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キスをしちゃダメ!

 

 しばらくしてバスが止まった。

 終点に着いたのだ。


 バスを降りると、前私は立ち止まって、時刻表付きの標識を見た。


「素敵な町名ですね」


 わたしが頷くと、いきなり前私が手に触れてきた。

 そして、そっと包み込むように手を握った。


 えっ、うそ……、


 前私らしくない行動にドギマギしたわたしは思わずうつむいた。

 すると、ブーツが目に入った。


 握り返すのよ、


 ヴィヴィだった頃のわたしの声が聞こえたような気がした。


 そうね、


 ドギマギが薄らいだせいか、柔らかく握り返すことができた。

 すると、「あなたの町を案内していただけますか?」という前私の声が優しくわたしを包み込んだ。

 背中を押されるような声だった。

 わたしは頷いたあと、お気に入りのカフェに向かって歩き出した。


 角を曲がると、見慣れた犬が近づいてきた。

 エリザベスだった。

 ブーツをクンクンと嗅いだので、わたしは今までのように彼女の声を聞こうとした。

 しかし、何も耳に入ってこなかった。


 ブーツから抜け出てしまったわたしが犬語を理解することはもう二度とないのだろうか? 


 そう思うとちょっぴり落ち込んだが、わたしが変身したことを知らないエリザベスは、ひとしきりブーツと前私のローファーの匂いを嗅いだあと、上目遣いでわたしを見た。

 それは、何かを訴えるような目だった。


 幸せになるのよ、


 そう言っているように感じた。


 ありがとう、


 心の中で呟くとそれが伝わったのか、「ク~ン」と鳴いて離れようとした。

 しかし、足は動かなかった。

 知らない犬が近寄ってきて、ジョセフィーヌのお尻に鼻をつけたのだ。

 ジョセフィーヌは嫌がったが、その犬は構わずクンクンと嗅ぎまわって、いきなりマウンティングを始めた。


 ヤメテ!


 わたしが叫んだと同時に慌てて飼い主が引き離した。


 危なかった……、


 事なきを得てほっとしたが、それでもドキドキが止まらなかった。

 ヘタをしたらジョセフィーヌが無礼な犬の子供を宿したかもしれないのだ。

 犬事ながら刺激が強すぎた。


 それは前私も同じだったのか、いきなり手を強く握ってきた。

 すると不意に妄想が広がり、前私に抱かれる艶めかしい姿が現れた。


 もしかして、この人と結婚するのかしら? 

 そうなったら、この人の子供を産むのかしら?


 妄想が続いた。


 どんな赤ちゃんかしら?


 妄想が加速した。


 もしかして、その赤ちゃんに乗り移るのかしら? 

 そのあとは、どうなるのかしら? 

 ベビー服やベビーベッドやベビーカーへ移ってしまうのかしら? 

 それから先は?

 ……、


 不安になって妄想を止めた。

 すると、前私が心配そうにわたしを覗き込んだ。


「なんか顔色が良くないですよ」


 その声は本当に心配しているという感じだった。

 それに、手はまだ繋がれたままだったのでボーっとした状態だったが、それでもなんとか声を絞り出した。


「いえ、大丈夫です」


「いや、大丈夫じゃない。休みましょう」


 前肢の手がわたしの肩に回り、ぐっと引き寄せられた。

 それは少し強引だったが、〈あなたのことはしっかり守る〉というような強い想いが感じられた。


 わたしは身を任せて彼の腕の中に納まった。

 すると、運命という言葉が、更に、執念という言葉が頭に浮かんできた。

 前私の想いがご主人の履くブーツに乗り移り、1年後の同じ日に同じ場所で再び出会い、ブーツから抜け出てご主人の中に入った。


 これを運命と言わずしてなんと言えようか、

 執念と言わずしてなんと言えようか、

 なんとしてでも実らせなければならない!


