。
「──────!」
「ああ、そういえば舌を抜いていたのであったな。それでもまだ屈さぬとは。双角神に帰依すれば、治してやると言っているのに」
呆れたものだとハダスが嘆息する。
唇を噛み締めたイラは、それでも何かを耐えるように目を閉じる。
憎悪に呑まれれば堕ちるのも時間の問題なのだが、どんなに崩されてもこの女の自制心は強固であった。
鉄のような心に、ヴァシリオスも心の中で感嘆する。
西方には、これほど心の強い人間はいなかった。
「ヴァシリオス、補充の十人はネストルに率いさせよ。あれにも、そろそろ役に立ってもらわねばな」
「ネストル様をお呼びなされるので」
ハダスは、西方で征服したアティケイ王国の王家の娘に、何人も子を生ませている。
その子の中で、最も成功したと言われているのがネストルであった。
類まれな武勇に雷と闇の魔術。
闇の魔術の力量では負けるとは思わないが、剣の腕ではヴァシリオスも敵わない。
彼を呼ぶとは、ハダスも相当に本気なのであろう。
「ザーミーンが次に来るのは、カーシー砦のラーカーンのところであろう。マージドが唯一皇帝から借り受けた魔鎧騎士であれば、ティラーズの人間どもに遅れは取るまい。ネストルが強襲する隙も出よう」
「ははっ。早速手配致します」
ハダスは立ち上がると、ゆっくりと歩き始めた。
思わず、ヴァシリオスは身体を強張らせる。
油断をすれば、自分とていつ殺されるかわからない。
恐怖こそが、ハダスが部下を統治する支配の根源である。
同じ殺しでも、勝利のために殺すラエド、力の誇示のために殺すマージドとは違う。
ハダスは、相手に恐怖させるために殺すのだ。
「──まだ光の魔力が尽きていないようだな」
ハダスが向かったのはヴァシリオスのもとではなく、イラの側であった。
魔術師は内心安堵し、僅かに肩の力を抜く。
そして、俯いたまま沈黙する太陽神の巫女に目を向けた。
イラの身体は僅かに輝いていた。
それが、闇の血が肌に染み込むのを防いでいる。
古代種は強靭な種族であるが、それにしても驚嘆するほどのしぶとさだ。
ハダスはイラの顎を右手でつかむと、強引に顔を上向かせた。
「おまえの目の前に娘を連れてきてやるぉ、イラ。泣き叫ぶ娘を見て、どこまでその強がりが続くかな。くくく──ははははは!」
笑いながら短剣を引き抜くと、ハダスはイラの肩を斬り裂いた。
たちまち、赤い血が流れ出す。
左手をかざすと、その血が宙を飛び、ハダスに吸い寄せられていった。
ハダスは瑠璃の杯を出すと、一杯になるまでその血で満たした。
「──いい香りだ。さすがは古代種の巫女。長年生きているが、これだけ芳醇な血を持っていた者は他にいない」
杯を傾けると、ハダスは美味そうにその血を飲み干した。
本来、光の魔力に満ちたイラの血は、闇の魔術師には毒である。
ヴァシリオスでは、この血を飲むことはできないだろう。
だが、ハダスほどの闇の魔力を持っていれば、イラの血ですら力に変えることができる。
恐怖に震えながら、ヴァシリオスは頭を床にこすりつけた。




