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恋の爪痕

「どうして俺を置いていこうとしたんだ?――ユルシュル、そんなに俺のことが嫌いか?」

 ユルシュルは深いため息をついた。横で図々しく手を取り悲惨な事件の被害者のように悲しそうな顔をする男のせいだった。

「……さあ?」

 曖昧な返事をして、ユルシュルは男を睨みつけた。

 ――昔、ユルシュルは随分と惚れっぽかったが、他の女と違うのは惚れた男に冷たくされて冷めた後、その男がユルシュルに執着してくるところだった。

 彼女の夫が一番よい例だった。ユルシュルは彼の繊細な色味の紫水晶(アメジスト)のような瞳を見て一目で恋に落ちてしまったが、ある時から急に冷たい態度を取られてしまったのだ。昔の男と同じかと思い、彼の態度に翻弄され勘違いしていたことが恥ずかしくてしょうがなかったのを覚えている。

 ()()()()元婚約者は彼の幼馴染みだった。どうも最初は疎遠になった彼と話す口実のために手伝っていたようだったが、だんだんとそれはユルシュルと話すための口実にすり替わっていった。

 初めて先に惚れられた男だった。運命だったと、今思い返しても思う。今までと全く違う恋愛だった。それこそまるで夢のようで、そして、夢のごとく消え去ってしまった。

 目が覚めるといつもこの男が目の前にいる。

「頼む、こちらを向いてくれ」

 何度も懇願して泣く惨めな姿を見たが、まだ足りない。もっとみっともない姿を晒して、そしてその姿を死んだギュスターヴにも見せなければならない。

「いいえ、エヴラール」

 この男は異常だ。ただの小娘に執着して無辜の両親を脅し、そしてギュスターヴを、殺した。

「あなたはいつまでも愚かね。あなたのことなんか頭になかったわ」

「…………」

 ユルシュルは決して目を逸らさないエヴラールにうんざりしてより深いため息が漏れた。

 忌々しいこの紫がいつも視界にちらついて苛つかせる。美しいオリーヴはいつの間にか汚染されてしまった。

 いつも優しく見つめてくれたギュスターヴは、エヴラールが無理矢理ユルシュルを娶ろうとする可能性を危惧していた。生真面目で優秀そうななりをしているが、本当は愚か者だと教えてくれた。手段を問わず無茶な方法を使ってくるだろうから気を付けてと、言った本人こそ気を付けるべきだったのに。あの男は子爵邸にわざわざ赴いて聞きたくもない死体の詳細を嬉々として(つぶさ)に話した。すぐに察した。こいつが彼を殺したと。

「……今、あいつのことを考えたか?」

 ユルシュルが追憶に浸っていると、この男は目敏く察知してくるのだ。普段はまさに外面だけを取り繕った駄犬のような男だが、ギュスターヴのこととなると猟犬のように勘が鋭く、一度噛みつくとなかなか離れない。

「しつこいわ」

「こっちが言いたい。何度目だ?もう、いい加減にしてくれ」

「あなたが私をおとなしく修道院に行かせていたらこんなことにはなっていないかったでしょうけど?」

 この男は一度(たが)が外れると正気を失って予想外の行動に出る。

 声を出す間もなく、ベッドの上へ一瞬で乗りあがってきたエヴラールの手がユルシュルの首を絞めた。

「俺と一緒に死のう!ユルシュル、俺と一緒に死んでくれ!」

 一世一代のプロポーズのように強張った声だったが、ユルシュルは心底冷めた目でエヴラールを見ていた。実際はエヴラールなど見ていなかった。その後ろにいるギュスターヴを見つめていた。

 エヴラールは自分ではなくギュスターヴを見ていると気づくと、途端に首を絞めるのをやめてユルシュルの体に覆いかぶさってきた。泣いているようだった。

 ユルシュルは脱力して天井を仰ぎ見た。

 やっぱりずっと彼が見守っていてくれている。

 死んで一緒になろうと最初に言ってくれたのは彼だった。

 いつもこの男は出遅れる。

 手首を切ったのはギュスターヴが耳元で囁いたからだ。今日あいつが帰ってくるから目の前で一緒になるところを見せつけてやろうと。

 思っていたよりも痛かった。彼が言うほどだから耐えられるかと思ったけれど……地獄に堕ちるのにこんな痛い思いをするのは馬鹿らしいと思った。――彼は天国にいるのに地獄に堕ちてしまっては一緒になれないのに。どうして一緒になろうと言ったの?

「ユルシュル、俺を見て」

 それに今のうちに死んでしまったら、この男の隣に身体を埋めなくてはならない。

 ユルシュルは頭に名案が浮かんだ。――自殺しようとしたことを利用して離婚すればいいのではないかと。

「ユルシュル――」

「離婚して」

 エヴラールは息をのんだ。

 久しぶりにあのころのような無邪気な笑顔の彼女を見られたのだ。時が経っても、やはり変わっていなかった。あいつが変えてしまったと思っていたがあいつに変えられるような子ではなかった!

 恍惚とした表情を浮かべるエヴラールに、ユルシュルは躊躇いもなく平手打ちをくらわせた。

「離婚してって、言っているの」

 エヴラールは平手打ちされてはじめてようやく彼女の言葉が耳に入ってきた。

 離婚?離婚などするわけがないだろう。なぜ?また悪魔にそそのかされたのか?意志が弱くて困るな。

「しない」

 エヴラールはユルシュルの顔をしっかりとつかんで、目をじっと見てそう言った。見開かれたユルシュルの目は血走って憎悪を湛えていた。しかし泣いていた。

「俺の人生を狂わせたのに、俺から逃げようとするなんて許さない」

 ぐちゃぐちゃになった思考とベッドの中、エヴラールは零れ落ちるユルシュルの涙を舐め取った。

 抵抗する気力もなかった。愛する人を殺され、屋敷の中で囚われ、死にすら干渉してくるこの男に何をしようがどうしようもないのだ。

 ユルシュルは諦めた途端、憎悪を捨ててしまった。エヴラールに対する唯一の興味が消えてしまった瞬間だった。

「ユルシュル?」

 喋らなくなってしまったユルシュルは、何度呼びかけても反応しなくなってしまった。

『     』

 彼女の自殺未遂を発見した日から随分と存在が鮮明になってきた。姿だけじゃない。囁き程度の声がはっきりと聞こえるようになった。そのうち直接殺されるかもしれない。

「ああ、ああ……せめて俺に殺させてくれ。死んだら、俺は、お前たちと同じ所へ行けないだろうから」

 親友を殺したばかりか、愛する妻まで殺すことになろうとは思ってもみなかった。

 

 左手が震える。

 彼女は(首元に)俺を見ていた。(ナイフを当てる)涙を流しながら、(と、あいつは目を)俺だけを見ていた。(見開いて俺を見た。)何か言い遺して(発音すら出来な)ほしくて(い口でな)期待して待ったが、(にか言おうとしてい)聞くことは叶わなかっ(たが、それは喃語のよ)た。最期に声だけでも(うで何を言っているか)聞きたかった。(分からなかった。)

 白い首に手をかけた。(首を振ってナイフを避)力を籠める(けようとす)と彼女の顔はだんだん(るあいつの頭を掴んで)と赤くなっていって(、膝で固定して、)最後には紫に変色(俺は遂にあいつの)して動かなく(首筋にナイフ)なってしまった。(を当てた。)

 俺は左手を握りしめた。

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