前私
ご主人は受付で整理番号を受け取ってから、トイレへ行ってお化粧を直した。
そして、腕時計を見たあと、ベンチに腰を掛けた。
ここで開場を待つのだろう。
ちらっと横を見ると、前髪を下ろしてメガネをかけた若い男性がうつむくようにして本を読んでいたが、ご主人のことが気になるのか、顔を上げてチラ見をした。
その瞬間、心臓が止まりそうになった。
見覚えのある男性だった。
いや、見覚えがあるどころではなかった。
前私だった。
ブーツになる前のわたしが横にいた。
こんなことって……、
ふ~っと意識が遠のいて、ほとんどあっちの方へ行きそうになったが、ダメだ! と気合を入れて、すんでのところで踏みとどまった。
危なかった……、
冷や汗が全身を覆っていたが、深呼吸をして心を落ち着かせて、前私を見つめた。
コンタクトを取らなければ!
はやる気持ちのまま声をかけた。
しかし、返事は返ってこなかった。
前私との意思疎通はできないようだった。
では、こいつはどうだ?
前私が履いているタッセルローファーに話しかけた。
しかし、うんともすんとも返事はなかった。
靴同士の会話もできないようだった。
どうすればいいんだ?
頭を抱えた。
ご主人と前私の仲を取り持ちたいのに、その手段が見つからなかった。
焦っていると、1年前と同じように前私はうつむいたままポケットからガムを取り出し、包み紙を剥いで、そのガムを口に入れた。
すると、わたしのご主人もバッグからガムを取り出した。
同じガムだった。
1年前とまったく同じ偶然が重なった。
その時、係の人が「開場します」と告げた。
その声に反応してご主人がすっと立ち上がったが、一歩踏み出そうとして、よろめいた。
危ない!
わたしは踏ん張った。
ご主人を支えようと力を入れて踏ん張った。
でも、支えきれなかった。
倒れる!
そう思った瞬間、前私がご主人を抱きかかえた。
「大丈夫ですか?」
前私がご主人をベンチに座らせると、「すみません。ちょっと立ち眩みしちゃって……」と頭を下げた。
「少し休まれた方がいいですよ。何か冷たいものでも買ってきますね」
前私は自動販売機の方へ歩き出そうとした。
「でも、もう開場の時間ですから……」
ご主人は入場口に視線を向けた。
「大丈夫ですよ。整理券を持っているのだから、いつでも入れますから」
何番ですか? と問われるままにご主人が整理券を見せると、「ほとんど同じ番号ですね」と言いながら前私も整理券を見せた。
それから自販機のところへ行って、炭酸飲料を買って戻ってきた。
そして、「落ち着かれたら一緒に入りましょう」と笑みを見せた。
ご主人は「ありがとうございます」と素直に受け取ったが、手に持ったまま蓋を開けることはなかった。
少しして、ご主人が入場口の方へ視線を向けた。
列が短くなっていた。
かなりの人が入場したようだった。
「ありがとうございました。そろそろ」
ご主人が前私に礼を言って立ち上がった。
すると、前私はエスコートするようにご主人の腕を取って支えた。
「あっ、ありがとうございます。でも、大丈夫ですから……」
それでも前私は手を離さなかった。
「中に入るまでお手伝いさせて下さい」
照れながらエスコートを始めた。
やるじゃない、
わたしは前私に拍手を送った。
「ご迷惑おかけして……」
ご主人が済まなさそうな声を出すと、前私は反対の手で頭を掻いた。
「迷惑だなんて、とんでもないです」
謙遜していたが、こんな素敵な女性をエスコートできるチャンスは絶対に逃さないという強い決意が満ちているように見えた。
わたしは前私の心情が痛いほどわかった。
だから、頑張れ! 頑張れ! と何度もエールを送った。
ご主人と前私が入場したのは開演5分前だった。
一番後ろの席に並んで座ったが、前私は落ち着かない様子で少しそわそわしていた。
