カーテンコールが鳴らないように
子供の頃、父方と母方両家の祖父母に連れられて見た舞台のことを、今でも鮮明に覚えている。
父が演出を、母が主演を務めたことで、メディアに多く取り上げられた舞台だった。鳴り響く拍手と、観客の熱が会場に充満する。スポットライトを浴びて舞台の上に立つ母は、どうしようもなく美しい俳優で。幼かったボクは、彼女が生み出す熱量にどうしようもなく憧れたものだった。
けれど、あの時────司とともに、両親の会場が熱を生むごとに、対称的にどんどん自分の熱が冷めているのを感じていた。色とりどりの美しい花束を抱えた父が舞台に上がって、母に花束を渡す。その場でこけちまえと呪っても、父はその整った容姿を崩すことはせず、相変わらず胡散臭い笑みを浮かべたまま舞台の上で母に花束を渡していた。
「お父様もお母様も素敵ねぇ、棗さん、司さん。あんなに素晴らしいご両親がいらっしゃって、さぞかし鼻が高いでしょう。羨ましいわ」
右隣に座ったいとこが、夢を見る様な口調でうっとりと呟いた。ふわりとした巻き髪が愛らしい少女に、いとこじゃなきゃよかったのに、惜しかったなぁなんて考えながら、「そうですね。私も司も鼻が高いです」なんて当たり障りのないことを返せば、「そうでしょう、そうでしょう」なんて金糸雀のように澄んだ声をころころと上げながらはしゃぐ。
「棗さんも司さんも、あんなに素晴らしい方々がご両親で羨ましいわ」「はは、有り難う御座います。泉見にも伝えておきます。……まぁ、人は皆役者と言いますからね?」
舞台になぞらえた、僕の敬愛する劇作家の最も好きな言葉を皮肉を込めてそう言えば、くすくすと左隣に座った司が笑う声が聞こえた。当のお嬢様と言えば、きょとんとした顔をしてから、「棗さんは博識でいらっしゃるのねぇ」なんて間の抜けたことを言って。それを聞いた司は、ますます笑いを深めていた。
「────博識でいらっしゃるのねぇ?棗」「はは、まぁね?」
送迎のために到着した大衆車に乗り込むと、揶揄うように司がそう言って。それににやにやと笑いながら答えれば、助手席の方から「棗様」と嗜める声が聞こえた。それに答えるように、小さく舌打ちをしてから視線を窓の外へ向ける。
夜も更けているからか、窓に映ったボクの顔はやけに鮮明に映っていて。二重の瞳も、薄い唇も、鼻筋の通った顔も何もかもが両親によく似ていた。唯一似ていないのは、右目の下にある泣きぼくろだけだ。
「棗様も司様も、もうすぐ星花女子学園に入学なさるのですから礼儀作法には特に気を付けなければなりません。特に、星花女子学園には一般的な方から政治家のご令嬢まで様々な方が在籍しておられます。罷り間違っても、旦那様と奥様の恥にはなりませんようお気を付けくださいませ」
苦言を呈するまだ年若い青年に「はいはいはいはい」と適当に答えて、再び視線を窓の外へ向ける。良家の御子息や御令嬢がうようよと集まっているからか、似たような車がボクたちの車を追い抜いていった。
良家のご子息やご令嬢が多い業界では、他者に狙われないよう一般的な大衆車を使用することが多い。先程のご令嬢を乗せたシルバーの大衆車がボクたちを乗せた車を追い抜いていって。それを見ながら、ご苦労様なことでと心の中で毒づいた。
星花女子学園に行けと言われたのは、今から数ヵ月ほど前のことだった。元より通っていたところは私立の小学校だったのだから、私立へ行くこともあまり驚きもしなかったのだが。
────それはまた、随分と急な話ですね
二ヶ月ぶりに顔を付き合わせた第一声がこれかよなんて心の中で毒づきながらそう言えば、目の前の整った顔の男は特に感情を表に出さないまま、相変わらず人を食ったような笑みで「そうかい?」と笑った。
────棗にも司にも、悪い話じゃないと思うがね。あそこは一般的な家庭の子から名家の子まで大勢の子が通っている。……まぁ、そこで恋仲になる子も少なくはないようだよ
噂によれば火蔵家のお子さんも通っているそうじゃないかなんて言葉に、彼が何を言おうとしているのかその意図が掴めなくて。思わず眉間に皺を寄せれば、同じように呼び出された司が「つまり」と、酷く醒めた声で言った。
