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靴箱⁉

 

 目が覚めると、まだ暗かった。


 というより、真っ暗だった。


 夜中? 


 周りを見回したが、暗くてよく見えなかった。


 とその時、人の声が聞こえた。


 えっ? 

 人の声? 

 なんで? 


 一人住まいのわたしは、身を固くして耳を澄ました。


 すると、階段を上がっていくような音が聞こえた。


 階段? 


 そんなはずはない。

 わたしが住むマンションはすべてワンルームで、室内に階段はないのだ。


 何処だ、ここは……、


 恐怖で身がすくんだ。

 動けないまま、暗闇の中でじっとしているしかなかった。


 それでも、しばらくすると暗さに目が慣れてきた。

 ん?

 んん?

 んんん?

 どういうことだ? 

 左にも右にも靴が見える。

 それに靴のニオイが充満してる。

 もしかして、靴箱か? 

 えっ⁉

 ええっ⁉

 えええっ⁉

 なんで、わたしが?

 気絶しそうになって、ふ~っと意識が遠のきかけた。


 しかしその時、いきなり光が差し込んできた。

 誰かが靴箱を開けたのだ。


 ……?


 意識をはっきりと取り戻す前にわたしは掴まれて、外に出された。

 そして、玄関の床に置かれ、いきなり足が入ってきた。


 女性の足だった。

 一気に甘い匂いが広がって夢見心地になりそうになったが、靴箱の扉が閉められて現実に引き戻された。


 見ると、全面ガラス張りだった。

 しかし、そこにわたしの姿はなかった。

 ブーツがわたしを見つめていた。


 ブーツって……、 


 なんで? どうして? と思う間もなく女性は玄関を出て、コツコツと軽快な音を立てて歩き始めた。


 景色がどんどん変わっていく。

 物凄いスピードで変わっていくので目がついていかない。


 それに目の位置がバラバラだ。

 左目は左のブーツに、右目は右のブーツにあるから、彼女が左足を出すと左目が前に行き、右足を出すと右目が前に行く代わりに左目が後ろに下がるのだ。

 ピントというか、遠近感を掴むのが難しい。


 それに、急いでいるのか、早足になってきた。

 左、右、左、右、

 動きが目まぐるしすぎて、まったくついていけない。

 それに、息が上がってきた。


 もっとゆっくり歩いて!


 叫ぼうとした時、なんの前触れもなく足が止まった。


 ん? 


 信号だった。

 横断歩道の信号が赤になっていた。


 ホッとした。


 ここで息を整えよう。

 深呼吸をすると落ち着いてきたので、ゆっくりと周りを見回した。

 すると、いろんな靴が見えた。

 紳士靴、ハイヒール、運動靴、きれいな靴、汚れた靴、おニューの靴、よれよれの靴、いろんな靴が信号待ちをしていた。


 それにしても地面が近い。


 こんなに目の位置が低いと……、


 ワッ! 


 いきなり目の前に犬が現れた。

 顔中毛だらけの犬だった。

 茶色っぽいというか、ゴールドっぽいというか、そんな色をしていた。


 なんという名前だったかな?


 思い出そうとしたが、何も浮かんでこなかった。


 首を傾げていると、犬も首を傾げて不思議そうに見つめていたが、突然鼻を近づけてきてニオイを嗅いだ。

 クンクンクンクンと嗅いだ。

 そして、顔を上げた。


「あなたはブーツ男? それとも、ブーツ子?」


 イギリス訛りの犬語で問いかけられた。


「どっちなの?」


 しつこく訊いてきたが、わたしは答えなかった。

 その代わり、「お前はイヌ男? それともイヌ子?」と問いただした。


 すると犬は、フン、と鼻を上げて、「私はエリザベスよ」と自慢げに言った。


 えっ? エリザベス?


「そうよ。高貴な生まれなの」


 それを聞いて、思い出した。

 上流階級に人気の犬で、動く宝石とも呼ばれている犬だということを。


 確か……、


 そうだ、ヨークシャーテリアだ。


 ヨーキーか……、


 なるほど、と思った途端、いきなり「お近づきの印に」と言って、わたしの方にお尻を向けて女座りをしようとした。


 えっ、

 それって、

 止めろ! 