 強い気持ちが沸き起こってくると、次にすべきことが浮かんできた。

 それは、前私に戻ることだった。


 わたしはブーツの時に女心を経験した。

 女性と付き合った経験がほとんどない前私にとってこれは貴重なものに違いない。


 更に、わたしはご主人について多くのことを知っている。

 その情報を持って前私に戻れば、ご主人の気持ちを理解しながら付き合うことができる。

 もしかしたら、結婚という最良の結果に辿り着くことができるかもしれないのだ。


 よし、決めた。

 前私に戻る。


 心はすぐに固まったが、間を置かず次の疑問が湧いてきた。


 どうやって?


 そうなのだ。

 そう簡単に前私に移動することはできない。

 よっぽどの何かがなければ難しいのだ。


 う~ん、よっぽどの何かか……、


 呟いてはみたが、それがなんなのか、なんのイメージもわかなかった。

 答えのないまま前私に支えられて歩くしかなかったが、いきなり何かを踏んづけて、よろめいた。


 えっ! 


 慌てて振り返ると、こぶし大の石がわたしを見上げていた。


「キスだよ」


 突然、声が聞こえたような気がした。


 もしかしてあの時の石だろうか? 

 そう思ってじっと見つめたが、二度と声は耳に届かなかった。

 それでも、さっきの言葉が頭から離れることはなかった。


 キスか……、


 心の中で呟くと、ブーツを抜け出した時のことが蘇ってきた。

 バスが大きく揺れて前私のローファーと接触した瞬間、ご主人の体に入ったのだ。

 接触が重要なポイントであることは十分に考えられる。

 ましてや、キスだ。

 強烈なインパクトに違いない。


 よし、やってみよう。


 心を決めた。

 しかしその時、


「待ちなさい!」


 さっきとは違う声がわたしを止めた。


 すぐに辺りを見回した。

 でも、誰もいなかった。

 空耳だと思ったが、また、どこからか声が聞こえた。


「よく考えて!」


 それは、「待ちなさい!」の声とよく似ていた。


 誰?


 耳を澄ませて五感を研ぎ澄ませ、全身で感じようと努めた。

 でも、それ以降声を聞くことはできなかった。


 もしかして、


 なんの根拠もないが、心の声かもしれないと思った。


 だとしたら……、


 もっとよく考えなければならない。

 何かを見落としているかもしれないのだ。

 わたしはブーツから抜け出した時のことを思い返した。


 あの時はローファーに接触して、ブーツを抜け出した。

 しかし、ローファーには移行せず、ご主人の中に入った。

 ということは、前私とキスをしても、必ずしも前私に移行できるわけではないことになる。

 もしかしたら、ローファーに移行することになるかもしれないのだ。

 それではなんの意味もない。

 というより、今のままの方がメリットが大きい。


 ダメだ、ダメだ。 


 キスのことは頭からすっぱり追い出すことにした。


 しかし、振出しに戻ってしまった。


 う~ん、困った、


 頭を抱えた。


 何か手立てはないか?


 自らに問うたが、新たな答えは思い浮かばなかった。

 完全に袋小路に入ってしまった。

 仕方がないので、ジタバタするのを止めて心を無にすることが大事だと言い聞かせた。

 すると、前私が話しかけてきた。


「この町に引っ越してきてもいいですか?」


 頼りないと思っていた前私が勇気を振り絞っていた。


「あなたと毎日会いたいから」


 照れながらもはっきりと言い切った。

 こんな積極的な前私は見たことがなかった。


 この1年で何があったのだろうか……、


 自分の知らない前私の成長を目の当たりにして、驚くしかなかった。


「1年前、あなたのブーツになりたいと真剣に思いました。でも」


 視線を落とした。

 ブーツを見ているようだった。


「今は、この町に住んであなたと同じ空気を吸いたいと真剣に思っています」


 前私がわたしを見つめた。

 そして、顔を近づけた。

 どんどん近づいて、唇が触れそうになった。


 キスをしちゃダメ!


 わたしは大きく顔をのけ反らそうとしたが、時すでに遅かった。

 唇がゆっくりと合わさった瞬間、ご主人の体から遊離を始めた。


 前私に移行して!


 わたしは声の限りに叫んだ。

 しかし、そうはならなかった。

 移ろうとした瞬間、何かに(はば)まれたのだ。



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