5. 初講義
王立魔法学院では、入学後すぐに授業が始まる。
その日、アリアは朝食を終え、渡された時間割と構文ノートを手に、第一講義室へと向かっていた。
石畳を踏む靴音が廊下に吸い込まれていく。
白いローブの裾が風をはらみ、窓から差す朝の光が壁を青白く照らしていた。
「……ここ、で合ってるよね」
学院内はまだ慣れず、建物の構造も複雑だ。アリアは自分に言い聞かせるように小さく呟き、扉の前で深呼吸をひとつ置いた。
講義室の扉を押し開けると、すでに数名の生徒が席に着いていた。
その多くは貴族の子弟たちで、仕立ての良いローブや香水の匂いが薄く漂っていた。
その中に、アリアを見つけて目を丸くした少女がいた。
「……あっ」
栗色の髪をふわりと巻き、上品に整えたリボンで結んでいる少女――ミラ・アシュコームだった。
アリアと同じ中等生で、入試の成績によって話題になっていた人物のひとり。
アリアは目が合うと軽く会釈した。ミラも一瞬ためらったが、にこっと小さく笑って返してくれた。
ただ、それを斜め後ろから冷ややかに見つめる視線があった。
「へえ……なるほど。平民って、本当にいたのね」
柔らかく通る声で言ったのは、教室の奥で腰かけていた少女だった。
透き通るような金髪を肩に流し、淡い紫の飾り布を結んだ上質な制服。立ち居振る舞いからして、明らかに他の貴族たちとは格の違いがある。
ヘレナ・フェアファクス――王国の三大名家の一角に連なる、上級貴族の令嬢。
学院の中でも群を抜いて優秀とされ、すでに次代の筆頭候補とも囁かれている少女だった。
彼女の視線は、まるで冷たい水を垂らすように、アリアの姿を一瞥した。
「名前を出さずに入学してきたのは、慎ましさなのか、計算なのか……どちらにしても面白いわね」
その言葉に、教室の空気がわずかに揺れた。
アリアは言葉を返さず、空いていた最後列の席に静かに腰を下ろした。
胸の奥で脈打つものを抑えながら、そっと呼吸を整える。
(ここは……もう、礼拝堂の裏じゃない)
――自分の声と意志で、ここに来たのだ。
間もなく、黒いローブをまとった一人の教師が入室してきた。
中年の女性で、眼鏡の奥のまなざしは静かだが鋭い。長い棒で板書の代わりをするようだった。
「静かに。初講義を始める。私はリズベット・カーライル。この学年の構文と基礎魔法を担当する」
リズベットの声は淡々としていたが、その響きは教室の隅々まで届いた。
「この国における魔法とは、“神への祈りにより与えられる加護”と定義されてきた。
よって、魔法の本質は信仰にあり、構文とはあくまで儀式の“形式”にすぎない」
教室の数名が頷くのが見えた。だが、アリアの眉がかすかに動いた。
(形式……?)
リズベットは続ける。
「この学院では、魔法の構文を“再現する”ことを重視する。
構文の文型、発音、語順、抑揚。すべては正しくあってこそ意味を持つ。
心を込めるだの、感情がどうだのは、巷の迷信にすぎん」
「……」
アリアは、手元のノートに構文の骨組みを書きながら、視線を下げていた。
(たしかに、文型の順番は大切。でも……それだけじゃない)
火を灯した夜のこと。
祈祷文をなぞり、順序を守って唱えても、何度も失敗した。
けれど、願う気持ちが込もったとき、初めて火は灯ったのだ。
(構文は“型”。でも、力になるのは、それを通して何を“願う”か――)
講義の終盤、リズベットは板の上に三つの構文を記しながら言った。
「これらは今日の復習課題だ。構文の主語、目的語、動詞の順番を見直し、正しい“再現”に努めること」
淡々としたその言葉に、アリアはそっと視線をあげた。
彼女のノートには、構文の下に、小さな字でこう記されていた。
“式だけでは、届かない”
それは反発ではない。ただの独り言のような、彼女なりの答えだった。
リズベットが教室を去ると、ざわめきが戻ってくる。
「初日から、濃かったわね」「ヘレナ嬢、さすがの発言……」
「平民って、やっぱり本当に来たんだ……」
アリアは何も言わず、そっとノートを閉じた。
ただ、自分の中にひとつだけ、確かな手応えがあった。
(私は、ここでやっていける。……いや、やってみせる)
そう心の中で呟いたそのとき。
廊下で誰かが名を呼んだ。
「アリア、ちょっといい?」
振り返ると、そこには栗色の髪のミラ・アシュコームが立っていた。
さっきより少しだけ、距離の近い笑顔で。