────つまり政財界、またはそれに準する社会的地位の高い方々と太いパイプを結べと言うことですね。……あなたのより良い未来のために
司がそう言えば、目の前の父は相変わらず人を食ったような笑みで笑って。「そう聞こえたかな?」と言った。
冗談じゃない、とその机を衝動的に蹴り飛ばそうとすれば、司がすっと腕を出して行動を制す。
────それなら何も二人で行くことも無いでしょう。私は高校なんてどこでも構いませんが、棗はもっと演劇に力を入れている高校へ行った方がよっぽど今後の役に立ちます。確かに星花女子学園は社会的地位の高い方々も通っていますが、授業内容を含め、演劇に特化しているわけではありませんから
そう言って僕の方をちらりと見る司に、小さく息を吐いて。「どうせそう言うことでしょう?」と父に尋ねる。
────星花の世間知らずなお嬢様を惚れさせて、一番良い家柄の人を選別して。ゆくゆくは劇団の後援者へなって貰うんですね。利益優先の貴方らしくて、反吐が出るほど最高です
そう言って顎のラインで真っ直ぐに切った自分の髪を、弄ぶように指先でいじって彼の方を見れば、父親と言う役割を演じている彼は、相変わらず腹の底が読めない顔でにこにこと微笑んでいた。
────話は以上です。各自部屋に戻って、荷物を纏めていなさい。私は仕事があるから
そう言って促された退出に従って部屋を出ると、苛立ち紛れに部屋の扉を足で思い切り蹴って。それでも怒った様子もないと言うことは、本当にボク達に興味が無いのだろうと思うと、それがまた一層腹立たしさを際立たせた。
「────棗様、司様。到着致しました」
運転手の言葉に、はっと意識を引き戻して。それから「ご苦労様」と伝えると、玄関の前で出迎えたハウスキーパーに手を貸されて車から降りてから、車内に残る司の手を引いて車外へ出た。すると、タイミングを見計らったかのように運転手が戸を閉めて、玄関のロックを解除して、扉を開く。出迎えた、まだ年若いハウスキーパーのお帰りなさいませと言う言葉に頭を下げてからボクは靴を、司は靴と靴下を脱いで家に上がる。
「なっちゃん、ボク手を洗いたい。汚れちゃったから」
司の声に、「ああ、良いよ?」となっちゃんの顔で笑って、洗面所まで一緒に向かう。司の華奢な手に嵌った絹の手袋は、何度も何度も繰り返し手を洗うからか、あかぎれを起こして血が滲んでいて。第一関節から滲む血にどうしようもない感情を抱きながら、手袋越しに彼女の手を引いて洗面所まで移動する。
キュッと蛇口をひねる音を聞きながら司が手を洗う水音に耳を澄ませて。きゅっと蛇口を捻って、その音が止んだのに気づいて顔を上げると、鏡越しにかちりと司と視線が合わさった。
「……どうしたの?司」
そっくり同じ容姿をした、可愛くて優しいボクの双子の妹。子供の頃はよく二人で入れ替わって、なぁんにも知らない人をからかって遊んでいた。
司の薄い形の良い唇が微かに開くと「いや?」と返して、にやにやと笑う。
「機嫌悪いね、なっちゃん。あの人に星花に行けって言われたの、そんなに不満?」
にやにやと笑う司になっちゃんて呼ぶなよと返して。「つーは不満じゃないわけ?」と返せば、「ボクは別に何とも思わないよ」と手を洗いながら呟く。
「どうせ六年間、そつなくこなしていれば晴れて自由だ。その間だけの人間関係なんだから、どうとも思わないね。……でも、棗を星花へ行かせようとするとは思わなかったな。ボクももっと遅くに、少なくとも高校辺りで行かされるとは思ってたけど」
そう言いながらタオルを探す司に、潔癖症の司専用に個包装されたタオルがいくつか入った箱を渡すと、司は「ありがとう」と言いながらハンドタオルをひとつ取り出して手を拭いた。
「お陰で計画に狂いが出ちゃったよ。迷惑な話だ」「────計画?」
訊き慣れない単語に思わず聞き返せば、司は「そうだよ」と笑って使い終わったハンドタオルを折りたたむと、自分専用のボックスに入れた。冷たい瞳でボックスの中に入っているタオルを見る司の目は、知っているはずなのにまるで知らない人みたいだった。
