完璧なしあわせを求めた王様のお話
しあわせとは・・・などと柄にもないことを考えた時期があります。
昔々のお話です。ここからは、とても遠く離れた国のお話です。
旅する者があれば、その方角も地図上の位置も、もうどうでも良くなるくらい遠いところに、とても小さな国がありました。光と水の恵みを受けた、その国は、とても豊かで、人々は幸せに暮らしていました。
なかでも王様は、富と権力は言うまでもなく、温厚で優しく国民からも慕われ、丈夫な身体には病気ひとつなく、美しいお妃様と可愛らしい王女様や王子様に囲まれて、幸せに暮らしていたはずでした。
なぜ「はずでした」なのかと言うと、王様には、とても大きな不満があったのです。それは王様自身の記憶についてでした。王様は、思っていました。
「わしは、今とても幸せだ。なのに、昔の哀しい記憶が消えないために、わしの幸せは完璧なものにはならん。何とか、哀しい記憶を消してしまう方法はないだろうか。」
とうとう、我慢できなくなった王様は、ある日、国中にお触れをだしました。
「哀しい記憶を消す方法を見つけだした者には、何でも望むものを与える。」
たくさんの、錬金術師や魔法使い、そして妖術師たちが王様のもとを訪れましたが、どれもこれも胡散臭い者ばかりでしたので、賢い王様は騙されませんでした。
そんなある日、遠くの国から旅の若い商人がやって来ました。行商の店を開こうと、やってきた市場の中に立てられた王様のお触れを読むと、商人は、真っ直ぐにお城へとやって来ました。
商人は、王様と謁見が叶うかどうか、それが一番の心配でしたが、この国では、王様の時間さえ許せば、誰でもが王様に会えました。
商人が、「王様のお触れについて、お役に立てるかもしれないと思ってきました」と言うこと、兵士たちは喜んで、商人を謁見の間に案内しました。
商人は跪いて深く一礼をすると、王様とお妃さま、そして王女様が居並ぶ拝謁の間を進みでて、こう言いました。
「私は、王様の望みを叶えて差し上げることができる薬を持っています。」
その言葉に、思わず身を乗り出した王様に向かって商人は話を続けました。
「ですが、ひとつだけ・・・あらかじめお断りしておきたいことがございます。哀しい記憶だけを消すことは、並大抵のことではありません。ですから、この薬は、哀しい記憶を消すのではなく、哀しい記憶の大元にあるもののことを思い出せなくする薬なのです。それでも、よろしいでしょうか?」
王様は、しばらく考えていましたが、完全な幸せを望む気持には勝てませんでした。
「若者よ。お前の薬を試すことにしよう。だが、すぐ薬を飲むということは、家来たちが許してはくれない。まず、毒見役がお前の薬を飲むことになる。だが、毒見役たちもわしの大切な家来だ。毒見役に何かあれば、その首は切られることになるが、本当にその薬は大丈夫であろうな。」
「もちろん、大丈夫でございます。この薬は売り物ではございません。中央アジアのとある国の高僧が、お礼にと特別に調合してくださったものを直に頂きまして持っていたものです。どうぞ、安心してお試しください。」
王様は、毒見役の家来たちがあれこれと毒見をおこなう間も、謁見の間でその様子を見守っていました。
毒見役のひとりが、王様に向かって「あれは、誰だ」と無礼な発言をしてしまい、慌てて兵隊たちが連れていく一幕はありましたが、温厚な王様は「手荒なことはしないように」と言ったきり、その後は、誰一人、気を失うようなこともなく、無事に毒見の時間は終わりました。
やがて、王宮の医師が安全を宣言し、王様は戸惑いながらも、その薬を飲み干しました。
すると、どうでしょう。
王様の頭の中に、わずかばかり残っていた哀しい記憶は全て消えてしまい、これまでに感じたことのない幸福感に、その心は充たされました。
王様はたいそう喜び、商人に向かって言いました。
「ありがとう、おかげで、わしは今、これ以上ないほど幸せな気分じゃ。約束通り、望みのものは何でも与えよう。さあ遠慮なく申してみよ。」
商人は頬を紅潮させ、王女様をじっと見つめると、意を決したように、こう言いました。
「私は、まだ若造ですが、国に帰ればそれなりの財産もあります。王様、どうか私の妻として王女様を下さい。きっと幸せに致します。」
そのひと言に王様は悩みました。けれども王として、人と交わした約束を破るわけにはいきません。やがて、王様は商人に向かって言いました。
「約束だ。旅の若者よ、王女を連れてゆくがよい。」
その瞬間、王様の心は哀しみに包まれました。すると、どうでしょう。王様の記憶の中から、あれほど慈しんだ王女の姿が、消えてしまったのです。
王様は、もう哀しくありません。笑顔で、旅立つ商人と王女様を見送りました。その横ではお妃様が嘆き悲しんでいます。家臣達も哀しげに見送っていましたが、王様は笑顔のままです。
やがて、遠くに嫁いだ王女様を想う心労が元で、お妃様は重い病気に倒れました。王様は、たいそう心配して、あれこれ手を尽くしましたが、容態は、いっこうに快方へと向かいません。
そんな日が続き、ある日、王様がそのことを哀しんだ、その瞬間にお妃様のことを忘れてしまいました。
王様は、そうやって哀しむたびに、何か大切なものをなくしながらも、とても幸せに暮らしたのでした。
今は昔のお話です。
「しあわせ」なんて、今でも上手く言えませんが、人それぞれの心の活動の中で、様々な要因が絶え間なく変化しながらも、その時々の、こころの総和のバランスがしあわせと思えるのか、ということなのだろうと思っています。
もちろん、哀しいことを消すことではありません。哀しさとともにしか、思い出せない「しあわせ」もありますから。