何か話題を探そうとしているみたいだった。
大丈夫かな、と思っていると、突然、前私がわたしを見た。
じっと見た。
すると、どうしてか口角が上がった。
何かを思いついたようで、すぐに顔を上げて、ご主人に視線を移した。
「素敵なブーツですね」
いきなり、わたしを褒めた。
「ありがとうございます。私のお気に入りなんです」
ご主人が嬉しそうに笑った。
その途端、前私は、しめた、というような顔をした。
でもすぐに表情を戻して、何かを必死に考えるように眉根を寄せた。
話を切らさないように次の言葉を探しているようだった。
「本当に素敵なブーツですよね」
さっきと同じ言葉で繋いでから、そうだ、というふうに視線を落として、わたしを見た。
「ブーツの色はなんというのですか?」
ま~素晴らしい質問だこと、
わたしは前私に二度目の拍手を送った。
「オレンジ系のヴィヴィッド・トーンです」
ブーツを2回も褒められたご主人はさっきよりも嬉しそうな顔で笑った。
それで気を良くしたのか、前私の顔に生気が満ちた。
よし、この話で盛り上げよう、というような気合の入った顔だった。
しかし、無情にもブザーが鳴った。
開演を知らせるブザーだった。
司会者を紹介する音声が耳に届いた。
前の席が邪魔になってまったく見えないので、ステージの様子はわからなかったが、中年の男性のようで、評論家として名の通った人だという。
自己紹介が終わると、ゲストを呼んだ。
その人が現れたのか、大きな拍手が沸き起こった。
大きな賞を獲った女性小説家だと紹介されて、その理由がわかった。
「今日は『小説家がいつも考えていること』という内容で対談を行います」
司会者が告げたあと、小説家が話し始めた。
「大事なのは『いか』です。異なるものに化ける、と書きます」
観客の頭の中にその言葉が定着するのを待つかのように時間を置いてから、「慣れ親しんだ日常的なものを非日常的なものとして表現することができますか?」と問うた。
異化か……、
よくわからないな~、
か細い声で独り言ちた前私がご主人の様子を盗み見ると、熱心にメモをしていた。
前私は慌てて上着の内ポケットからメモ帳とボールペンを取り出して、ご主人と同じようにメモを取った。
異化、異化、異化、と呟きながら同じ言葉を三つ書き込んだようだった。
その後もご主人がメモを取り始めると、盗み見しながら同じ言葉を自分のメモ帳に書き写し続けた。
あとで会話の材料になる、そんな魂胆が見え見えだったが、わたしは前私がいじらしく思えてきた。
1時間ほどで対談が終わった。
「面白かったですね」
退場しながら、前私がご主人に話しかけてきた。
「小説家って、熊になったり、サルになったり、イモリになったり、蝶になったり、異なるものに化け続けているんですね」と用意周到に話を振った。
「そうみたいですね。でも、楽しそう……」
ご主人が声を立てて笑った。
おっ、いけそうじゃん。
こんな笑い声は滅多に聞けないわよ。もうひと踏ん張りよ!
わたしは前私の応援団長になってエールを送った。
「僕だったら……」
前私は視線を落としてわたしを見た。
「僕だったら、あなたのブーツになりたい」
あらっ、そう来たのね。
どうだ、どうだ、どうだ、ご主人の反応は、
「えっ? 私のブーツですか?」
ちょっと驚きながらも、ご主人は満更でもなさそうだった。
イケるかも!
わたしは前私が発する次の言葉を固唾を飲んで待った。
「ちょっとお茶でもいかがですか?」
えっ?
ウソ!
そっちなの?
ブーツの話題でもっと押してよ。
わたしは地団太を踏んだ。
「ちょっと疲れたので帰ります」
案の定、ご主人はやんわりと断った。
あ~あ、終わっちゃった。
バカだな~、いいとこまでいってたのに……、
わたしはガックリと肩を落とした。