29 リーゼリン
振り返りたい。
いますぐ、駆け戻りたい。
その気持ちが刃のように彼女の心を苛んでいる。
それでも、リーゼリンは歩みを止めなかった。初めて心から愛しいと思った相手から去る道行きを。
デロス王子が目を付けている以上、このままジョウの傍に居れば害が及ぶ。自分が傍にいない方がいい。王女の矜持で涙を堪え、それでも流れる涙を雨に紛らせリーゼリンは歩いた。
そこで、おかしなことに気が付いた。
自分の涙は雨に隠れている。
それはおかしなことだった。
傘をさす侍女が居ない。護衛も居ない。
ライト工房は校舎から少し離れた位置にある。
辺りには誰も居なかった。
王族であるリーゼリンが一人で居るなど有りえない。それが起こっている。
侍女の名を呼ぼうとした時、樹々の陰から数人の男子生徒が出て来た。制服の上に雨除けの外套を被っている。
「困りますね、リーゼリン殿下。デロス殿下から警告されていたでしょう?」
頭目らしき一人の生徒が前に進み出る。
リーゼリンは驚きと恐怖に顔をしかめたが、毅然と言い返した。
「無礼者。道を開けなさい」
「王女様であっても、デロス殿下の意志に反する者を放置はできないんですよ。我らデロス殿下陣営の貴族子弟でして。そう命じられているわけです」
「な、なにを」
「リーゼリン殿下には危害は加えませんよ。我らが派閥のパーティに参加していただく。それだけです。そうすればリーゼリン殿下がデロス殿下の陣営に居られることを世間に示すことができる。我が派閥の気勢もあがるというものです。ぜひ、ご同行頂きたい」
「王族たる私にそのようなことを命じると? あなたは何をしようとしているのかわかっているのですか!」
「あくまでリーゼリン殿下には、自主的に我らの宴へとご参加を賜るわけです。そうすればケイン殿下もデロス殿下の本気を思い知られるでしょう」
「卑劣な……」
「パーティの間に、あの成り上がり男爵も懲らしめておきましょう」
「やめなさい! ジョウは関係ないのです!」
リーゼリンは思わず叫んでいた。
「ほう。庇い建てしますか。しかし、やつには調子に乗られたままでは困るのです」
その様子から彼らが古い貴族達の一派なのだとわかった。デロスの派閥に加わって既得権益を保持せんとしているのだ。
「やめて! 彼は関係ありません。私はデロス兄上の言う通りにします。今、私はジョウに別れを告げてきました。もう工房に行くことはやめると。だからどうか彼には手を出さないで!」
それはリーゼリンにとって悲しく恥辱に塗れた行為だった。秘した自分の恋を他人である彼ら卑劣な者達に告白するようなもの。
だが、それよりもジョウのことが大事だった。
「ほう。さようですか」
「何処へなりとも参りましょう。デロス兄上にも伝えなさい」
「ご案内しましょう。おい。殿下が雨に濡れたままでいらっしゃる」
そう言うと震えながら侍女が木陰から出て来る。
リーゼリンに一瞥されると、小さく悲鳴を上げて後ずさり転んだ。
「おい。泥が跳ねたではないか!」
「しっかり立て」
男子生徒が忌々し気に侍女を助け起こす。
その時、リーゼリン手はポケットの中のそれを掴んでいた。
ジョウ!
リーゼリンはそう心で叫びながら、その魔道具の紐をひっぱると彼らに向かって投げる。説明書にあった通りに、自身は後を向いて目をぎゅっと瞑り、両耳を手でふさいだ。