1.封じられた祈り
王都ラステリアの南端、かつて聖職者の手を離れた古びた礼拝堂の裏に、その孤児院はひっそりと建っている。
石を積み上げただけの灰色の建物は、冬の風をよく通す。
天井は雨の跡でまだらに染まり、夜になると天井裏をねずみが走る音がした。
けれど誰も気にしない。そんなことは、とうの昔に慣れていた。
寝室は礼拝堂の奥にある大広間ひとつだけ。
子どもたちは十数人、擦り切れた毛布と藁束を抱えて、床に横並びで眠る。
小さな吐息や寝返りの音が、夜の静けさに溶けていく。
その静寂の中、アリア・ウォルフォードはそっと体を起こした。
誰も起こさぬよう足音を殺して、礼拝堂の物置へと忍び込む。
出入り口の影に身を寄せ、物音を立てぬように歩く。
誰かに気づかれるのが怖くて、息をひそめていた。
今まで一度も、こんなふうに“こっそり何かをする”ことなんてなかった。
胸の内ポケットには、昨日拾った一枚の紙。
それは埃だらけの木箱の底から見つけた、黄ばんだ祈祷文の断片だった。
記号のような線がいくつも交差し、波のようにうねっている。
最初に見たとき、意味は分からなかった。けれど、目が離せなかった。
「……きれい」
思わず呟いたそのとき、背後から声がした。
「それ、触っちゃダメだよ」
はっと振り返ると、年長の少女――ミーナが立っていた。
髪を三つ編みにまとめた、気の強い孤児院の古株。夜目が利くのはいつものことだった。
「それ、神様の言葉なんだって。平民が見たら、罰が当たるよ」
「罰……?」
アリアは紙を握ったまま、思わず問い返した。
ミーナは少し眉をひそめると、声をひそめた。
「前の神父が言ってた。“選ばれた者以外が文字を読むのは背信だ”って。読むだけで罪になるんだって」
そう言って、ミーナは踵を返しかけて、ふと振り返った。
「……アリア。あんたが何してるかなんて、私は知らないし、知りたくもないからね」
声は小さかったが、背中ははっきりと拒絶を示していた。
それ以上、彼女がアリアに話しかけてくることはなかった。
残されたアリアは、紙を胸に抱えて膝をついた。
読むだけで罪。
じゃあ、なぜこんなにも惹かれるのだろう。
知らなければ、そのままでいられたはずなのに。
それから、彼女の日課が変わった。
神官たちが祈祷札を貼るときの動き、口にする言葉、貼ったあとの火のゆらめき。
アリアは祈りの風景を毎日観察し、記憶し、寝静まった夜にこっそり模写した。
筆はない。煤をつけた小枝で、古布に書いた。
間違えれば洗い、にじめば繰り返した。
誰にも知られずに、何十枚も、同じ構文をなぞった。
意味は分からなかった。
けれど、同じ構文が何度も登場していることに気づいた。
「これが“火”……なのかな」
「この曲線、風の祈りにもあった……」
名前の代わりに、自分なりの意味をあてはめた。
「炎」「我」「願い」――たぶん。きっと。
模写を続けるうちに、祈祷文の一節を口ずさめるようになった。
でも、何度繰り返しても、何も起こらなかった。
「やっぱり……選ばれた人じゃないと、だめなのかな」
その夜、アリアは試しに構文の順番を入れ替えてみた。
記号の並びが、本当に意味を持つなら、順序を変えるとどうなるのか。
指でなぞり、音に出し、紙の中の構文を改めて読み直す。
その中に、一節が目にとまった。
「我に炎の導きを、御手にて灯し給え」
呟いたそのとき、空気がふるりと揺れた気がした。
思わず枕元のランプに目をやる。
すると――
ぽっ、と、小さな灯がともった。
「……っ」
喉の奥で息が止まった。
誰もいない。誰も火をつけていない。
でも、そこには確かに、炎が揺れていた。
アリアは祈祷文を胸に抱きしめた。
意味が分かったわけじゃない。
でも、順序が、形が、再現された。
それは、“読めた”というより、“なぞりきれた”感覚だった。
けれど、それでも――
「できた……」
その瞬間、世界が変わったような気がした。
「私でも……できたんだ」
怖さもあった。誰かに知られたら、罰せられる。
だけど、それ以上に心が震えていた。
「もっと……知りたい」
貴族でも、聖職者でもない。
でも、私はここまで来た。
なら、きっと――
もっと先にも行ける。
夜の静寂の中で、灯った炎がひとり揺れていた。