VSウッドベアー~決着~
『グゥルルルル……』
1匹の巨大な影が、地面に点々と続く血の匂いを嗅ぎながら、常闇の森を進む。
影――4メートルの巨体を持つ魔物の顔面は悲惨なことになっていた。
右顔面は原型を留めていないレベルでぐしゃぐしゃに潰れ、左顔面を覆う仮面のような木、その小さな穴からまるで涙のように血を流し続けている。
魔物の視力は完全に失われていた。魔物の瞳に写るのは常闇の森よりも深い闇、永遠の闇だ。
だが、そんなことはどうだってよかった。
魔物――ウッドベアーの胸にあるのは『飢えを満たしたい』その感情だけだった。
視力を完全に失った恐怖も、自分をこんな目に合わせた相手への怒りも既に失われていた。
飢えを満たす、その感情が他の全てを塗りつぶした。
今は一刻も早くこの血を追い、そして今もなお血を流し続けている獲物を食らいたい。食欲を満たすその本能だけで巨大な体躯を動かしていた。
視力を失ったことで何度も障害物にぶつかるが、溢れ出る食欲がその足を止めさせない。
視力が失われてから、嗅覚が鋭くなったウッドベアー。
この森の中に限るなら、どこへ行こうと獲物の位置を特定できるほどの嗅覚。
『グゥゥ……』
少しずつ、少しずつ獲物との距離が縮まっていく。
獲物が移動している気配は無い。
力尽きたのだろう。森に現れた人間を何度も食べたウッドベアーは、人間がどれだけ傷を負えば死ぬのかを大体理解している。
自分が奮った爪は獲物に深々と突き刺さり、その命をほぼ奪った……はずだ。
だが、突然立ち上がり、自分の下から逃げていった獲物に対する疑問はあった。
確かに自分の爪は相手の命を奪う寸前までいったはずだ。
それなのに獲物は自分の前から逃げおおせた。
その疑問は頭の隅に残っている。
しかし、その疑問は一気に濃密になった血の匂いを前に霧散した。
近い。
邪魔な枝を体で圧し折り、開けた場所に出た。
その空間を濃密な血の匂いが包んでいる。覚えのある2つの匂いで満ちている。
すぐ近くに獲物がいる。
視力があったならば、既に捉えている距離に。
ウッドベアーはその血に向かって、一目散に進んだ。
勢いよく進んだせいか、木の幹に頭をぶつける。
だが見つけた。
今自分が頭をぶつけたこの木。そのすぐ下に獲物がいる。自分の手が届く距離に獲物がいる。
自分の目の前に獲物がいる。
「……すぅ、すぅ」
獲物は穏やかな寝息を立てていた。
先ほどまで死に掛けていたはずの獲物だが……そんなことはどうでもよかった。
今目の前に獲物がいて、食らいつける。重要なのはそれだけだ。
血の匂いは2つ。自分が爪を振るったときと同じように、2匹の獲物が折り重なるように倒れているのだろう。
どちらを先に食べようか。まだ目があったとき、メスの方が旨そうに感じた。男の方は色白で肉も薄く、旨そうには思えなかった。
先に旨そうな方を食べるか。それとも旨そうな方を後にとっておくか。
獲物を前に舌なめずりをする。
交互に食べるのはどうだろうか――頭に浮かんだその考えは非常に魅力的だった。
交互に食べれば味を比べることができて、旨い方がより旨く感じるだろう。
その素晴らしい提案を行動に移すため、ウッドベアーはその巨大な口をバクリと開いた。
目の前にある獲物の肉を食いちぎろうと口を近づける。
『ハァァ――ゴガァッ!?』
その瞬間、上から落ちてきた何かが自分の頭に突き刺さった。
それは頭蓋を守る木を貫き、頭の中をかき回しながらズブズブと埋まった。
今まで感じたことのない痛みと異物が頭の中に入ってくる不快感に、ウッドベアーは悲鳴のような咆哮をあげた。
▼▼▼
『ガァァッァァァァァァァーーー!?』
目の前には頭のてっぺんから、剣の柄を生やしたウッドベアーの姿。
あの柄は俺が突き刺したミリアの剣の柄だ。
