私は君を
入浴を終えた私が寝室に入ると、そこには数年前から私に仕えている同い年の美しい少女の姿があった。
彼女の格好は普段の使用人のお仕着せではなく、ひどく扇情的な薄着で下着がうっすらと透けて見えてしまうほどだ。
そんな彼女は入室したばかりの私の方へと深く腰を折って頭を下げており、その表情を窺い知ることはできない。
彼女もまた入浴を終えたばかりなのか、腰にまで届かんばかりの彼女の黒髪はいまだ生乾きで、薄い衣装の間から覗く素肌は湯気が立ち上りそうなほど火照っているように見えた。
にもかかわらず、彼女の肩や指先はわずかに震えているのはやはり、これから起こることへの恐怖からなのであろう。
であるならば、頭を下げている彼女が今どんな顔をしているのか、実際に顔を見て確かめるまでもない。
ついにこの日が来てしまった。
目の前の怯える少女を部屋の入り口で呆然と眺めながら、私は彼女と初めて会った日の夜に見た夢のことを思い出していた。
私が14歳の誕生日を迎えたこの日、あの夢が正夢だったというのならば、目の前の彼女は私に女を教えるために抱かれに来たのだろう。
数年後には彼女は運命の男性と出会い、私のもとを離れていくというのに……。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
どう取り繕っても彼女の身に起きた不幸を誤魔化せるわけではないのではっきり言ってしまうと、彼女は金で両親に売られて我が家にやってきたのだ。
このご時勢、奴隷などという時代錯誤も甚だしい存在がいるわけではないが、目の前にいる彼女はそれに限りなく近しい存在だといえるだろう。
彼女のような存在が我が家には常に一定数存在している。
彼女たちはその親に我が家の者の言うことはどんな命令も絶対に聞くように言い含められ、我が家に預けられる。
それが彼女たちの人権を侵害しているかなど、この際どうでもいい。
それが法を犯しているかどうかといった問題も、些細な問題なのだろう。
彼女のような者たちが存在し、我が家が依然として権力を持った名家として君臨できているのだから。
そして今、次代の当主となる私のもとに捧げられた生贄が彼女だった。
我が家では14歳から一人前の大人として扱うという風習がいまだに残っている。
そして私は今日で14歳となった。
我が家の中だけで言えば私は成人を迎えた立派な男子ということになる。
そんな立派な男子が女を知らないというのは、我が家では許されることではないのであろう。
有り難くもこうして上げ膳据え膳で女の世話までしてもらっているわけだ。
「あ、あの、次代様。今夜から伽を申し付かりましたので、よろしくお願いします」
部屋の入り口で立ち尽くす私に気を使ったのか、はたまた沈黙に耐え切れなくなったのか、黙ったままの私より先に彼女は口を開いた。
彼女は言葉の初めに僅かに動揺を滲ませたものの、頭を下げたままのわずかに籠った声で気丈に言い切った。
先ほどまでの肩の震えも止まっている。
彼女は覚悟をを決めたのだろう。
私も覚悟を決めなくてはならない。
彼女のこれからの幸せを願って。
「そうか。ではまず、紅茶を入れてくれないか? その恰好では寒いだろうから、何か上着を羽織ってから用意を始めてくれ。私は少し目を通しておきたい資料がある、お茶を入れたら書斎へ頼む」
「は、はい。畏まりました。すぐにお持ちいたします」
頭を下げたままの彼女の横を通り過ぎ、隣の書斎へと通じる扉の方へ向かう。
私は今の声を冷静な声で言えただろうか?
逃げるように速足にはなっていなかったか?
ましてや、彼女にそれを悟られることはなかっただろうか?
いつかこのような日が来てしまうことを予期していなかったわけではない。
いや、今日この日のために今までいろいろ行動してきたのではなかったか?
だが、実際はどうだ?
