VSウッドベアー~契約~
「なあ、ミリア。生きたいか?」
血に塗れ、今にも命を失おうとしている少女に、俺は問いかけた。
握った手は何の反応も示さない。
薄れ行く光を宿した瞳が不安そうに揺れた。
この状況で俺が発したこの言葉の意味を理解できない、そんな眼だ。
だから俺はもう1度問いかけた。
「生きたいか? 泥水を啜ってでも、死肉を食らってでも生き続けたい……そう思うか? 例え今の自分が自分じゃなくなっても、もしかして別の自分になったとしても……それでも生きたいと願うか?」
揺れるミリアの瞳が、俺の瞳を見つめる。
俺の心の覗くように、その意思を持った目が貫いてくる。
ミリアの瞳は俺の言葉の真意を読み取ろうとしていた。
だから俺は瞳で応える。
嘘偽りない気持ちを込めて。
ややあって、ミリアが口を開いた。
「わたし……げほっ! かふっ、こふっ!」
開いた口から血が吐き出された。
ミリアの体から零れ落ちた血で池ができていた。
「いい。口に出さなくていい。頷くか首を横に振るか。それだけでいい」
「……」
ミリアは口を閉じ、そして……深く頷いた。
俺の瞳をジッと見たまま、その瞳に俺への信頼を浮かべて、頷いた。
頷いてしまった。
「そうか……」
安堵と共に取り返しのつかないことをしてしまった後悔の感情が胸に満ちた。
だが、これで……契約は成った。
ミリアは生きたいと願った。
例え泥水を啜ろうが死肉を食らおうが、人間じゃ無くなろうが――生きたいと願ったのだ。
ならば俺はそれに応えなければならない。
誘いかけた悪魔として、責任を持って彼女をこちら側に引きずり込まなければならない。
失敗は決して許されない。
「少し苦しいと思うけど、すぐに終わる」
そう言いながら彼女の体、腹部の辺りを跨いだ。
横になったミリアに体重をかけないように、膝をつく。
そのまま両の手をミリアの頭の横に置いた。
実験と称してミリアの血を吸おうとした時、ウッドベアーから逃げる時……この体勢になるのはこれで3度目だ。
ミリアが俺から視線を逸らすことなく、真っ直ぐ見つめてくる。
「……」
「目を瞑るんだ」
大人しく、その目を閉ざすミリア。
その首筋にゆっくりと顔を寄せていく。
露出したミリアの首筋。
誰も踏み入れていない雪原のような、傷ひとつない白い肌。
俺は彼女の命を救うことができる喜びと、これから彼女を汚す仄暗い悦びを懸命に抑えつつ、口を開いた。
自身の牙をミリアの首筋に触れさせる。
「んっ……」
冷たい牙が触れ、ビクリとミリアが体を震わせた。
構わず、その牙を少しずつ、雪原のような首筋に埋めていく。
つぷつぷと沈んでいく牙。
「あっ……ああ、あっ……」
ミリアの口から、熱に浮かされたような声が漏れ出る。
ともすれば快楽に身を震わせているような声。
実際に吸血鬼の吸血には快楽が伴う。
今、ミリアは死の寸前でありながら、自身に感じたことの無い快楽を味わっているはずだ。
牙を埋めた穴から、じわじわと血が滲み出て来る。
それを一滴も漏らすことのないように、口で塞いで啜った。
「うぁ……はぁぁ……んっ」
パックの血とは違う、指先から飲んだ血とも違う――本当の意味での血が口内を満たす。
空気に触れることなく、直に注ぎ込まれる血液。
純粋なる血液。
味わう度に、自分が吸血鬼であると自覚する、魂の喜びを感じる。
他の生物には味わえない吸血鬼だけの特権。体中が煮え立つような魂を奮わせる快楽。
他者の血を取り込み、自身への供物とする行為。
魂の燃料である血がくべられ、全身が発火しそうな熱さに包まれる。
この熱にいつまでも浸っていたい、それこそ永遠に。