成功した。何とかヤツに致命傷を与えた。
「し、死ぬかと思った……」
俺は地面に座り込み、未だドキドキと鳴り止まぬ心臓を押さえながら、先ほど自分がいた場所――木の上を見上げた。
横になったミリアのすぐ側に生えていた長い木だ。
10メートル以上あるその木に登り、先ほど飛び降りたのだ。
登る時は木に血で杭を打ち込み、電信柱のようにして登った。
俺の体重と落下速度を加えた一転突破の一撃は見事にウッドベアーの脳天を貫いた。
飛び降りるときは流石に緊張したが、ウッドベアーが口を開いてミリアに食らいつこうとしたので慌てて飛び降りた。
そして見事ウッドベアーの頭頂部に落下、血を纏ったミリアの剣を突き刺すことができた。
固い木の鎧を纏ったウッドベアーを貫くために考えた作戦はどうにか上手くいった。
代償として突き刺した時に腕を、地面に落下した時に足を骨折したが安いものだろう。
これで流石のウッドベアーも――
『ガアアアアア! グガアア!』
お陀仏……にはなっていなかった。
頭をぶち抜いて頭の中を貫いたはずなのに、まだ殺気を振り撒いたまま暴れている。
四つん這いの状態から立ち上がり、滅茶苦茶に爪を振り回している。
俺は落下の際に折れてしまった足を引きずりながら、爪が届かない背後に回った。
「まだ死なないのか……」
ウッドベアーが倒れる気配はない。
今は先ほどの奇襲で混乱しているからいいが、このままだといずれ正気を取り戻し、目の前で眠っているミリアを食ってしまうだろう。
囮にするため、俺の血をたっぷりかけておいたミリアはヤツの鼻にぷんぷん匂っているはず。
「なら次だ」
この攻撃で仕留められなかったときの手段は考えている。
それを実行しようと、背を向けるウッドベアーに声を放った。
「おいこっちだ!」
ウッドベアーの巨体が俺へと向けられた。
改めて感じるが……でかい。自分より大きいものへの本能的な恐怖を感じる。
その恐怖をかき消そうと声を張り上げた。
「こっちだ! 俺はこっちにいるぞ! 来い!」
少しずつ後退しながら、声を発し続ける。
ウッドベアーが背後のミリア、目の前の俺を迷うように見た。
2人分の血に塗れた獲物と突然現れて叫ぶもう1人の獲物。俺に血は付着していない。木の上のいることを気づかれないように血液操作で、体に付着していた血を取り除いたからだ。
血の匂いのない新たな獲物の登場は、ウッドベアーに混乱を与えているようだ。
『グゥゥゥ……』
だがゆっくりと俺の方へと進み始めた。
優先順位を俺にしたのだろう。
ズンズンと地を揺らしながら、歩いてくるウッドベアー。
致命傷を負ってなお感じる圧倒的な恐怖が目の前に迫ってくる。
骨折のせいでゆっくりとしか後退できない俺の鼻先をウッドベアーの爪が振るわれる。
もしウッドベアーに視力があったら、俺はとっくにミンチになっていただろう。
ウッドベアーは目の前に飛び回る蝿を蹴散らすように、めちゃくちゃに爪を振るってくる。
後ずさりする俺、それを追うウッドベアー。
キャンプ地から少し離れた見覚えのある場所にたどり着く。
目的の場所だ。
『ガァ!?』
突然、ウッドベアーの巨体が前のめりに倒れた。
足元には穴。
その穴に足を引っ掛けたのだ。
勿論俺がさっき掘ったわけではない。そんな時間はなかった。
この穴はミリアがキャンプをする時に掘ったトイレ用の穴だ。
ここへ誘導してきたのだ。
ゆっくりと俺の体を押し潰す勢いで倒れこんでくるウッドベアー。
俺は転倒予測地点から慌てて後退した。
地面に倒れるウッドベアー。
その瞬間、穴の周囲に撒いていた自分の血を《血液操作》で動かした。
鋭いスパイクを何本も形成する。
血でできたスパイクだ。名前を付けるなら《ブラッドスパイク》だろうか。
『ガクァッ』
