28 雨の庭
今日はライト喫茶店――じゃなくて、わが魔道具研究所ライト工房には誰も居なかった。
俺はコーヒーを飲みながら、静かに降る雨に濡れる庭を眺めている。霧雨に庭は煙り、ぼんやりとした光の中にいるようだ。
チルノさんとミーミシアさんは、町のギルドへ出かけているし、リーゼ殿下もケイン殿下も一週間ほど忙しいらしく来ていない。
一人でぼけっと過ごすのは久しぶりだ。
生活は安定している。
前世知識を活かした魔道具製作も順調だ。
特約店も順調。むしろ、レッツ共和国の方が商売がやりやすいので、規模が恐ろしい程に拡大している。
学園内では俺が魔道具製作で大儲けしていることが広まって、財産目当ての生徒がわらわらとよって来たけれど、俺の傍にはケイン殿下とリーゼリン殿下が居るわけで、そういった連中は王族の前でうかつなことも出来ずに去って行った。
実に平和だ。
ふと、学園を卒業した後のことを思う。
具体的にはリーゼリン殿下のことだ。
俺は財産はあるが男爵の身だ。このまま楽しく過ごし、学生時代の思い出としてしまうのか。それが当たり前なのだと、頭では分かっている。
でも。
高嶺の花を手に入れるために、どうあがいたらいいんだろう。
そんなことをぼんやりと考えていた。
防犯魔道具が鳴った。
この反応は敷地内に登録済みの人が入って来た合図だが、しばらくたっても屋内に入ってこない。どうしたのかと窓辺に行くと、侍女に傘をさされたリーゼ殿下が庭の中に佇んでいた。その表情がとても悲しそうで、俺は急いで外に出た。
「リーゼ殿下。どうしたんですか」
「ジョウ。傘も差さないで」
「えっ。あ、あれ」
そこで俺は傘もさしていないことに気が付いた。
「濡れてしまいますよ」
侍女から手に取った傘を俺に差し出してくる。
「あの、それではリーゼ殿下が」
「ではもっと近くに来てください」
「え、ええ?」
今日のリーゼ殿下はどうしちゃったんだんだろう。
いつもと違うリーゼリン殿下に混乱する俺へ彼女は距離を詰めて来る。傘を受け取って殿下に差し掛けた。視界の端で侍女が庭の端まで離れるのが見えた。
「はじめてこの庭を見た時のことを思い出していました。あなたが作った庭なのに私ったら。ふふふ」
近いです、と言おうとした俺にリーゼリン殿下は寂し気な顔で笑った。
「どうしたのですか。何があったのです」
「何も。ただ、これを受け取ってください」
差し出されたのは一枚のハンカチだった。
「殿下がこれを?」
小さな黄色のバラが刺繍してある。
「頑張りましたわ」
「ありがとうございます。さすが錬金術スキルだなあ」
俺は感心していた。
「錬金術?」
殿下はきょとんとした顔で俺を見ている。
「ほら、魔石の内部に魔道回路の銀糸を入れ込む練習しましたよね。その要領でで布に糸を通して……え、あ、あれ? 違うんですか。ほんとの刺繍?! すごい大変だったのでは!」
「私自身で刺繍しましたわよ!」
「うわっ。それは失礼しました! すごい。むしろ錬金術スキルを使わないなんて。素晴らしい出来です! ありがとうございます!」
「まったく……ふっ。はははっ。まったくジョウらしいわ。あははっ」
殿下は困ったように笑っていた。
「すいません。でも、嬉しいです。大切にします!」
どうしよう。王女殿下自ら刺繍したハンカチなんて使えないぞ。金庫の奥に大事にしまっておくべきだろうか。
「畏れ多いとか思わずに、身に着けていて」
バレてた。
「はい。そうします」
それからリーゼ殿下は静かに俺を見た。
やはり何かあったのではと聞こうとすると、ふるふると首を振ったので俺は何も言えなくなってしまった。
俺とリーゼリン殿下は霧雨に包まれるように、少し動けば触れてしまう距離で、ただ互いを見ていた。
どのくらいそうしていたのだろう。
「ジョウ。今だけでいいの。リーゼと呼んでくれませんか」
リーゼリン殿下がふいに言った。
「良いのですか?」
「お願い」
「はい。リーゼ……さん」
「もう一度。今度はさんも無しで」
「リーゼ」
「はい」
リーゼ殿下は儚げな微笑みを浮かべて応えると、そっと離れた。
思わず差し出そうとした傘がカーテシーで遮られる。
「ジョウ。さようなら」
どうしてそんな顔をしているのですか。
なぜ、いつものように「ごきげんよう」と言ってくれないのですか。
引き止めようとした俺の目の前で、彼女がふわりと踵を返す。何時の間にか侍女が傍に来て別の傘をさし出していた。
雨が降っている。
俺はその姿をじっと見送る。
彼女は振り返らず、ぼんやりとした霧雨の光の中を去って行った。
俺は工房に戻り、雨に濡れた体を拭こうとして頂いたハンカチを広げた。
刺繍は小さな黄色いバラだ。
意味が気になって、工房のマークを決めるのに参考にした資料で調べる。
花言葉は「小さいけれど大切な幸せ」とあった。
視線を上げると窓の向こうはまだ雨だ。
使えないハンカチの中のバラを手に、俺は彼女のことを考えていた。