ミリアの血を吸い続ける、それだけで世界が完結して欲しい。そんなことを考える。
「はぁっ……んっ……あぁ……」
とろけた様なミリアの声にハッと意識を取り戻した。
久しぶりの吸血に、思わず夢中になってしまった。
このままじゃ、ただの食事だ。
ミリアを生かす為に、彼女を人ではない存在に変えなければ。
俺は彼女に埋めた牙を通して、彼女の体の中に触れた。
血を遡り、彼女の奥底へ沈んでいく。
奥の奥、心の更に奥へ。
人間の最も奥底にあるブラックボックス。魂の燃料、命の根源である血液のみが触れることができる『それ』にアクセスした。
既に契約は取り付けている。
何の障害も無く、ミリアの一番奥底にある箱を開いた。
箱の中から莫大な量の情報が溢れ出てくる。
今一瞬触れた光は、彼女の記憶だろうか。温かく、そして懐かしい手触り。
心地よいそれらをかき分けるようにして進み、目的の物を発見した。
力強い光を放つ光。
ミリアが人間という種であることを証明する光だ。
そんな宝石のような光を血液で包む。
包んだ光をじっくりと組み替えていく。
人間という種を根底から作り直す。
パソコンで例えるならハッキングだろうか。どう言おうと侵略行為以外他ならない。
人間を人外へ堕とす悪魔の所業だ。
じっくりと数日かけて、現実時間では1分もかからず組み替えは終わりに近づいていた。
「あぁぁぁっ……! はぁぁぁっぁぁぁぁ……っ」!
自分の体が魂から変化する感覚はどんなものなのか。
分からないが、それは激痛を伴うはずだ。
ミリアの体は先ほどの快楽に身を委ねていたそれから、激痛に身を捩り暴れていた。
全身を使って組み敷くようにして、ミリアの体を抑える。
「――」
そして……終わった。
ミリアが先ほど暴れていたのが嘘のように静まり返った。
完全に意識を失っている。
俺は彼女の首筋から牙を抜き、立ち上がった。
ミリアを見下ろす。
特に変化は見えない。だが確実に変わったはずだ。成功していればの話だが。
手を使い閉ざされたミリアのまぶたを開く。
左目――変わらず蒼い。
右目――金色の瞳。俺と同じ金瞳に変化していた。
成功だ。
これでミリアは人間ではなくなった。半分とはいえ俺と同じ、こちら側に足を踏み入れたのだ。
今のミリアは半分が人間で、半分が俺と同じ吸血鬼。そういう存在になった。
そのことに寂しさを感じてしまうのは俺の我侭なんだろう。
彼女には人間のままで居て欲しかった。人間のまま生きる彼女の横を歩き、純粋な人間らしく成長していくのを見たかった。
だが一方で彼女をこちら側に引きずり込み、自分の手の届く範囲に置いたという所有欲染みた悦びも感じる。
彼女にしてしまったこと。それに対する感情が天秤を揺らす。
この天秤は彼女と共にある限り、揺れ続けるのだろう。
ともかく。
これで取り合えずの危機は脱したと言ってもいい。
ミリアの呼吸は落ち着いている。
半吸血鬼となったことで、治癒力が上がっているのだ。
後は――
「……っ」
俺は自分の右手の人差し指に牙を突きたてた。
食い破るように傷をつける。そのまま溢れ出る血液ごと指をミリアの口に突っ込んだ。
「……んむ」
生暖かい感触に指が包まれた。
最初戸惑うように触れるだけだった舌が、次第に貪欲さを見せ絡まってくる。
妙な快感と共に指が吸われる。
ミリアは無意識ながら俺の血を吸い、喉を鳴らした。
ミリアが俺の血を取り込むにつれ、彼女の痛々しい傷跡が癒えていく。
まるでリモコンの巻き戻し機能の様に、傷が塞がっていく。
完全に傷が塞がったところで、指を引き抜いた。
