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異世界に渡った現代吸血鬼の生態~実践編~  作者: タクティカル
プロローグ 現代社会における吸血鬼の日常
1/19

異世界に来て3ヵ月の新米冒険者(種族:吸血鬼)だが、もう俺は死ぬかもしれない。

 とある街にある一軒の宿屋。

 その宿屋は恰幅のいい女主人が経営しており、毎日そこそこの客が訪れる。

 宿屋内にある食堂は泊まり以外の客も彼女が作るそこそこ美味しいお袋の味を求めやってきて、今日もそこそこ賑わっている。

 

 そんなそこそこの宿屋の一室。

 そこそこ掃除が行き渡った、そこそこ広い部屋。

 その部屋には2人の冒険者が宿泊していた。

 若い男と女。2人組の冒険者だ。

 2人は1月ほど前からこの部屋に宿泊していた。

 

 夜。2階にある部屋の外からは、食堂で酒を飲んで騒いでいる客達の声が聞こえていた。

 そんな部屋の中。


「どう……ですか?」


「……ああ、いい。そこが……いい」


 女の声と男の声。


 男と女は体を殆ど密着させ、女は男の体の一部を丁寧かつ優しい手つきで摩っていた。

 男を労わるように、慰めるような緩やかな手つきで。


 男はその手の感触を体に感じ、熱っぽい息を吐いた。

 苦しげにも聞こえる言葉にもならないものが口からこぼれでる。

 

 これだけ聞くと「なんだただのセッ○スか」と勘違いする人もいるだろう。

 だが違う。圧倒的に違う。

 

 まず男と女がいるのは宿泊している部屋、その中にある狭い一室――トイレだ。

 「へー、トイレでセッ○ス?」そう言いたいのは分かるが、まあ落ち着いて欲しい。断じて○ックスではない。


 男はトイレの便器を抱え込むように床に座り込んでいる。

 女はというと、そんな男を心配そうな表情を浮かべながら、体――背中の辺りを優しく摩っていた。


「おえええええ! げええええっ!」


 男は苦しげな声を出しつつ、抱え込んだ便器の中に色々なものを吐き出していた。。

 男はかれこれ1時間はこうやって便器と相撲をとっている。男は完全にグロッキーだった。

 女もそんな男に1時間近く付き合い、その表情には疲れが混じっていた。


「だ、大丈夫ですかハイガさん?」


 女――赤い髪を肩まで伸ばした少女が男の背を摩りながら言った。

 男――灰色の髪の青年の返事は「だ、だいじょ……うぶろろぉぉ!」という全然大丈夫じゃない返事だった。

 少女は慌てて背中を摩った。その表情に心配するものはあれこそ、嫌悪感などは見えない。

 献身的に男を介抱している。


「お、お医者さん呼びましょうか? 顔も真っ白で死んじゃうんじゃないかって、私心配で……」


「……い、いや顔が白いのは生まれつきだから」


 ひらひらと手を振って応える青年。

 青年がこうやって便器に向かってゲーゲーやっている原因は先ほど2人で食べていた夕食だ。

 

 今日は仕事が上手くいって思っていた以上に収入があったので、2人ともお祝いとばかりに普段よりも豪勢な食事を食べたのだ。

 宿屋の女主人の「お任せ料理」をこれでもかと堪能し、酒も結構な量を飲んだ。

 ならば原因は食べすぎか、飲みすぎか……違う。


「ニンニクめぇ……!」


 男は親の仇を見るような目で、自分を苦しめている食材の名前を忌々しげに呟いた。

 女主人が振舞った料理の中にたっぷりとニンニクを使ったものがあったのだ。

 男にとってニンニクは鬼門だ。名前すら聞きたくない代物である。


 普段ならば少しでもニンニクが入っているものならば即座に気づくのだが、今日は飲みすぎで嗅覚が完全にダメになっていた。

 そして不幸なことに、その料理は非常に美味だった。

 あまりに美味だったので、調子に乗って3回もおかわりをしてしまった。

 こんなに美味しい料理を食べることができる自分は、きっと特別な存在に違いない。そんなことを考えてしまうほど男の舌にベストマッチした。


「おろろろろろォォォッ!」


「は、はわわ……!」


 その結果がこれだ。

 食事を終えて部屋に帰ってきたとたん、体が時間差で拒否反応を起こした。

 慌ててトイレに飛び込み、リバースアンドリバース。

 そして1時間が経ち、今の今までトイレに篭もっている。


「はぁ……はぁ……ごめんな。こんなことさせて」


「なに言ってるんですかハイガさん! 私、ハイガさんのためなら何だってします! あの時ハイガさんは私の命を助けてくれたんですから、これくらいさせてくださいっ」


「うう……」


 少女の心からの献身的な言葉が男の胸を打つ。

 すっかり疲れ果てて身も心も弱った男の心に、少女の言葉は甘露のように甘く染み渡った。

「本当にこの子はいい子だ。絶対に幸せにしてあげよう」男は改めてそう誓ったのだ。


 それはそれとして、今は少しでも楽になりたい。

 少女を幸せにするのは後日にして、好意に甘えることにした。

 