「────何それ」「ここじゃあまり場所が良くないね。なっちゃんが手を洗ったら二階で話そう」
そう言った司に従うように、手を洗って消毒を終えてから二人で二階へ上がると、司はボクが入ったのを確認してから扉を閉めて鍵を掛ける。
司の部屋は、まるで無菌室のようにどこまでも無機質で清潔な部屋だった。司はボクに椅子をすすめると、今日来ていた深紅のワンピースを着替えながら「あの人が考えているのは、ボク達が星花でそれぞれ成功を収めて、おまけに家柄の良い人と交際して、自分の仕事を円滑に進めることだ」と淡々と言葉を紡ぐ。
「冗談。星花は女子高校だろ」「そうだよ。そこが良いんだろ」
着替え終えた司は、それを酷く汚いもののように部屋の隅に追いやって。それから部屋着を少しずつ身に付けてゆく。
「エンターテインメントはいつの時代も大衆の関心を引くんだよ、棗。性別を超えた愛情を育んだ娘たちを優しく受け入れる両親。私達は貴女達だから愛しているのよなんて耳触りの良いことを言って、ゴシップとしてメディアに取り上げられることを目的としている。世間やメディアはさぞかしあの人たちを褒めるだろうね。……いや、貶されたりすることも織り込んでいるんだろう。どちらにせよ、相乗効果で自分たちの株や話題性が上がることも間違いない。当面は仕事もかなりの量が入ってくるだろうね。同性同士の恋愛が多い星花女子高校を選んだあたり、そういう方面のコメンテーターも活動の視野に入れているってことかな」
人は意外と単純だからと言う司の言葉に、「くだらない」と返して。「大体それじゃ、この前司があいつに言ってたことと反対の結果を生むだろ」と返せば、「そうだよ」と司は笑う。
「あの人だって本気でボク達を支援してくれる人────所謂パトロンに近い人を見つけてくるなんて端から期待してないよ。見つけてくれば御の字ってところなんだろう。そもそも今、二人の評判もこの家の財産も上々だと思うから、金銭目的で星花のお嬢様に近づくメリットもない。そうなると、残されたものはそれくらいだね」
そう言って、着替え終えた司がぱたりとクローゼットを閉じて。「手垢まみれの愛情だよ」と呟いた。
「────だけどね、棗。そんなものはもう最初から解ってるんだ。自ら望んだあの人たちと違って、ボク達は生まれた瞬間からコンテンツとして他人に消費され続ける。演出家の娘として。有名な舞台俳優の娘として。……そうしてやがて、オワコンだって言われてしまうんだろうね」
司はくるりとこちらを振り返ると、ボクを真っ直ぐに見つめる。血管が透けるほど白い肌に、やけに意地の悪そうな笑みが浮かんでいた。
左目に泣き黒子を持ったボクと同じ顔がにやりと口角を上げた。薄く形の良い唇が、「だから」とゆっくりと言葉を紡いでゆく。
「ボク達はそれを利用するんだ。望まれた通り、お嬢様との恋愛なんてするもんか。────本当のボク達を両親に見つけてもらうために、ボク達はボク達の求める人生を演じるんだよ」
司はそう言うと、柔く目元を和ませて。「ね、なっちゃん」と、甘やかすような声色で囁いた。
「きっと君は、星花へ行ったってうまく生きていくのかもしれないけど。────君だけは、どうかボクを裏切らないでいてね」
────両親みたいに、簡単にボクを捨てたりしないでね
そう言った司の声は、微かに震えていて。硝子のように繊細な声が、静かに僕の鼓膜を揺らす。
「────もちろんだよ、司」
そう言った自分の声は、舞台に立っている時のような、張りのある声ではなくて。もっと細くて頼りない、迷子の子供のような声だった。
司がボクの肩に浅く頭を載せる。微かに震える華奢な彼女の肩を、宥めるように優しく一定のリズムで叩いて。心の中で聞こえないように、そっと言葉を続けた。
────だから君も、泉見 棗を覚えていてね
誰でもない泉見 棗がここに居たことを。どうか君だけは、覚えていて。
微かに感じる司の息遣いに、安心するようにほっと息を吐いて。どうかカーテンコールが鳴らないようにと願う事しか、今のボクにはできなかった。