4. 名もなき者の証明
春の朝。
王立魔法学院の白い城門が、重く静かに開かれる。
その門をくぐる新入生たちは、皆が揃って貴族の子弟だった。
刺繍の入った制服、金の留め具、光沢のある杖。
歩き方から言葉遣いまで磨き抜かれたその姿は、貴族階級が育んだ“格式”そのものだった。
その中で、アリア・ウォルフォードの姿は、あまりに異質だった。
色褪せたワンピースに古びた肩かけ、飾り気のない髪を束ね、手には短く削った筆記用具。
彼女は、今年度唯一の“平民出身者”だった。
そんな彼女の存在は、すでに噂になっていた。
「ほんとに、あの子が受かったの?」
「魔法を唱えられるってだけで……?」
耳に入ってくる声は、ささやきのようでいて棘を含んでいた。
アリアは、視線を避けず、ただ正面だけを見つめていた。
⸻
学院の講堂では、入学式が始まっていた。
天井の高い大聖堂のような空間に、ステンドグラスの光が差し込む。
壇上では、学院長と神官長が整然と並び、入学者の名を一人ずつ呼び上げていく。
「……アリア・ウォルフォード」
その名が響いた瞬間、講堂内に目に見えない波紋が走った。
静かなざわめき。
顔を見合わせる貴族の子ら。
壇上の神官長が、わずかに眉を動かす。
けれど、彼女の手には確かに合格証が手渡された。
「構文試験、実技試験において、独力での再現と詠唱を確認。――特例にて入学を認める」
それは、“平民であること”を言い換えた公式文言だった。
アリアは証を胸に抱き、深く頭を下げた。
その背中に拍手はなかったが、誰も口には出せなかった。
⸻
午後、初期能力の測定が行われた。
大講堂の中央には、魔法発動時の“痕跡”を視認するための特製の水盤が設置されていた。
生徒は一人ずつ呼ばれ、簡単な構文を唱えて魔法を発動し、その“結果”を教師が観察・記録する。
先に呼ばれたのは、淡い栗髪の少女だった。
「ミラ・アシュコーム」
ざわめきが起こる。
「下級貴族の家系だって」
「へえ、軍属あがりの家の娘が、学院にね」
「ふさわしいかは……様子見ってところかしら」
冷ややかな声が後方から聞こえた。
ミラは聞こえていても気にした様子もなく、落ち着いた足取りで前に出る。
彼女は手をかざし、小さく祈祷句を唱えた。
「導きよ、灯れ」
水盤の表面がふわりと揺れ、中心に光の粒が現れる。
穏やかながらも、揺るぎのない反応だった。
教師は記録を取りながらうなずいた。
「発動までの時間、安定性、いずれも良好」
ミラは静かに礼をして席に戻った。
まわりの視線が、それを「意外」と捉えた空気があった。
そして、次に呼ばれたのは――
「アリア・ウォルフォード」
空気が変わった。
アリアが立ち上がると、その動きだけで周囲のざわめきが増す。
彼女はゆっくりと前に進み、水盤の前に立った。
深呼吸一つ。
手をかざし、小さく唱える。
「願い、灯せ。ここに火を」
沈黙。
次の瞬間、水盤の中心に、ひとつぶの火が“ぽっ”と灯った。
その火は、小さいながらも形を崩さず、まるでそこに“意志”が宿っているかのように静かに揺れていた。
教師は、しばらく見つめてから、静かに口を開いた。
「発動安定。形状明瞭。……ふむ」
評価は淡々としていた。だが、周囲の視線はそれ以上に熱を帯びていた。
「平民が……?」
「今の、崩れなかったよね?」
アリアは一礼して席に戻る。
その背中に、確かに“注目”の視線が集まり始めていた。
それは称賛ではなく、戸惑いと警戒の入り混じったものだった。
だが、もはや誰も、彼女の存在を見過ごせなかった。
⸻
夕刻、学院生活の第一日目は静かに終わった。
寮の配置は形式上「無作為」とされていたが、実際には階級ごとの偏りがはっきりしていた。
アリアが割り当てられたのは、一番奥の小さな部屋。
扉を開けると、狭いながらも机とベッドがあり、窓にはカーテンさえかかっていた。
孤児院とは比べものにならないほど、整った空間。
けれど、ここが自分の居場所だと思えるには、もう少し時間がかかりそうだった。
アリアは窓を開け、静かにつぶやいた。
「……まだ、始まったばかり、か」
今日見たもの、聞いた言葉、感じた冷たさ。
そして、火の灯った水面。
ここが、世界の中心。
なら、自分はそこに“在ってもいい”と、胸を張って言えるようになりたい。
そう思いながら、彼女は机にノートを広げた。
ページの端には、自分で書き留めた構文の断片――
――そして、その下に、そっと走り書きされたひとこと。
「覚えておく。私はここに来た理由を忘れない」
その時。寮の窓の外、少し離れた建物の陰から、誰かがじっとこちらを見つめていた。
その視線の主は、まだ名も語らない。
けれど、その目は、確かにアリアの名を知っていた。
夜の帳が落ちる中、灯りの火が、静かに彼女の横顔を照らしていた。