 焦って叫んだ瞬間、飼い主に紐で引っ張られた。


 オシッコはかからなかった。

 思わず安堵の息が漏れた。


「ごめんなさい」


 飼い主がわたしのご主人に謝った。


「何度言ったらわかるの、靴にオシッコしたらダメって言ってるでしょ!」


 エリザベスは思い切り叱られていた。


 べ~、だ。


 思い切りあっかんべ~をすると、エリザベスはバツが悪そうに遠ざかっていった。


 ふ~、


 大きく息を吐くと同時にご主人が歩き出した。

 信号が青になったのだ。

 またせわしなく左右の目が前後に動き出した。

 しかし、今度はすぐに立ち止まった。

 バス停だった。

 数人が並んでいた。


 バスはなかなか来なかった。

 ご主人はイライラしているようで、時計を何度も確認したし、その度にバスが来る方角へ目をやった。


 しばらくしてやっとバスが来た。

 ご主人は前の人との距離を縮めて、絶対に乗るというような悲壮感を漂わせていた。


 バスが止まって、ドアが開いた。

 前に並んでいた人たちが次々に乗車すると、それに続いて乗り込もうとしたが、ステップの所までいっぱいになっていた。


「もういっぱいなので、次のバスにしてもらえませんか」


 運転手が顔の前に左手を立てた。

 しかし、それが聞こえていないかのように、ご主人はステップに足をかけた。


「乗ります。乗らせて下さい」


 ご主人が悲壮な声で哀願した。

 乗れなかったら死ぬというような切迫した声だった。


 さすがに運転手も無下(むげ)にできなくなったのか、肩をすくめて、仕方ないな、というふうに乗客に声をかけた。


「もう少し詰めてください。あと一人分詰めてください」


 その途端、車内がざわついた。

「え~」という声も聞こえた。


 協力してくれるかな?


 心配になったわたしは目を真後ろに動かして、上目遣いで様子を窺った。


 すると、すぐ後ろの乗客が不満顔でご主人を見つめていた。

 無理に乗り込まないでよ、というような険しい表情だった。


 でも、ご主人にはその顔は見えていなかった。

 お尻を突き出して後ろ向きに乗り込もうとしていたからだ。何がなんでも乗り込むんだというように、ぐいぐいぐいぐい、お尻に力を込めて押し込もうとしていた。


 わたしは乗り口の端ギリギリの所で彼女を支えた。

 油断すると落ちそうだったので、力一杯(ちからいっぱい)踏ん張って支えた。


 なんとしてもご主人をこのバスに乗せなければ!


 主君に仕える忠実な家来のように、必死の形相で踏ん張った。


 う~! 


 一層力を入れてお尻を押し込もうとしているご主人を支えて、わたしも必死になって頑張った。

 すると、一歩バスの中に入ることができた。


 やった!


 なんとか乗り込めた。


「ドアを閉めます」


 運転手の声と共にドアが閉まった。


 終点で降りると、一気に視界が開けた。

 すし詰め状態からやっと解放されたので大きく深呼吸したが、これでゆっくり、とはいかなかった。

 ご主人は駅へ向かうエレベーターを駆け上がったのだ。


 イチニ、イチニ、


 わたしはせわしない動きについていくのが精一杯だった。


 それでも、駅の改札を抜けたのでヤレヤレと息を吐いたが、それも束の間、今度はホームに向かって駆け下りだした。


 あっ、ぶつかる! 


 階段を上ってくる人と至近距離で交差した。

 しかし、幸いにもぶつからなかった。


 ふ~、緊張の連続だ。


 わたしは冷や汗を拭った。


 ホームに降りると、多くの人が並んでいた。

 ご主人は人が少なそうな列を探して、その後ろに並んだ。

 そして、ホームの時計を見た。何度も見た。


 会社に遅れそうなのかな? 


 ちょっと心配になったが、すぐに電車が来たので、ほっと胸を撫でおろした。


 しかし、止まった瞬間、嫌な予感がした。

 超満員だった。

 ドアの窓に顔が押しつけられている人が見えた。


 え~、これに乗るの? 

 やめてよ。死んじゃうよ。

 会社に遅れそうなのはわかるけど次にしようよ。


 ご主人を止めようとした。

 でも、声は届かなかった。

 上目遣いで見ると、ご主人は意を決したような表情でドアを見つめていた。


 乗るしかないんだろうな。

 これを逃すと会社に遅れてしまうんだろうな。

 仕方ない。


 わたしは覚悟を決めた。


 電車のドアが開くと、勢いよく人が飛び出してきた。

 まだ降りる人がいるのに、無理にかき分けるように乗車する人がいて、ドア付近は混雑を極めた。

 肩がぶつかったと言って小競り合いしている人もいた。


「ドアが閉まります」


 アナウンスと共に発車の音楽が鳴ると、まだ乗り込めていない人がパニック状態になった。


 それはご主人も同じで、今度もお尻を突き出して後ろ向きに乗り込もうとしていた。

 でも、体半分入り切らなかった。

 それでも両足を踏ん張って入ろうとした。

 もちろん、わたしも必死になって踏ん張った。


 顔を真っ赤にして踏ん張っていると、発車を知らせる最終のベルが鳴った。


 もう少しだ、頑張れ。


 気合を入れて、わたしは思い切り踏ん張った。


 すると、なんとかドアの内側に入れそうになったが、どこからか制服の人が来て、乗客の体を押し始めた。


 あっ、胸を押される! 


 そう思った瞬間、ご主人はハンドバッグを抱えるようにして胸の前で両手を交差した。

 制服の人はご主人の交差した手を押した。


 ほっ、


 胸を撫でおろすと、ほぼ同時にご主人の体が完全に車内に入った。

 するとすぐにドアが閉まり、電車が動き出した。


 よかった……、


 思わず安堵の息が漏れた。



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