彼女の扇情的な格好に思いのほか動揺し、放心して固まる始末、我ながら呆れてものもいえない。
寝室に隣接し、廊下を使わずとも行き来ができる書斎へと移動し、デスクに突っ伏して頭を抱える。
このまま書斎に鍵をかけて閉じこもってしまいたいがそうもいかない。
私は書斎のデスクに備え付けてある内線電話を手にとった。
「私だが……今夜、私の寝室の隣にある控えの間に人は不要だ。あと、朝も起こしに来なくともよいから人を近づけさせるな。ああ、それでは頼んだ」
電話を終え、どんな内容なのかも頭に入ってこない資料に目を通していると、ノックの音が響き、返事をするとガウンを着こんだ彼女が紅茶の用意をして書斎へと入ってきた。
「紅茶のご用意ができました」
「ああ、ありがとう。こちらに頼む。よければキミもそこのソファーに掛けて一杯付き合ってくれ」
「いえ、そういう訳にはまいりません」
デスクに私の紅茶を置くと、彼女はいつものごとく控えるように私の後ろに立った。
紅茶の香りが書斎を満たし、私はわずかながらも落ち着くことができた。
「君は、ここにきて何年になる? 」
「もう5年になります」
「そうか、ならいつかこうなってしまうことは知っていたのだろうな」
「……はい」
一口紅茶を飲んでカップを置いた私は、この五年間を思い出し、変わらない彼女の態度に自嘲の笑みを浮かべた。
結局この五年間、私は彼女の本当の笑顔を見ることはできなかった。
出会ったあの日から、彼女はずっと他人行儀なままだ。
だが、どうしてそれを責められよう。
彼女の態度は、この屋敷で彼女が自身を守るための唯一の盾なのだと理解している。
今となっては5年という月日がありながら、彼女にこんな表情しかさせられない自分の無能さに呆れるしかない。
出会った日の夜に夢で見た、私を虜にしてしまったあの笑顔をもう一度見たい。
私から彼女を奪っていく男に見せた笑顔、私に向けられたものではなかった笑顔、あれを自分のものに……。
そう思って浅ましくも行動してきた5年間だったが、あの日見た夢と結局同じ展開ではないか。
未来予知とも思えるような精緻な夢のおかげで、上手く立ち回り、私は夢で見た自分よりも優秀な存在となっているはずだが、あの日の夢と大筋は違わず、彼女が生贄として差し出されるという結果は変わらなかった。
ここで彼女を抱いてしまったら、いよいよもってあの夢と同じである。
彼女は数年後に運命の男性と出会う。
彼女は私に抱かれた汚れた存在であるという理由から、その男への想いを諦めようとするが、最終的にはその男が彼女の過去も全てを受け入れ、結ばれる。
私はというと、彼女がその男に向ける多彩な表情を目にし、初めて彼女へ向ける自分の気持ちに気づく間抜けだ。
いろいろと省くが、最後だけは潔く、彼女の親の借金や彼女を取り巻く問題を解決し、彼女を我が家から解放する。
結局、ああなってしまうのが運命なのかもしれない。
できることなら彼女を幸せにするのは自分でありたかったがために、いろいろと努力してきたつもりだったがそれも叶わないようだ。
ならばせめて、彼女の心に傷をつくることなく、相手の男のもとへと送り出したい。
私は残っていた紅茶を一息に飲み干すと覚悟を決め、卓上にあらかじめ用意してあった短めのナイフとハンカチを手に取り彼女の眼につかぬようポケットにしまうと、立ち上がった。
「よし、では行くか」
「……はい」
静々と私の後ろに付き従う彼女の顔を確かめることもできぬまま、私は寝室へと向かい歩き出した。
彼女をベッドの脇に立たせたまま、自分だけベッドの上に上がる。
私はナイフを鞘から出し自分の指先を浅く切り、そこから流れ落ちた血の雫をベッドに数滴落とし、傷口にハンカチを当てると口を開いた。
「これで今晩の君の役目は終わった。隣の控えの間に今日は誰もいない。今日はそこで寝なさい。明日の朝は誰もここには近づかないから、いつもの時間に起こすように」
再びベッドから降り、唖然とする彼女を刺激しないように、書斎とは反対にある控えの間に追いやろうとする。
「え? あ、あの、なぜ?」
普段の感情を殺した姿が嘘のように、動揺する彼女。
自分が何か失態を犯したのではないかという不安が顔に出ている。
「君に問題はなかった。私がそういう気分じゃないだけだ」
「ですが、それでは……」
「大丈夫だ。他の者には上手く言っておく。屋敷の中ではそういった関係だと思われるだろうが、その醜聞が屋敷の外に出回ることは絶対にない。ましてや君に手を出したという事実は一切ないため、よしんば漏れたとしても心配はない。安心したまえ。」
「な、なぜそこまでして……」
「気分だ。さぁ、私の気が変わらないうちに移動したまえ」
私が腕を取り、あまり力を入れ過ぎないように彼女を扉の前まで誘導すると、扉の少し手前で彼女が急に立ち止り動かなくなってしまった。
「な、なぜ次代様はいつも私を庇うのですか? 」
普段とは違う感情的な彼女の声に驚き、彼女の腕を掴んでいた手を離し、振り返って彼女を見た。