ミリアの舌が追うように指を追いかけてくるが、すぐに口の中に引っ込んだ。
「……やれやれ。これで大丈夫か」
ミリアは完全に回復した。
体の変化と急激な傷の治療によりまだ意識は戻らないだろうが、近いうちに意識を取り戻すはず。
そしてミリアの血を直に吸ったことで、俺の傷も癒えた。失われた内臓も骨も皮膚も完治している。
残る問題は――
「ウッドベアーか」
完全に視力を失ったはずのウッドベアーだが……こちらに近づいてきている。
ゆっくりとだが、確実にこのキャンプに向かってきている。
ウッドベアーが流す血の匂いが、少しずつ濃くなっている。
こちらに近づいている証拠だ。
視力を失っているのに何故真っ直ぐここへ向かっているのか。
「血、だろうな」
ウッドベアーを誘き出す際、アイツは血の匂いに誘われているように見えた。
恐らくはかなり嗅覚が鋭いのだろう。
視力を失ったことで更にその嗅覚は増しているはず。
俺とミリアの血の匂いをどこまでも追いかけてくる。
逃げることはできない。
夜になるまでこの森を出ることはできないし、森の中を1日中、意識を失っているミリアを連れて逃げる自信はない。
となれば方法は一つだ。
戦うしかない。
戦ってあいつを殺すしかない。
だが勝てるのか。手負いとはいえ、レベル差が10近くある俺に、あの化物を倒せるのか。
と、そこであることを思い出した。
レベルだ。先ほどミリアの血を吸ったのだ。
仮説通りなら、レベルが上がってるはず。
■■■
名前:ハイガ
レベル:5
スキル:血液操作
■■■
どうやら仮説は正しかったようだ。
何故かレベルが2も上がっている。直に血を吸ったせいだろうか。
それよりも注視する部分があった。
スキルだ。
スキル《血液操作》。何も無かったスキル欄にそれが増えていた。
「血液操作……なるほど」
血液操作、それは俺にとって非常に馴染み深い能力名だ。
元の世界において、吸血鬼の能力は成長して行く度に増えていった。
いつどんな能力を覚えたかなんて、はっきり覚えていない。
だがこの《血液操作》だけは違う。
俺が吸血鬼として生まれて、初めて手に入れた能力だ。
その使い方は他のどんな能力よりも熟知している。
未だ右手の指から流れ続ける血液。それに力を込める。
「よし、まだ覚えてるな」
流れ出るだけだった血液が凝固した。考えた通りに四角、丸、三角……と形を変えていく。
「武器になるか?」
ウッドベアーと戦うとしても俺には武器が無い。
棒切れは投げ捨ててしまったし、ミリアの剣は砕けている。
血液を操作し、剣――ミリアの物と同じ剣を作ってみた。
「うん。見た目は……そっくりだな」
ミリアの剣と寸分違いない、真っ赤な剣が右手に握られた。
試しに近くの木を切りつけてみる。
「……ダメか」
木に小さな傷はできたが、それだけだ。更に作った剣は粉々に砕けてしまった。
威力も足りない。強度も足りない。
これじゃまともに武器として使えない。
「もっと頑丈な……」
と目に入ったのはミリアの剣だ。
刀身が途中で折れ、全体に皹が入っている。いつ粉々に砕けてもおかしくないボロボロの剣。
何となく思いついた発想を試してみる。
右手に剣を握り、血を剣に纏わせる。
皹を埋め、失われた部分を血で補強する。
出来上がったのは折れた剣を赤い血で覆っただけの剣だ。
だが、不思議と手に馴染む。
近くの細い木に切りつけた。
先ほどは弾かれ砕けた剣が、スっと木を通り抜けた。
遅れてその木が倒れた。
威力、そして強度も問題ない。
これならヤツと戦える。
「あとは……」
俺は周囲の地形を見渡しつつ、ウッドベアーを倒す為の作戦を練り始めた。