ログ巻物解析レクチャー
地下へと続く螺旋階段は、まるで怪物の消化管のように暗く、湿っていた。 石造りの壁には長い年月を経て染み付いた煤とカビが張り付き、ルークとエマの足音が反響しては、深淵へと吸い込まれていく。
「足元に気をつけてね、ルークさん。ここの階段、三段目が欠けているの」
先行するエマが掲げた松明の明かりが、頼りなく揺れる。 彼女の声には、どこか躊躇いがあった。それは単に足場の悪さを案じているだけではない。この先にある場所へ、部外者を……いや、同じ職員とはいえ「新入り」を招き入れることへの、本能的な忌避感のようにも聞こえた。
「大丈夫だ。……匂うな」 「え?」 「古い紙と、インクと、それから……埃に混じった鉄錆のような匂いだ」
それはルークにとって、馴染み深い戦場の匂いであり、同時に懐かしい図書室の匂いでもあった。 螺旋階段を降りきった先、エマが腰に下げていた重厚な鍵束を取り出し、錆びついた鉄扉の鍵穴に差し込む。 ギギギ、と悲鳴のような音を立てて扉が開かれると、そこに広がっていたのは「墓場」だった。
天井が見えないほど高く積み上げられた木製の棚。そこに無造作に、あるいは乱雑に押し込まれた無数の巻物。床に散らばった羊皮紙の束。 ここにあるのは金銀財宝ではない。 冒険者ギルドが設立されてから数百年、数え切れないほどの冒険者たちが残した、最後の生きた証。そして、死の記録。
「ようこそ、『深層書庫』へ」
エマが燭台に火を移すと、書庫の広大さが露わになった。舞い上がった埃が、光の中でキラキラと踊る。
「過去数十年分の依頼達成報告書、経理書類、そして死亡報告書がここに眠っているわ。……正直に言うとね、ここに来るのは罰ゲームみたいなものなの。埃っぽいし、カビ臭いし、何より……」
エマは言葉を濁し、棚に収められた巻物の一つを指先で撫でた。
「……たまに、聞こえる気がするのよ。無念の声が」
オカルトめいた話だが、ルークは笑わなかった。 ここにある情報の重みを知っているからだ。
「そうだな。ここには何千人もの『無念』が詰まっている。だが、それは呪いじゃない」
ルークは近くの山から一本の巻物を抜き取った。紐を解くと、乾いた音がして紙が開く。
「これは『遺言』であり、俺たちへの『問いかけ』だ」
ルークは作業用の長机に積もっていた埃を手で払い落とすと、懐から数本の羽ペンとインク壺を取り出し、並べた。そして、エマに向き直った。
「さて、エマ。俺の仕事……『ログ解析官』としての初仕事を手伝ってほしい」 「ええ、ギルドマスターからの命令だもの。補佐役としてなんでもするわ。……でも、何をすればいいの? 掃除? それとも古い順に並べ替え?」 「並べ替え(ソート)はするが、日付順じゃない。まずは……そうだな、『サンプル』が必要だ」
ルークは周囲を見渡した。
「エマ、この棚にある中で、一番『原因不明の事故死』が多いエリアの記録を持ってきてくれ」 「原因不明……それなら、『暗黒の森』ね。あそこは中級者向けの狩場だけど、毎年夏になるとベテランでも帰ってこなくなる『人喰い森』として有名よ」 「いいな。その『暗黒の森』の死亡ログを、ここ5年分。全部だ」
エマは呆れたような顔をしたが、すぐに梯子を使って棚の上段から革袋に入った大量の巻物を下ろしてきた。ドサリ、と机の上に山が築かれる。
「はい、これでおよそ50件分。……ねえ、これを開いてどうするの? 一つずつ読んで、冥福でも祈る?」 「祈りは神官の仕事だ。俺たちの仕事は、彼らの死を無駄にしないことだ」
ルークは空白の大きな羊皮紙を広げると、定規を取り出し、縦横に線を引いて巨大な格子状のマス目を作り始めた。 この世界にはまだ存在しない概念――『スプレッドシート(表計算)』の枠組みだ。
「エマ、これから君がログを読み上げる。読み上げる項目は以下の通りだ。『死亡者名』『職業』『死亡月』『死因』『同行者の有無』。それ以外は無視していい」 「えっ、無視? でも、遺族へのメッセージとか、最期の言葉とかも書いてあるわよ?」 「感情はノイズになる。今は『事実』だけをくれ」