ウッドベアーの体が血でできた剣山に倒れこむ。
固い木の鎧はブラッドスパイクを物ともせず圧し折ったが、生身の部分。ミリアが砕いて鎧が失われた心臓の部位には深く突き刺さった。
自身の体重によりズブズブと根元まで突き刺ささってく。
『ガッ、カフッ……ガァッ……グゥッ……』
倒れ付し、スパイクを体に突き刺したまま、暴れていたウッドベアーだが、暫くして沈黙した。
暴れていた四肢が動きを止める。
目の前には地面に倒れ付すウッドベアー。
「……やったか。やったよな? 死んだよな?」
ウッドベアーを倒した。
なんとか……倒した。
一応この作戦が失敗した時のことも考えていたが……とにかくこれでヤツは死んだ。
安堵感に体の力が抜け、そのまま倒れて眠ってしまいたくなる。
だが、死んだとはいえ、さっきまで自分を食おうとしてたヤツの隣で寝たくない。
俺はウッドベアーの死体に背を向けて歩き出した。
キャンプに戻り、ミリアの様子を確認する。
すぐ近くで死闘が行われていたのも知らずに、未だ穏やかな寝息をたてていた。
あどけない寝顔を見ながら、暫く休憩することにする。
骨折が癒える頃、寝息をたてていたミリアの口から、言葉になっていない小さな声が紡がれた。
「んん……」
どうやら目を覚ますようだ。
瞼がぷるぷる震え、少しずつ開いていく。
両の眼が開かれ、その眼が俺の姿を捉えた。
蒼と金のコントラストに見つめられる。
ミリアはぼんやりとした寝起きの表情で俺を見ていた。
「……えっと。おはよう……ございます?」
「ああ、おはようミリア。体の調子はどうだ?」
「へ? 体です? いえ、これといって特に問題は……あれ? そ、そういえば私……何で? 確かウッドベアーに……あれ?」
死の間際から目覚めたせいか、あまり記憶がハッキリしないようだ。
「わ、私……確かにあの時死にそうになって、ハイガさんに遺言とか残して……あれ!? け、怪我もなくなってるです!?」
ペタペタと自分の体に触れる。勿論そこに傷はない。
ただボロボロになった皮鎧があるだけだ。
今気づいたけど、ボロボロになった皮鎧の隙間から地肌が見えて、こう……フェチ的なエロスを感じる。
ミリアは顔を真っ青にしてこちらを見た。
「死んだと思ったら怪我もなくなってる……。えっと、えっと……あ、あの……もしかして、ですけど――こ、ここって死後の世界だったりします?」
「ぶふっ」
「何で笑うんです!?」
あまりに突拍子のない発言だったので、思わず笑ってしまった。
ミリアが体を起こし、涙目で俺を睨みつけた。
まあ、ミリアが勘違いしてもおかしくはないか。
自分でも死を覚悟するほどの傷を負って、目が覚めたら綺麗さっぱり傷はなくなっていた。
死後の世界で目を覚ましたと勘違いしてもおかしくない。
さて、どうやって説明したものか。
俺がミリアへの説明を考えていると、突然ミリアが恐ろしい幽霊でも見たような表情で俺を見た。
「どうしたミリア?」
「ウ、ウッドベアー……」
「ウッドベアー? ああ、アイツなら倒したよ。トドメを差したのは俺だけど、ミリアがダメージを与えてくれたから何とか勝てたんだ。俺達2人の勝利だ。俺達は勝ったんだミリア! よしハイタッチでもするか? いえーい、ハーイタッチ!」
「……っ!」
テンション高めの俺は両手をあげてミリアのタッチを待つが、一向にミリアからのタッチはない。
この世界にハイタッチの概念はないのか?
だったら俺がその概念を広げるのもいいかもな。よく『いただきます』の風習を広げる小説は見るけど、ハイタッチを広げるのは見たことにないし。
俺の口から勝利の報告を聞いたミリアだが、その表情は変わらず恐ろしい物を見る目で、パクパクと口を開閉させながら俺を見ていた。
いや……俺の背後を見てるのか?