「ぜー……はー……み、水を……」


「はいっ! す、すぐに取ってきますね!」


 少女がパタパタと慌てた様子でトイレから出て行く。

 胃の中がすっかり空っぽになって、やっと気分がマシになった男は、便器に手を付き、ゆっくりと立ち上がった。

 さぞ、酷いことになっている自分の顔を見ようと、正面にある鏡を見る。


「……ふぅ」


 そこに映っているのは灰色の髪の男――ではなく、鏡の中には何も映っていなかった。

 無人のトイレしか映っていない。

 男は鏡に映っていなかった。


 ニンニクに拒否反応、そして鏡に映らない。

 この2点で男がいわゆる『吸血鬼』であることに気づく人間はそれなりにいるだろう。

 吸血鬼という存在は、創作物の中にも頻繁に存在するメジャーな怪物だ。

 レンタルビデオ屋に行きホラーコーナーに行けば、腐るほど吸血鬼を題材にした作品があるだろう。

 それくらいに有名な存在だ。


 だが、それは男がいた『元の世界』であればの話だ。

 『この世界』に男が吸血鬼であることに気づく人間はいない。

 この世界にはそもそも吸血鬼という存在がいないからだ。


「……しかし、もう3ヵ月か」


 男は口を拭いながら呟いた。

 男――ハイガが元の世界とは全く違う、ゲームや漫画の中でしか存在しない剣と魔法の世界にやってきて3ヵ月。

 長いようで短い、密度の濃すぎる3ヵ月だった。


「色々あったなぁ……」


 脳裏に浮かぶはこの3ヵ月の日々。

 こうやってそこそこの宿屋でそこそこの食事を食べて、たまに今日のように贅沢をする――そんなそこそこの生活基盤を築いているハイガだが、ここまで来るのにそれなりに苦労をした。

 自分は生きていた世界とは全く法則が違う世界で、こうやって安定した生活を送るまでに味わった苦労の数は両の手では足りない。


 そんな苦労の日々を思い浮かべる。

 

 まず思い浮かぶのは、3ヵ月前。自分がこの世界に来ることになった出来事だ。

 たった3ヵ月前のはずなのに、何年も昔のように懐かしく感じる。

 

「あの日は何してたっけ」


 あまりに濃すぎる3ヵ月の日々に、薄れ掛けていた記憶をゆっくりと思い返す。

 

「そうだ。確か……あの日は自分の部屋でネトゲしながらアイツとチャットしてて……」


 薄っすらと浮かんでくる3ヵ月前の記憶。

 その記憶に浸ろうと目を閉じ――


「お待たせしましたー!」

 

 バーンという音と猛烈な勢いで開かれたトイレのドア(内開き)で背中を強打し、再び便器を抱えることになった。

 ドアを開いた赤髪の少女は、トイレから出たときと同じく便器を抱えて呻いている男に早く水を届けようと駆け寄った。


「ハイガさん! お水ですー! ――きゃっ」


 急いでいたせいか、トイレの入り口にある小さな段差でつまづいてしまう。

 何とか反射的に壁に手を付き転倒は免れたものの、手に持っていた水の入ったコップを手放してしまった。


 宙に舞うコップ。コップからこぼれおちる水。

 コップに入っていた水は飛び散り、まるでレーザー光線のようにハイガに降り注いだ。


「ぎゃあああああああ!」


 肌の露出している部分に降り注いだ水が、ジュージューと白い煙をあげて蒸発した。

 吸血鬼は流水に弱い。吸血鬼にとっての流水は、いわば塩酸のようなものだ。


 ハイガは肌にタバコの火を押し付けられたような痛みを感じ、悲鳴をあげた。

 その悲鳴を聞き、こちらも悲鳴をあげながらパニックに陥る少女。


「わ、わあああ!? だ、大丈夫ですかハイガさん!? い、一体何が――火事!? 火事なんですか!?」


 狭いトイレに満ちる煙を見た少女が勘違いをした。

 

「み、水! 水持ってきます!」


「ま、待って――」


 そしてハイガの静止の声も届かず、勘違いそのまま再びトイレから出て行き、すぐに戻ってきた。

 その手にあるのは先ほどのコップとは比べ物にならないほど大きい――バケツだ。

 少女が両手で何とか抱えることができる大きさのバケツに、なみなみと水が注がれていた。

 

「あっ」


 痛みを堪えながら、バケツを抱え駆け寄ってくる少女を目撃し、何かを察したハイガ。

 何百年と蓄えられた経験と直感がハイガに危機を囁く。

 

(……あかんわ、これ死ぬやつだわ)


 ハイガの予想通り、少女は同じ場所で再びつまづき、バケツがくるくると宙を舞った。

 先ほどとは比べ物にならない量の水がハイガに襲い掛かってくる。

 さっきのコップに入った水が小石だとしたら、今度は巨大隕石だ。

 隕石が濁流のようにハイガに殺到する。


 その時ハイガの脳裏には先ほど思い浮かべようとしてキャンセルされた、3ヵ月前の記憶がハッキリと思い浮かんだ。

 

 いわゆる走馬灯である。


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