こちらに強い視線を向ける彼女の表情は普段の整った顔立ちからは考えられないほどくしゃくしゃに乱れ、感情の高ぶりからか目にはうっすら涙まで浮かんでいる。
「そういう気分だったか……」
「それはもう聞き飽きました! 本当のことを言ってください!」
なんとか彼女を誤魔化し、控えの間に追いやろうと試みるが、普段の姿からは思いもつかないような頑固さで梃子でも動きそうにない。
私はついには諦め、彼女が納得するとは思えなかったが、真実である昔見た夢の話をすることにした。
「わかった。わかったからとりあえず涙を拭いて、そこのソファーに座ってくれ。立ったままでは話もできない」
ハンカチを差し出そうとする私を手で制し、彼女は黙ったまま服の袖で涙をごしごし拭うと、寝室に対になって置かれたソファーの一方にボスンと勢いよく腰を下ろした。
今まで見たことのない彼女の姿に知らず知らず笑みが浮かんでいたようで、ニヤニヤしないでくださいと彼女に注意されるが、それすらも嬉しい私はどうしようもないほど彼女に惚れているのだと再認識させられた。
彼女の正面のソファーに座った私は、そんな思いを心の隅に押しやり彼女と出会ったあの日のことを思い出しながら口を開いた。
「君は邯鄲の夢という故事を知っているだろうか? 簡単に言ってしまうと、とある青年が道士の枕を借りて眠り、思いのままに立身出世を成し栄華を極めるという壮大な夢を見るが、実はその夢はほんのわずかな時間の間に見たものに過ぎず、そのことから人生の儚さを悟ったという話なのだが……私もこの青年と似たような体験をしたんだよ」
私が夢を見たときの枕は自分のものだったし、道士とやらもいなかったがねと苦笑しつつ彼女の顔色を窺った。
彼女は黙ったまま話を聞き、何事かの思索にふけっているようであった。
突然の話に驚きや呆れといった表情を浮かべているのではないかと思っていただけにそのような表情が浮かんでいなかったことに私はほっとした。
彼女の先ほどの問いに答えるためにはここから話しはじめないといけないことを伝え、疑問や疑念はとりあえずおいておいて話を続けさせてくれるよう彼女に頼んだ。
彼女は何も言わず、続きを促した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その夢を見たのは私が君と初めて会った日の夜のことだった。
夢は私が君と会った日の次の日から始まっていたから、私は夢から覚めるまでそれが現実なのだと思っていたよ。夢の中での暮らしは何年も何年も続いて、ある日唐突に終わった。
目が覚めたとき私はひどく混乱した。ある日突然幼少期にタイムスリップしたのだと思ったくらいだ。
それが夢だと気付いた時、私は驚きつつも本当に安堵したよ。だけど、本当に驚いたのはその後だった。夢で体験した出来事が現実に起こり始めたんだ。
私の見た夢は、予知夢や正夢と呼ばれるものの類だったらしい。
あとは知っての通りさ、誰だって一度目より二度目の方が上手くやれる。君が我が家に来てから、私が失敗をしたのを見たことがあるかい? 我ながらある一つのこと以外は上手くやったと思っているよ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
彼女に真実を語り聞かせながら私の顔はきっと苦々しく歪んでいたに違いない。二度目の機会を与えられた私が失敗したことはあの日から今日まで一度しか無かったが、その唯一の失敗が何ものにも代え難い致命的な過ちであったのだから。
私のそんな表情から、彼女は私の犯した失敗が気になったようで、今までずっと黙ったままだった彼女が口を開いた。
「私にとって貴方はいつ見ても眩しいほどに輝いて見えました。それは出会ったころから変わることはありません。ずっと貴方のそばに居たのに、貴方がいう上手くいかなかったことがなんなのかわからない……私は貴方にそんな顔をさせてしまうことがわからないことがたまらなく悔しいです」
強い口調で喋り始めた彼女はだんだんその勢いをなくしていき、最後は俯きがちになりながら消え入るような声で何事か呟いた。
私はそこで初めて彼女が私のことをどう思っていたのかを知った。
彼女に嫌われていなかった。
そのことがわかっただけで、私はこの5年間が報われたような気さえしていた。
私の彼女への想いが身を結ぶことはなくとも、彼女を守り、嫌われることなく別れることができる。それだけで十分だ。
そう思うことで、再度、このあと起こる事を自分に言い聞かせようとした。その時、目の前で俯く彼女が急に立ち上がると身を乗り出してその華奢な両手で私の手を強く握りこみ口を開いた。
「どうか、どうかお願いですから、貴方の苦しみの原因を私にも教えてください。貴方にそんな顔をさせてしまう原因を、どうか」
彼女の芯に迫る口調と、間近にせまる彼女の顔に一度は諦めかけた希望が再び芽生えそうになる。
この想いを口に出してしまえば、後戻りはできない。この想いが受け入れられないと、きっと彼女をめちゃくちゃにしてしまう。今までの努力も全て水泡に帰す。
それでも、それでも、私は………