ミリアが見ているのは、俺の背後だ。
「さっきから何を見て――」
ゆっくりと自分の背後を振り返った俺は絶句した。
そこにウッドベアーがいた。
顔面の半分を潰され、もう半分からは血の涙を流し、頭から剣の柄を生やし、心臓がある部分に赤い棘を生やしたウッドベアーが立っていた。
2本足で立って、静かにこちらを見ていた。
光のないその目からは、こちらを食ってやる――その執念だけが感じ取れた。
「マジかよ……」
嘘だろ……。
あんだけやってまだ生きてるとか、信じられない。
立っているのもやっとのはずだ。
頭と心臓、2箇所の急所に致命傷を負っているんだ。仮に生きていたとしてもそんな体で動けば、死期が近づくのを獣だって分かるはず。
それほどまでに俺達を食いたいのか。
ここまで来るとその執念には尊敬の念すら浮かんでしまう。
だが尊敬している場合ではない。
この距離はマズイ。この距離は完全にヤツの射程範囲だ。
逃げようにも背後には目が覚めたばかりのミリアがいるし、そもそも移動しようにも俺の足は折れている。
『クハァァ……』
ウッドベアーが前足を下ろしながら、巨大な口を開いた。
位置的に俺の頭がバックリ召し上がられる距離だ。
このままだと確実にやられる。
俺の脳裏に最後の手段が浮かんだ。
高所からの飛び降り奇襲、罠に続く――3つ目の対抗策。
できることなら選びたくなかった最後の切り札だ。
今、この瞬間にその切り札を切らざるをえなくなった。
背後のミリアには見られたくなかった方法だが……そうは言ってられない。
近づいてくるウッドベアーの口。
鋭く尖った牙、粘ついた口内がはっきりと見える位置まで来た。
「これでも――食らえ!」
俺は覚悟を決めるようにそう叫び――自分の右手を突き出した。
ウッドベアーの口内を殴りつけるように、右手を差し出す。
『ガァッ!』
バクンと。
俺の右手、肘から先が飲み込まれた。
さっき見えていた鋭い牙が、腕に沈み込んでいくのを直に感じる。
ブチブチと嫌な音が体を通して聞こえる。
少しずつ、自分の腕が切り離されているのを感じる。
「ハイガさんッ!」
すぐ後ろからミリアの悲鳴が聞こえた。
平気だと返したいが、流石にそこまで余裕は無い。
目の前で飲み込まれる自分の腕と、その腕から伝わってくる痛みを無視して、右腕に力を込めた。
《血液操作》
今この瞬間に飲み込まれている右腕。
そこから毀れだす大量の血を操作する。
イメージするのは剣だ。
ウッドベアーの口の中で剣を作り出す。
『ゴガッ!?』
作り出した剣が、何かに刺さる感触が伝わった。
喉に突き刺さったのだ。
そのまま更に力を込めて、剣を捻じ込む。
ズブズブと埋まっていく感触が伝わる。
固い鎧を纏っているウッドベアーだが、簡単に目を潰せたように内臓は普通の生物と変わらない。
中からなら、簡単に剣が通る。
俺の切り札はこれだ。
自ら食われ、中からウッドベアーに攻撃する。
精神的にも肉体的にもかなりキツイ作戦なので、できれば避けたかった。
『オゴッ、グゴッ、グッ』
閉じられたウッドベアーの口からうめき声のような声が聞こえる。
構わず剣を突き刺す。
奥の奥、更に奥まで剣を突き刺し――何か固い物に当たって止まった。それ以上進まない。
剣が喉を貫き、反対側、後頭部を守る木に到達したのだ。
『…………グ』
ウッドベアーは最後に小さくうめき声をあげて――死んだ。
巨体が横に倒れる。
ついでとばかりに俺の腕が持っていかれ、ぶつりと音を立ててちぎれた。
ズズンと地響きを立てて、倒れる巨体。その衝撃に砂埃が巻き上げられた。
「……」
「……」
暫くその巨体を見つめる俺とミリア。
静寂が森を包み込む。
「あっ」
静寂を破ったミリアの言葉は、ウッドベアーの体から溢れる粒子を見ての物だ。
魔物が死んだときに現れる魔魂。
プチゼリーやグラスラビットの物より遥かに大きいその光は、俺とミリアに降り注いだ。
光はミリアの体に吸収されるが、俺に降り注いだ光が体に吸収されることはなかった。
暫く俺の周囲を飛び回っていた光は、そのまま消える……と思いきや、ミリアの下へ向かいその体に吸収された。
今度こそウッドベアーを倒した。
さて、問題はここからだ。
「は……? え……な、なにが起きて……えっと……ハイガさんの腕が食べられて、ウッドベアーが倒れて……ふぁぁ……意味が分からないです!?」
色々なことが一度に起きて完全に頭をパンクさせているミリアに、何から説明しようか。
ていうかミリアの言い方だと、俺の手を食べたウッドベアーが食中毒を起こして死んだみたいだな。
まあ、とにかく……これで終わりだ。