暖冬……
「今日は暖かいからブーツは合わないんじゃないの?」
ご主人のお母さんの声だった。
「そうね。今日は別の靴にした方がいいかな……」
ご主人は悩んでいるようだった。
わたしは一気に不安になり、居ても立ってもいられなくなった。
ドキドキしながら扉を見つめていると、さっと扉が開いて彼女の手が伸びてきた。
わたしを選んで!
声を限りに叫んだ。
でも、その願いは叶わなかった。
わたしじゃない靴を、わたしの上の棚のハイヒールを掴んだのだ。
「ご愁傷様」
ハイヒールはわたしを憐れむように一瞥して、靴箱から出て行った。
あ~あ、今日は一日中靴箱の中か~、
ため息が出るだけでなく、思い切り落ち込んだ。
ジェンを探すチャンスが無くなったからだ。
暗い靴箱の中で泣きながら次の日が来るのを待つしかなかった。
泣き疲れたせいか、いつの間にか眠っていた。
ご主人が帰ったのも、ハイヒールが棚に戻ったのも知らなかった。
それほど深い眠りだった。
でも、そのせいか、音が聞こえた時にパッと目が覚めた。
それはご主人のスリッパの音だった。
待ちに待った朝が来たのだ。
気温は?
すぐに全身の感覚を研ぎ澄ませた。
しかし、寒くはなかった。
いや、温かいと言った方が当たっている感じだった。
落ち込んだ。
思い切り落ち込んだ。
気分がどんどん沈んでいった。
そんな状態の中、お母さんの声が聞こえた。
「暖冬かも知れないわね」
一瞬にして心が凍った。
暖冬……それは最悪の言葉だった。
もう二度と履いてもらえないかもしれない、と思うと恐怖に震えた。
神様お願い、厳冬にしてください!
必死になってお願いをした。
いつまでも春が来ませんように!
必死になって祈り続けた。
* * *
夜になった。
昼間の暖かさが嘘のように気温が急降下した。
ん?
低気圧?
ん?
寒気団?
そうだ、シベリア寒気団が南下してきている。
わたしに備わった特別な感覚がそう教えてくれていた。
この冬一番の寒さが来ることは間違いないと思った。
祈りが通じたんだ。
神様ありがとう。
なんにも御礼ができないけど、本当にありがとう。
どこかにいる神様に感謝の言葉を呟き続けていると、安心したせいか、知らないうちに眠っていた。
それはとても深い眠りだった。
だからだろうか、すっかり疲れが取れて、気持ち良く目が覚めた。
しかし、耳を澄ませても物音一つ聞こえてこなかった。
もしかして寝過ごしたのではないかと不安になった。
でも、まだ夜明け前かもしれないと思い直して、心を落ち着けた。
それでもじりじりとしながら待っていると、階段を下りてくる音が聞こえてきた。
寝過ごしたわけではないようなのでホッとしていると、ドアがバタンと締まる音がした。
リビングからの音のようだった。
朝食だろうか?
だとすると、もうすぐだ。
ウキウキしながらその時を待った。
しかし、長かった。
夜明け前から待っているのだ。
1秒が1時間に感じられるほど時の経つのが遅かった。
早くして!
叫んだ途端、気持ちが通じたのか、ドアが開く音が聞こえて、スリッパたちがパタパタと音を立てて近づいてきた。
「わ~、息が白いわ」
ご主人の声だった。
「風邪をひかないように、しっかり温かくしていってね」
お母さんだった。
「うん。マフラー巻いたし、厚手の手袋にしたし、今日はブーツで行くわ」
靴箱が開くと、ご主人の手はまっすぐにわたしに伸びてきて、2日ぶりにお供をすることになった。
あ~、温かい。
足が入ってくると、寒気が一気に吹き飛んだ。
それに、ご主人の足のなんとも言えない匂いが鼻をくすぐり、一気に幸せに包まれた。
いや、ただの幸せではない。
もしかして至福?
そうだ、至福だ。
これ以上はない幸せだった。