のりこと霧の部屋10
そう言われたらぐうの音も出ない。
すっかりしおれたのりこのようすをながめると、人面牛はおかしげに
「ふふふふ。ゆるせ、ゆるせ。じょうだんだ。おぬしに邪慳をする気などない。ただからかってみただけよ。 なにせ、おぬしの父親にはさんざんなぶられてきたからな。そのしかえしを娘にできたとは、ああ、いい気もちだ」
じつに楽しげな人面牛に
のりこはおどろいて
「あなた、あたしのおとうさんのことも知っているの?」
「そうさ。おぬしの父親はいたずら好きで、わしのしっぽを寝てるあいだにチョウチョむすびにするようなやつだったが、けっしてわるいやつではなかった。なんと言っても、時代がかわって行き場をなくしたわしらのような存在に、旅館のこの一室をあたえて住まわせてくれたのだからな。その恩があるものの娘に悪意などない。
それに、お美和がこの部屋を出て外ではたらくことはわしも賛成じゃ。わしらは過去の生きものじゃが、あやつはまだ現在に生きることができる。幹久の娘であるおぬしならば、つれだすこともできよう――お美和はこの家の前の道路をまっすぐ行ったところにある高架の下に立っておる。まちがうことはあるまい」
人面牛のやさしい声音に、
のりこはすっかり恐縮して
「屋根こわしたの、ごめんなさい」
「気にするな、じきになおる」
たしかに上を見上げると、屋根のさけめが自然にふさがっていく。まるでいきものの傷がなおっていくみたいだ。
草を食み終え、体を横たえた人面牛はあくびをすると
「しかし、ここの主人になるとはたいへんだな、童。なにせ、この旅館はねらわれがちだ」
「ねらわれ?……それって、どういう意味?」
こんなボロ旅館をだれがねらうっていうのさ。少女のけげん顔に
「まあ、いずれはわかることよ。そうだ、わしからひとつ忠告をしておいてやろう。――黒いつばさを持つものには気をつけたがよいぞ」
「つばさ?」
「まあ、おぼえておくとよい」
人面牛はそれだけ言うと、首をまるめてねむりこんでしまった。