ルークの冷徹とも取れる言葉に、エマは一瞬眉をひそめた。死者への冒涜ではないか、という疑念が彼女の瞳をよぎる。だが、ルークの目は真剣そのものだった。彼女は小さく溜息をつき、最初の一本を開いた。
「……わかったわ。じゃあ、いくわよ。 一人目。剣士ガイル。死亡月、聖歴1021年7月。死因、毒による衰弱死。同行者あり」
ルークの手が動く。羊皮紙のマス目に、驚くべき速さで文字が埋め込まれていく。
「二人目。魔術師レン。死亡月、同年8月。死因、全身麻痺からの呼吸困難。同行者なし」 「三人目。盗賊ケイン。死亡月、1022年7月。死因、原因不明の熱病。同行者あり」
エマの声と、ルークのペンが走る音だけが、地下書庫に響く。 10人、20人、30人。 単調な作業だ。エマの喉が渇き始めた頃、彼女自身もある「違和感」に気づき始めた。
「……ねえ、ルークさん。気のせいかしら」 「続けてくれ」 「……四十五人目。重戦士ボルグ。死亡月、1024年8月。死因、毒死」
50件全ての書き込みが終わった時、ルークはペンを置いた。 羊皮紙には、びっしりとデータが埋め尽くされている。ルークはその中から、別の紙に数字を書き出し、棒のような図形を描き始めた。
「エマ、これを見てどう思う?」
ルークが指し示したのは、彼が即興で作った『月別死亡者数ヒストグラム』だった。 横軸に1月から12月。縦軸に死亡者数。 そのグラフは、異様な形状をしていた。1月から6月、そして9月から12月は棒が低い。だが、7月と8月だけが、塔のように突き抜けているのだ。
「これ……夏だけ、異常に死んでる……?」 「そう。視覚化すれば一目瞭然だ。『暗黒の森』の死者の8割は、7月と8月に集中している。そして死因の内訳を見てくれ」
ルークは表の特定列を指でなぞった。
「『毒』『麻痺』『熱病』。表現は違うが、これらは全て神経毒による症状と一致する。対して、冬場の死因は『魔物による外傷』が大半だ」
エマは口元を手で覆った。 「そんな……。私たちは今まで、『暗黒の森は運が悪いと死ぬ』としか思っていなかった。でも、これじゃあまるで……」 「そう、これは『事故』じゃない。『構造的な罠』だ」
ルークは眼鏡(伊達だが、知的に見せるためにかけた)の位置を直しながら解説する。
「仮説だが、暗黒の森には夏場にだけ開花する毒草、あるいは夏にだけ孵化する毒蟲がいる。そいつらは目に見えない微細な毒粉を撒き散らすんだ。だから冒険者たちは『魔物』と戦う準備はしていても、『空気』への対策をしていない」
ルークはエマを真っ直ぐに見据えた。
「エマ、ギルドの『暗黒の森』推奨装備リストには何て書いてある?」 「えっと……『中級者以上、ポーション携行推奨』よ」 「それじゃ死ぬわけだ。今日から書き換えよう。『7月〜8月は防毒マスク必須。解毒ポーションは最低3本。それが用意できないパーティは立ち入り禁止』。これで、来年の夏の死亡率は半分以下になる」
エマは愕然としていた。 ただの紙切れだと思っていた過去の記録。カビ臭いゴミの山。 それが、ルークというレンズを通した瞬間、未来の命を救う「予言書」に変わったのだ。 彼女の胸に、震えるような高揚感が湧き上がってきた。
「すごい……。ルークさん、あなた魔法使いなの? まるで未来を見ているみたい」 「未来予知じゃない。これは『統計学』という、俺の故郷の……まあ、数秘術の一種さ」
ルークは少し照れくさそうに笑ったが、すぐに真剣な表情に戻った。
「まだだ、エマ。これは初級編だ。ここまでは『見ればわかる』話だ。次は、もっと深い闇……『見えない殺人鬼』を暴き出す」
「見えない殺人鬼……?」 「ああ。次は『氷の洞窟』のデータを持ってきてくれ。対象は過去10年分。特に『パーティの構成』と『経験年数』に注目したい」
エマはもう、文句を言わなかった。彼女は小走りで棚に向かい、重い巻物の束を抱えて戻ってきた。 二人の作業は続く。 ルークは再び表を作り、今度はさらに複雑な計算を始めた。ブツブツと「分散」「標準偏差」「相関係数」といった謎の呪文を呟きながら、羊皮紙に数式を書き殴っていく。
一時間後。 ルークが描き出したのは、二つの曲線が交差する奇妙なグラフだった。 横軸に『冒険者の経験年数』。縦軸に『氷の洞窟での死亡率』。
「これを見てくれ、エマ。常識的に考えれば、経験を積むほど死亡率は下がるはずだ。右肩下がりになるのが自然だ」 「ええ、そうね。ベテランほど生き残るわ」 「だが現実はこうだ」
ルークが示したグラフは、1年目の死亡率はそこそこ高いが、2年目で一度下がり……そして3年目から5年目で、再び急激に跳ね上がっていた。そして10年目を超えると、ほぼゼロになる。
「3年目……? どうして? 一番脂が乗ってくる時期じゃない」 「そこだ。これを俺は『中級者の死の谷』と呼んでいる」
ルークはインクで汚れた指先で、グラフの頂点を叩いた。
「新人は自分が弱いことを知っている。だから慎重だ。危険を感じたらすぐに逃げる。だが、3年目は違う。『自分はもう初心者じゃない』『これくらいの怪我なら耐えられる』『前のダンジョンより簡単そうだ』……そういう『慢心』と『正常性バイアス』が働く」
「正常性バイアス……?」
「『自分だけは大丈夫だ』と思い込む心のバグだよ。特に『氷の洞窟』は、極寒による体力消耗がじわじわ効いてくる。新人は寒がって厚着をするが、中級者は『動きにくいから』と軽装を好む傾向が、この装備データからも読み取れる」
ルークは別の集計表を提示した。死亡した中級者の装備欄には、『軽量化』『敏捷性アップ』のエンチャントが付与された防具が並んでいた。防寒性能よりも、攻撃性能を優先した結果だ。
「彼らを殺したのは魔物じゃない。『自分の経験』という幻影に殺されたんだ」
エマは背筋が寒くなるのを感じた。 彼女自身、受付で多くの冒険者を見送ってきた。「最近調子がいいんだ」「俺たちなら余裕だよ」と笑って出かけていった3年目のパーティが、二度と帰ってこなかった記憶が蘇る。 あれは運命ではなかった。防げるはずの「エラー」だったのだ。
「……悔しいわ」
エマの口から、自然と本音が漏れた。
「こんなこと……もっと早く分かっていれば。ただ数字を並べるだけで分かることだったなら、どうして今まで誰もやらなかったの? 私たちが漫然と仕事をしている間に、何人の『3年目』が死んだのよ……!」
エマの目尻に涙が浮かぶ。彼女は自分の仕事を誇りに思っていたが、同時に「何もできていなかった」という無力感を突きつけられたのだ。 ルークは静かに立ち上がり、彼女の肩に手を置いた。
「誰も責められないさ。データは『集めて、並べて、比較する』という技術があって初めて言葉を話す。君たちが記録を残してくれていたからこそ、今、こうして彼らの声が聞こえるんだ」
ルークは書庫を見渡した。
「ここにある巻物はゴミじゃない。君たちが守ってきた、未来への遺産だ。エマ、君が記録してくれたおかげで、これからの冒険者たちは『死の谷』を越えられる」
エマは涙を拭い、顔を上げた。 ルークを見る目に、もはや迷いはなかった。そこにあるのは、頼れるパートナーへの信頼と、使命感だった。
「……ルークさん。私に、その『トウケイガク』とかいう魔法、教えてくれる?」 「ああ、もちろん。だが覚悟してくれよ。次は『多変量解析』を使って、パーティ構成におけるヒーラーの適正人数を算出する。計算が多くて頭が痛くなるぞ」 「望むところよ。ギルドの受付嬢の計算能力を舐めないで」
エマは不敵に笑い、新しいインク壺の蓋を開けた。
「さあ、先生。次の授業を始めましょう。この書庫にある全ての『謎』を解き明かすまで、帰さないからね」
地下書庫の冷たい空気が、少しだけ熱を帯びたように感じられた。 ルークとエマ。 異世界からの転生者と、実直な現地職員。 二人の「データアナリスト」が誕生した瞬間だった。 彼らがこれから紡ぎ出す「ログ解析」は、やがてギルドの、そして世界中の冒険者の運命を大きく変えていくことになるのだが――それはまた、別の話。
「よし、じゃあ次は……この『迷宮都市』の地価と『死亡率』の相関を見てみようか」 「えっ、家賃と死ぬ確率に関係があるの!?」 「あるさ。貧乏な冒険者は安い宿に泊まる。安い宿は治安が悪く、休息が浅い。睡眠不足は判断力を鈍らせる……ほら、データに出てきてるだろ?」
夜はまだ長い。 情報の墓場は今、情報の宝物庫へと変わりつつあった。




